バアルの沈黙
潮の匂いがした。
それは風に混じって、かすかに——だが確かに届いた。乾いた砂漠の空気とは違う、湿った、塩辛い重さを含んだ風。鼻腔の奥がざわついた。身体が覚えている匂いだった。
ウガルの匂いだ。
アシュタルの足が止まった。道の先を見据える。まだ街は見えない。丘の向こう、地平線の彼方。だが風は嘘をつかない。潮風はウガルの方角からしか吹いてこない。港湾都市の匂い。魚と塩と船底の松脂と——そして、帳簿の革の匂い。最後のは記憶の補正だろうが、鼻はそう訴えていた。
「どうした。立ち止まるな」
アナトが振り返った。数歩先を歩いていた。いつもの距離。近すぎず、遠すぎず。守れる距離で、だが隣ではない距離。
「潮の匂いがします」
アナトの鼻が微かに動いた。神の五感は人間の比ではない。当然、とっくに気づいていたはずだ。
「港が近いのか」
「ええ。あと二日もあれば——」
バアルが足を止めた。
三人の旅路は、バアルが加わってから微妙に歩幅が変わっていた。バアルは大股で歩く。嵐の神の歩幅は人間のそれとは違った。だがこの旅で、少しずつアシュタルの速度に合わせるようになっていた。合わせている、という意識すらないのかもしれない。自然に。三人が三人の速度で歩くうちに、いつの間にか同じ歩幅になっていた。
バアルが空を見上げた。風に黒髪が揺れる。帰還直後の白混じりは薄れ、本来の色が戻りつつあったが、まだ完全ではない。右腕の雷の紋様も、日によって濃さが変わる。今日は薄い日だった。
「この風は覚えている」
バアルの声が低くなった。嵐の神の記憶。何百年、何千年の記憶の中に、この風がある。
「ウガルの港は——俺が王だった頃から賑わっていた。船の数が多い街だ。波止場に立つと、世界中の言葉が聞こえた」
アシュタルは少し驚いた。バアルが過去を語ることは稀だった。冥界からの帰還後、バアルは多くを語らなかった。力の制御に集中していた、というのもあるだろう。だがそれだけではない。長く留まりすぎた冥界の記憶が、地上の記憶を薄くしているのかもしれない——と、アシュタルは推測していた。
「帳簿にも記録が残ってますよ」
口をついて出た。軽口だ。深刻な空気を和らげようとする商人の癖。
バアルが振り返った。一瞬、表情が動いた。
「帳簿?」
「ええ。ベン=シャハル商会の記録です。祖父の代からの。嵐の季節に港が閉まると商売に響くので、嵐神の祭りが終わった日付と、港が再開した日付が全部残ってます。バアル様が嵐を収めてくださった日は、帳簿の中では『好日』と記録されてました」
バアルの口元が緩んだ。
笑った——というほどの変化ではなかった。だが唇の端がわずかに上がった。微笑。嵐の神の微笑は、雷雲の合間から覗く青空のようだった。一瞬で消えるが、その一瞬に穏やかさが凝縮されている。
「好日、か。商人は神の御業も帳簿に記録するのだな」
「商人にとっては利益に関わることが全てですから。神の御業も天災も、帳簿の前では平等です」
バアルが低く笑った。今度は声に出して。
「面白い。人間の中でもお前は——いや、やめておこう。褒めると調子に乗るだろう」
「商人は褒められても値引きはしませんよ。むしろ吊り上げます」
アナトが鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを言い合っている暇があるなら歩け。港が近いなら急ぐぞ」
だがその声には、いつもの苛立ちとは違う色が混じっていた。何と言えばいいのか——居心地が悪い、とでも言うべきか。バアルとアシュタルが言葉を交わす光景に、アナトは馴染めずにいるようだった。
歩き始めた。三人の影が西日に伸びる。
バアルの微笑が記憶に残った。帳面に書くような内容ではない。だが頭の片隅に留めておく価値はあった。嵐の神が人間の商人に笑いかけた。それは小さな出来事だが、この旅が「嵐神を救出する任務」から「三人の旅」に変わった証のようなものだった。
ウガルへの帰還が近い。
潮風が強くなってきた。海鳥の声が遠くに聞こえる。砂地に混じって小石が増え、足音が変わった。景色も少しずつ変化している。乾ききった砂漠の色から、地中海沿岸の色へ。オリーブの木が点在し始め、低い石垣が畑を区切っている。人の営みの痕跡。
だが——様子がおかしかった。
畑が荒れている。オリーブの木が何本か倒れていた。石垣の一部が崩れている。嵐の痕跡だ。季節外れの暴風雨が、この辺りも襲ったのだろう。バアルの帰還に伴う天候暴走。恵みの雨のはずが、制御できない暴風雨として各地を打った。
バアルの表情が曇った。
何も言わなかった。だが歩調が微かに落ちた。自分の力が引き起こした被害を、黙って見つめている。嵐の神の目に映る荒れた畑は、人間の目に映るそれとは違う重さを持つのだろう。
アシュタルは帳面を開いた。
被害状況の記録。商人の習慣だ。畑の被害面積、倒木の本数、石垣の崩壊箇所。数字にすれば感情が入り込む余地が減る。だが今は——数字が重かった。この被害の原因は、自分がバアルを連れ戻したことにある。恵みと災い。いつでも裏表だ。
港が近い。ウガルが待っている。
だがウガルもまた、嵐の被害を受けているのだろうか。
風が強くなった。潮の匂いが濃さを増した。
帰る場所がある。それは幸いだ。だが帰った先に待っているものが、出発した時と同じとは限らない。商人は知っている——留守の間に何が起きたかは、帰ってみるまで分からない。
そして帰ってみて分かることは、たいてい帳簿には載っていない。




