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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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交渉の再開

 十五日目の夜。


 バアルがアシュタルに話しかけてきた。


 アナトは偵察に出ていた。明日越える予定の丘陵地帯の安全確認だ。戦女神の索敵範囲は広い。小一時間は戻らないだろう。


 焚き火を挟んで、嵐神と人間が向かい合った。バアルは距離を取っている。アシュタルの印が反応しない程度の距離——五歩ほど。


「アシュタル」


「はい」


「昨日の——印の件だ」


「もう大丈夫ですよ。痛みは収まっています」


「それもあるが——別の話だ」


 バアルの声が低くなった。焚き火の光が嵐神の顔を照らしていた。白混じりの髪。痩せた頬。だが瞳は深く、暗く、何かを秘めている。


「お前の印を刻んだ者の話だ」


 アシュタルの指が——帳面の上で止まった。


「モトは——冥界で言っていたな。印を刻んだのは自分ではないと。私でもないと」


「はい。バアルも——以前、同じことを言っていましたね。『私ではない。だが誰かは知っている』と」


「ああ。知っている」


 バアルが目を伏せた。


「お前には——話す権利がある。お前の体に刻まれた印だ。だが——名前は出せない。出せば、その者に気取られる。俺の力の中に、情報が漏れる。今の俺の力は不安定で——傍受される可能性がある」


「名前を出さずに——話せることはありますか」


「……ある」


 バアルが焚き火の炎を見つめた。炎の中に何かを見ているような目だった。


「その者は——私より遥かに古い。カナアンの神々の中で最も古く、最も——大きい」


「大きい」


「力の大きさではない。存在の規模が大きい。世界の仕組みそのものに手を伸ばせる存在だ。天候を操る程度の力ではない。天候という概念を作った側の存在だ」


 アシュタルの背筋が冷えた。


 天候を操るのではなく——天候を作った。バアルが嵐を呼ぶのは、既にある天候の中で力を振るっているにすぎない。だがその天候というシステム自体を設計した者がいる。


「その者は——なぜ僕に印を刻んだんですか」


「計画だ。長い、長い計画。何世代もの人間を見て、選んで、待っていた」


「何を待っていた」


「お前のような人間を」


 アシュタルは言葉を失った。


「力ではなく言葉で神を動かせる人間。戦いではなく取引で世界を変えられる人間。——その者は、そういう人間が生まれるのを、何百年も待っていた」


「……僕は——選ばれたんですか。生まれる前から」


「そうだ」


 バアルの声は平坦だった。だがその平坦さの下に——怒りがあった。


「俺も——利用された」


「利用——」


「俺が冥界に留まったのは、お前を守るためだ。印持ちの人間がモトに利用されることを防ぐため、俺が冥界にいればモトの注意は俺に向く。——そう考えて、自ら留まった」


「はい」


「だが——その判断自体が、計算の内だったかもしれない。俺が自己犠牲的な性格であることを——その者は知っていた。俺が冥界に留まり、お前が成長し、アナトがお前を見つけ、冥界に来る。全てが——」


 バアルの拳が握り締められた。


「全てが、計画通りだ」


 沈黙が落ちた。


 アシュタルは考えた。商人の頭で考えた。


 自分は駒だ。計画の駒。生まれる前から選ばれ、印を刻まれ、導かれてきた。冥界への旅も、モトとの契約も、バアルの帰還も——全てが、「古く、大きな存在」の計画の内にある。


 怒りがあった。


 だが——帳面の最後の頁に書いた言葉が蘇った。


 たとえ計画の駒であっても——駒には駒の意志がある。


「バアル」


「何だ」


「その者の名前は——今は聞きません。あなたが言えない理由があるなら、それを尊重します」


「……すまない」


「でも——一つだけ聞かせてください」


「何だ」


「その者は——悪意で動いているんですか」


 バアルが顔を上げた。


「悪意——」


「僕を利用している。あなたも利用している。それは事実でしょう。でも——目的が何かによって、意味が変わります。商売で言えば、相手を利用する取引は——相手にも利益があるなら、それは『取引』です。利益がないなら『詐欺』です」


 バアルが目を閉じた。


「……分からない。分からないから——語れない」


「分かりました」


「ただ——一つだけ言える。その者は、お前を壊すつもりはない。壊したら計画が成り立たない」


「それは——安心していい情報ですか」


「半分はな。壊さないが——使い潰す可能性はある」


 アシュタルは苦笑した。


「商人にとっては日常です。使い潰されないように立ち回るのが——商売ですから」


 バアルが——笑った。苦い笑いだった。だが、笑った。


「お前は——強い人間だな」


「強くはありません。しぶといだけです」


 遠くで、アナトの足音が聞こえた。偵察から戻ってくる。


 バアルが口を閉じた。この話はここまでだ。


 アシュタルは帳面に何も書かなかった。この会話は——記録するものではない。


 だが頭の中に、一つの名前が浮かんでいた。


 古く、大きく、世界の仕組みそのものに手を伸ばせる存在。


 候補は——多くない。


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