嵐神の代価
帰還後の問題は三つ。
夜営の焚き火に枝を足しながら、アシュタルは頭の中で帳面を開いた。実際の帳面は膝の上にある。だが商人の思考は紙の上よりも速く動く。帳面に書くのは、頭の中で整理がついてからだ。
一つ、天候の安定化。
バアルの力は冥界から戻ったが、完全ではない。嵐を制御しようとするたびに暴走の兆しが出る。冥界に力の一部を残してきた代償は、想像以上に重い。商売で言えば、仕入れた品物の三割が輸送中に破損したようなものだ。使い物にならないわけではないが、当初の見込みとは大幅に食い違う。
焚き火の向こうで、バアルが目を閉じていた。眠っているのではない。力の制御を試みているのだ。時折、こめかみに青白い火花が散る。それを見ているだけで、問題の深刻さが分かった。
二つ、印の完全解除。
右手首の布を少しだけずらした。銀色の円環紋様が、焚き火の光を受けて鈍く光っている。バアルを連れ戻せば消えると思っていた。少なくとも、そう期待していた。だがバアルが地上に戻っても、印は消えなかった。一族はまだ「生ける死人」のままだ。弟のヤリムは声を失いつつある。妹は——考えるのをやめた。考えても仕方のないことは、商人の頭には入れない。入れてしまったら、足が止まる。
三つ、モトとの契約の履行確認。
冥界でモトと結んだ取引は、一応は成立した形になっている。バアルの力の一部を冥界に残す。その代わり、バアルの帰還を認める。だが「一部」の範囲について、モトが曖昧に笑っていたのが引っかかっていた。あの死神は契約書の隅々まで読む相手だ。こちらが見落としている条項があるに違いない。
「考え事か」
アナトの声だった。焚き火の横に座っている。正確には、座っているというよりも岩に背を預けて腕を組んでいる。戦女神の休息姿勢だ。人間のように膝を崩したり、肘をついたりはしない。常に立ち上がれる態勢を保っている。
「ええ。帰ってからのことを」
「帰る前に死ぬかもしれないぞ。道中の心配をしろ」
「道中の心配はしてませんよ。あなたがいますから」
アナトの眉が微かに動いた。不愉快そうに——いや、違う。動揺を不機嫌で覆い隠す仕草だ。この旅で何度も見た。
「口だけは減らないな」
「商人の口は資本ですから。減ったら廃業です」
アナトが鼻を鳴らした。それ以上の言葉は返ってこなかった。
帳面に視線を落とした。
三つの問題を書き出す。天候。印。契約。どれも一筋縄ではいかない。だが商人は「取引は成立してからが勝負」と知っている。契約書に署名した瞬間から、本当の仕事が始まる。品物の受け渡し、代金の回収、品質の確認、次の取引への布石——署名は始まりに過ぎない。
バアルを冥界から連れ戻した。
それは確かに大きな取引だった。だがそれで終わりではない。署名は済んだ。ここからが「取引後処理」だ。
三項目のうち、最も差し迫っているのは一つ目の天候だった。バアルの力が暴走するたびに、カナアン各地が被害を受ける。恵みの雨と壊滅的な暴風雨の区別が、バアル自身にもつけられない。商人として言えば、品質管理ができていない状態だ。
二つ目の印は、そもそも原因が分からない。バアルに消せないのなら、誰に消せるのか。バアルが「私より遥かに古く、遥かに強い」と言った存在——その影がちらつくが、正体は掴めない。
三つ目のモトとの契約は、時限爆弾だ。いつ爆発するか分からない。だが爆発する前に手を打つことはできる。モトの性格を考えれば、契約を破る気はないだろう。破る必要がないのだ。契約の範囲内で最大限の利益を絞り取る——それがモトのやり方だ。
「難しい顔をしている」
バアルが目を開けた。青い瞳が焚き火の光を映して揺れている。嵐の神の目は、穏やかな時でも底に雷光を湛えているようだった。
「三つの課題を整理してました」
「三つ?」
アシュタルは帳面を見せた。バアルがわずかに身を乗り出し、目を通す。
「天候、印、契約——か。全て繋がっている、と俺は見ている」
「僕もそう思います。ですが、繋がっている糸がまだ見えません。手元にあるのは三つの端っこだけで、一本の紐なのか、三本なのかも分からない」
バアルが顎を引いた。思案の仕草だ。
「商人というのは面白い。力で解決しようとすれば、一つずつ潰していくしかない。だがお前は——三つを同時に見ている」
「同時に見ないと損をしますから。ある取引の利益が別の取引の損失を埋めるかもしれない。逆に、一つの失敗が全てを巻き込むかもしれない」
帳面を閉じた。
三つの課題。どれも容易ではない。だが可視化された時点で、手の打ちようはある。見えない敵は怖いが、帳面に書かれた数字は怖くない。怖いのは赤字だけだ。
焚き火が爆ぜた。
アナトが目を閉じている。眠ってはいない。神は眠る必要がないと言っていた。だが最近、目を閉じている時間が増えた気がする。バアルが戻ってから——正確には、バアルが戻った後も自分たちの旅が続いている、と確定した頃から。
気のせいかもしれない。商人の勘は万能ではない。
帳面をしまい、外套にくるまった。明日の移動距離を計算する。ウガルまであと数日。間に合う。百五十日の期限には、間に合うはずだ。
だが——間に合ったとして、何が解決する?
取引は成立後が大事だ。
それだけは確かだった。




