最初の提案
夕焼けが紅かった。
異様に紅かった。
十七日目の夕暮れ。丘陵地帯を越え、海岸線が見え始めた辺りだった。西の空が——血のように赤く染まっていた。赤ではない。紅。深い紅。空気中の水分が異常に凝縮されている証拠だ。バアルの力が——また不安定になっている。
「兄上」
アナトの声が鋭かった。
バアルが立ち止まっていた。右腕の紋様が激しく脈動している。白い光と赤い光が交互に明滅し、嵐神の顔は苦悶に歪んでいた。
「力が——戻りかけている。回路が——急に太くなった」
「太くなった?」
「回復だ。鈍っていた回路の一部が——急に通じた。だが力が一気に流れ込んで——」
空が唸った。
紅い夕焼けの中から、雷雲が生まれた。先日の暴走よりも規模が大きい。雲が渦を巻き、竜巻のような形を取り始めた。風が急激に強まった。
「アシュタル!」
アナトが叫んだ。
だが今回はアシュタルが飛ばされる前に——アナトが動いていた。戦女神の速度。一瞬でアシュタルの傍に移動し、右腕でアシュタルの腰を抱えて地面に伏せさせた。
「伏せろ」
「もう伏せてます」
「口を閉じろ」
暴風が頭上を通過した。だがアナトの体が盾になり、アシュタルは風の直撃を免れた。
バアルが苦しんでいる。両腕を抑え、紋様の暴走を力ずくで止めようとしている。だが——止まらない。回復した回路から力が噴出し、制御不能の嵐を生み出している。
「まずい」
アシュタルは考えた。伏せたまま。アナトの腕の中で。
「アナト。バアルの力を——外から抑えることはできないのか」
「神力の干渉はできる。だが——嵐神の力と戦女神の力は系統が違う。抑えるには——正面からぶつけるしかない。それは兄上の体にさらに負荷をかける」
「ぶつけるのではなく——逸らすのは」
「逸らす?」
「力の方向を変える。暴走している力が空に向かっているなら——地面に向ける。あるいは海に向ける。力の総量は変えずに、方向だけ変えれば被害は減る」
アナトの金色の瞳が——光った。
「地面に——」
「嵐の力を、天候ではなく大地に流す。雷を地面に逃がすのと同じ原理です。バアルの力が暴走しているなら、暴走の出口を用意してやればいい」
「出口——」
アナトが立ち上がった。暴風の中で。赤い髪が狂ったように舞った。戦装束が風に叩かれた。だが戦女神は揺るがなかった。
「兄上!」
アナトが叫んだ。暴風を突き進み、バアルに近づいた。神力が衝突する危険を承知で。
「力を——地面に流せ! 空ではなく地面に!」
「地面に——?」
「雷を地面に逃がせ! 空に放つな! 足元に——足元に全部流せ!」
バアルが——一瞬、目を見開いた。
そして——従った。
右腕を地面に向けた。紋様から白い光が走った。雷が——空ではなく地面に流れた。大地が震えた。足元の岩が砕けた。だが——空の雲が薄くなった。竜巻が弱まった。風が落ちた。
アナトが双剣を抜いた。剣に神力を纏わせ、地面に突き立てた。戦女神の力が——避雷針のように——バアルの力の出口になった。
「こっちに流せ!」
アナトの体が赤く発光した。両腕の戦の紋様が光り、バアルの嵐の力を受け止めている。正面からぶつけるのではない。受け流している。力を通過させ、剣を通じて地面に逃がしている。
アシュタルは伏せたまま見ていた。
二人の連携だった。
アシュタルが提案し、アナトが実行し、バアルが従った。三人の連携——だが実際に力を使っているのはアナトとバアルだ。アシュタルは知恵を出しただけだ。
だが——その知恵がなければ、二人は正面からぶつかるしかなかった。
紅い夕焼けが——薄くなっていった。異常な赤さが消え、通常の夕焼けに戻っていく。雲が散り、風が凪いだ。
バアルが膝をついた。アナトも剣を引き抜き、一歩よろめいた。
「……助かった」
バアルの声は掠れていた。
アナトが肩で息をしていた。紋様の光が消えていく。
「アシュタルの——提案だ」
アナトが言った。息を切らしながら。
「私ではない。——こいつが、出口を作れと言った」
バアルがアシュタルを見た。
「……お前か」
「僕は言っただけです。実行したのはアナトです」
「二人で俺を救ったんだ。——礼を言う」
アナトが顔を背けた。
アシュタルは立ち上がった。体中が砂だらけだった。帳面は——今回は手放さなかった。
紅い夕焼けは去った。空には通常の夕暮れの色が広がっている。橙色。紫。紺。星が一つ、二つ、瞬き始めた。
アナトがアシュタルの横を通り過ぎた。
その時——アナトの手が、一瞬だけアシュタルの肩に触れた。
軽い接触。ほんの一瞬。
言葉はなかった。
だがその手の温度が——前に冥界で感じた肩の温度と、同じだった。
二人の連携が——バアルを救った。
だがバアルの力の不安定さは、深刻化している。回復が進むほど——暴走のリスクも上がる。
アシュタルは帳面に書いた。
天候再不安定化。鎮静化に成功。方法——力の接地。
書きながら、右手首の印が微かに疼いていた。バアルの力の暴走に——印もまた、反応していた。




