値の吊り上げ
二百日目の夜だった。
アシュタルはそれを帳面で確認した。冥界の出口を出てから数えたのではない。ウガルを発った日から数えている。旅の始まりから——二百日目。帳面の隅に刻んできた日付の印が、二百個目に達していた。
焚き火の傍で、帳面の頁をめくった。
一日目。ウガルの港を出た日。アナトに腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして旅が始まった。あの日の自分は——何も分かっていなかった。印のことも、神々の事情も、自分がどこに向かっているかも。
分かっていたのは一つだけだった。一族を救わなければならない。
百日目。冥界への入口が見えた頃だった。アナトとの関係が変わり始めていた。「人間」から「お前」に呼び名が変わった頃。まだ「契約」の枠の中にいた。
百五十日目。冥界の深部。モトの玉座の間。契約を結び、魂を預け、バアルの帰還を取り付けた日。あの日から——左手の小指の感覚が薄い。
そして——二百日目。
焚き火の向こうで、バアルが横になっていた。五歩離れた場所に。印が反応しない距離を保って。嵐神の寝息は低く、嵐の残響のようだった。
アナトは焚き火の手前で座っていた。寝ていない。金色の瞳が炎を映していた。偵察に出る前の——あるいは何かを考えている時の、静かな目だった。
アシュタルは帳面の新しい頁を開いた。
整理しよう。商人は棚卸しをする。二百日目の夜に——現在地の棚卸しをしよう。
まず、距離。
ウガルまで——あと七日か八日。迂回路を使っている分の遅れを計算に入れても、猶予がある。急げば六日で着くが、バアルの体力を考えると無理はできない。八日と見積もるのが安全だ。
次に、期限。
モトとの契約における帰還期限は——あと十五日。ウガルまで八日とすれば、七日の余裕がある。余裕はある。間に合う。
間に合う——が。
帰っても終わらない。
アシュタルは帳面に三つの項目を書いた。
一、天候安定化。
バアルの力は安定しつつある。「流通管理方式」は機能している。だが完全ではない。七割五分の力で百の嵐を制御する問題は、構造的に解決していない。制御範囲の縮小で暴走は減ったが、カナアン全域の天候を安定させるには至っていない。回復が進めば制御精度は上がるだろう——だが二割五分の欠損は埋まらない。
二、印の完全解除。
これが——最大の未解決事項だった。印は消えていない。バアルの近くにいれば神力が流入し、印が反応する。モトの管理下にある魂と、バアルの力の両方に接続された印。一つの導管に二つの水源が繋がっている。人間の体が——それに耐え続けられる保証はない。
印を刻んだのはバアルでもモトでもない。もっと古い、もっと大きな存在。その者が印を解除しない限り——あるいは解除する方法を見つけない限り——印は消えない。
三、モトとの契約の履行確認。
バアルの帰還は成った。天候安定化は——進行中。契約の六条項は概ね満たされつつある。だが「概ね」では足りない。モトは丁寧な死神だ。一語一句を厳密に守る代わりに、一語一句の不備を突いてくる。契約書の文面を今一度精査する必要がある。
三つの課題。どれも容易ではない。
アシュタルは帳面から顔を上げた。
夜空が広がっていた。バアルの力の制御が安定したおかげで、今夜は雲が少ない。星が見えた。カナアンの星空。ウガルの港からも見える星座が——ここからも見えた。
懐かしい、とは思わなかった。
正確には——懐かしいと「感じる」力が薄くなっていた。魂の全てをモトに担保として預けた影響。感情の彩度が大きく落ちている。嬉しいことは——嬉しいはずだ。悲しいことは——悲しいはずだ。だがその色が褪せている。鮮やかな赤が、灰色に近づいたような。
星を見ても泣かなくなった。以前なら——ウガルを出て最初の夜に見た星空に、涙が出た。今は出ない。
それが良いことなのか悪いことなのか、分からなかった。
「……寝ないのか」
アナトの声が聞こえた。焚き火の向こうから。小さな声。バアルを起こさないように。
「もう少しだけ」
「何を書いている」
「棚卸しです。残りの課題の整理を」
「……いつも帳面を書いているな。あの冥界でも書いていた」
「商人ですから。記録を怠れば、何を仕入れて何を売ったか分からなくなる」
アナトが黙った。金色の瞳が焚き火の炎を見つめていた。
「お前の帳面には——何が書いてある。旅の全てか」
「全てではありません。数字と事実だけです。感情は書かない。帳面は——感情を記録する場所ではないので」
「では感情はどこに記録する」
不思議な問いだった。戦女神が感情の記録場所を聞いている。
「どこにも。覚えているか、忘れるか——それだけです」
「……そうか」
アナトが膝を抱えた。その仕草は——戦女神らしくなかった。少女のような仕草だった。何千年も戦ってきた女神が、膝を抱えている。
「私は——帳面を持っていない。記録もしない。何千年分の記憶が頭の中にあるだけだ。——忘れないから、整理できない」
「忘れられないのは——辛いですか」
「辛い、とは違う。——重い」
重い。
何千年分の記憶の重さ。戦いの記憶。血の記憶。失った者の記憶。取り戻した者の記憶。そして——変わっていく自分の記憶。
「バアルが戻って——嬉しいはずだ」
アナトの声がさらに小さくなった。
「嬉しい。間違いなく嬉しい。兄が帰ってきた。それだけで——旅の全てに意味があった」
「でも?」
アナトが口を閉じた。
長い沈黙だった。焚き火の薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がった。
「……でも、は——ない。ない、はずだ」
その声は——自分に言い聞かせているように聞こえた。
アシュタルは何も言わなかった。帳面を閉じた。
「取引は成立後が大事、と父に教わりました」
唐突に、別の話をした。
「成立した瞬間が一番嬉しい。でも本当の仕事は、その後に始まる。商品を届け、代金を回収し、次の取引に繋げる。成立は終わりではなく——始まりです」
アナトがアシュタルを見た。金色の瞳が——問いかけていた。
「バアルの帰還が成立した取引だとすれば——僕たちの仕事は、これからです」
「……お前はいつも商売の話で何かを言おうとするな」
「商人ですから」
「知っている」
アナトの口元が——微かに緩んだ。暗がりの中で、それはほとんど見えなかった。だがアシュタルの目は——見た。
沈黙が戻った。
だが重い沈黙ではなかった。焚き火の温度のような沈黙だった。ここ数日、アナトとの間に増えてきた種類の沈黙。
帰還は果たす。間に合う。だが帰っても終わらない。
三つの課題が待っている。天候安定化。印の解除。契約の履行確認。
そして——帳面には書けない課題が、もう一つ。
アシュタルは星空を見上げた。
二百日目の夜が更けていく。明日からまた歩く。ウガルに向かって。一族が待つ港に向かって。
弟に——甘いものを届けなければならない。
その約束だけは——感情の彩度が落ちた今でも、はっきりと覚えていた。
帳面を腰に仕舞い、外套を頭からかぶった。横になった。
右手首の印が——微かに脈打っていた。
二百日目の夜が、静かに過ぎていった。




