最後の条件
ウガルの城門は閉ざされていた。
丘の上から見下ろした時、最初に目に入ったのは港ではなかった。石造りの城壁だ。白い石灰岩を積み上げた二重の壁が、街を取り囲んでいる。アシュタルの記憶では、城門は日の出と共に開き、日没と共に閉じる。今は真昼だ。門が閉じている理由はない——はずだった。
「閉まっている」
アナトが眉を寄せた。金色の瞳が城壁を射抜くように見つめている。神の目は人間よりも遠くを捉える。壁の上に兵士の姿を認めているのだろう。
「防衛態勢ですね」
アシュタルの目にも見えた。城壁の上に人影が動いている。槍を持った兵士が巡回している。平時のウガルなら、城壁に立つ兵士は二人か三人だ。今は十人以上が見える。
「嵐の被害か」
バアルの声が低かった。
その通りだろう、とアシュタルは思った。季節外れの暴風雨が何度もウガルを襲った。港湾都市にとって嵐は最大の脅威だ。船が壊れ、波止場が崩れ、交易が止まる。そして原因不明の嵐が続けば、人々は恐怖する。門を閉じ、外敵を警戒する。
皮肉なことだ。嵐の原因はバアルの帰還。つまりウガルの門を閉じさせたのは、今この丘に立っている嵐の神自身ということになる。
バアルがそれに気づいていないはずがなかった。
「行きましょう」
アシュタルは帳面をしまい、丘を下り始めた。
「門が閉まっているぞ。どうする気だ」
アナトの問いに、足を止めずに答えた。
「開けてもらいます」
「どうやって」
「口で」
アナトが呆れた顔をした。だが否定はしなかった。この旅の中で、アシュタルの「口」が門を開けた回数を覚えているからだろう。冥界の七つの門でさえ、最後には言葉で通った。ウガルの城門がそれより堅固であるはずがない。
丘を下り、街道に出た。
街道もまた荒れていた。石畳の一部が剥がれ、路肩の排水溝が瓦礫で塞がれている。嵐の爪痕。道沿いの商店らしき建物が何軒か屋根を失い、布で応急処置されていた。
人の姿が見えた。門の前に数人の旅人が立ち往生している。商人風の男が二人、荷馬車の隣で腕を組んでいる。門前で足止めを食らっているようだった。
「すみません。門はいつから閉まっていますか」
商人の一人に声をかけた。相手はアシュタルを見た。若い男。旅の汚れがこびりついた外套。背後に赤髪の女と黒髪の男。武器らしいものは——女が腰に双剣を差しているが、男二人は丸腰。
「三日前からだ。嵐が酷くてな。城壁の一部が崩れた。修理が終わるまで門は開けんと言っている」
三日。長い足止めだ。商人にとって三日の遅延は致命的になりうる。相手の表情にも焦りが滲んでいた。
「入れないんですか。身分証があれば——」
「出してみろ。城壁の上から怒鳴り返されるだけだ。嵐の後はいつもこうだ。兵士どもが過敏になる」
アシュタルは城門を見上げた。
石造りの門扉は頑丈で、正面突破は論外だ。仮にアナトが力ずくで破ることは可能だろうが、それでは意味がない。ウガルに帰還するのだ。門を壊して入る帰還など、追い出されるのと同義だ。
「アシュタル」
アナトが低い声で呼んだ。名前ではなく——いや、「小虫」でも「商人」でもなかった。「アシュタル」だった。まだ馴染みのない響き。嵐の夜に初めて名前を呼ばれたあの瞬間から、時々——本当に時々——名前で呼ばれることがある。その度に、胸の奥が微かに軋む。
「あの兵士の顔、知っているか」
城壁の上を指している。アナトの目に映っている兵士が、アシュタルの知り合いかどうかを確認している。神の視力で城壁の上の顔が見えるのだ。
アシュタルは目を凝らした。人間の目では、ここからでは顔まで判別できない。だが——
「もう少し近づけば分かるかもしれません」
門に向かって歩いた。バアルの存在をどうするか、一瞬だけ考えた。嵐の神がウガルの門前に立てば、何が起きるか分からない。印が反応するかもしれない。だがバアルは今、力を抑えている。外見は疲れた旅人の男にしか見えない。問題ないだろう。
城門の前に立った。
見上げた。石壁は高い。三階建ての建物ほどの高さがある。壁の上から、槍を構えた兵士がこちらを見下ろしていた。
「止まれ。門は閉鎖中だ」
若い兵士の声だ。緊張している。嵐の後の警戒態勢で、神経が尖っているのだろう。
「ベン=シャハル商会のアシュタルです。ウガルの民です。帰還しました」
声を張った。商人の声は通る。市場の喧噪の中で値段を叫ぶ訓練を、子供の頃から積んでいる。
城壁の上に動きがあった。兵士たちが顔を見合わせている。「ベン=シャハル」の名前に反応したようだった。ウガルの中堅商会だ。街の人間なら名前くらいは知っている。
「証は」
別の兵士が声をかけてきた。年配の声。こちらのほうが落ち着いている。
腰の袋から銅の身分証を取り出した。商会の紋章が刻まれた円盤。父から預かったものだ。旅に出る前に「必ず持って行け」と渡された。商人にとって身分証は命と同じだ。どこの港でも、身分証一枚で門が開く——平時なら。
「投げ上げろ」
言われた通り、腕を振って投げた。銅の円盤が弧を描いて城壁の上に飛んだ。兵士の一人がそれを受け取り、手の中で確認している。
待った。
商人は待つのが仕事だ。交渉の九割は待つことでできている。焦る者が負ける。そして今、焦る理由はない。身分証は本物だ。ベン=シャハルの紋章は偽造できない。銅に刻まれた紋章の中に、父だけが知る微細な傷がある。それが真贋の決め手だ。
「……確認した。ベン=シャハルのアシュタルだな」
年配の兵士が身を乗り出した。顔が見えた。覚えのある顔だった。港の警備兵。名前は——思い出せない。だが父の商会に品物を卸していた兵舎の担当者の部下だ。
「お帰りなさい。だが——連れは?」
背後のバアルとアナトに視線が向いた。
「旅の同行者です。身元は僕が保証します」
「保証、と言われてもな。今は非常時だ。身元不明の者は——」
「ベン=シャハル商会が保証する者の入城を拒否する権限は、警備隊にはないはずです。商会規約の第七条。非常時であっても、登録商会の保証人がいる場合は——」
兵士が口をつぐんだ。
規約を暗唱する十八歳の商人の息子を、城壁の上から見下ろしている。呆れているのか感心しているのか、判別がつかなかった。
「……親父さんに似てきたな」
年配の兵士が苦笑した。
門が軋みを上げて開いた。




