死神の弱み
印が痛んだ。
十四日目の朝だった。迂回路を歩き始めて二日目。バアルの力の制御は安定しつつあり、第二段階の半径十里の緩やかな制御が維持できるようになっていた。天候は小雨と曇り。暴走の兆候はなかった。
穏やかな朝だった。
だから——痛みは唐突だった。
右手首の印が、火を押し当てられたように灼けた。
「——ッ」
声が出た。抑えきれなかった。歩いていた足が止まり、右手首を左手で押さえた。布の上から押さえても——熱い。銀の円環紋様が布越しに光っているのが見えた。淡い光ではない。強い光。脈打つような明滅。
「アシュタル?」
アナトが振り向いた。金色の瞳が鋭くなった。
「どうした」
「印が——」
言いかけて、息が詰まった。痛みが増した。右手首から腕を伝い、肩に、胸に——広がった。内側から焼かれるような痛み。骨が熱い。血が熱い。
バアルが近づいてきた。
その瞬間——痛みがさらに跳ね上がった。
「……ッ!」
膝が折れた。地面に膝をついた。右手首の印が激しく発光している。布を巻いているのに、光が透けて見える。銀の紋様が——赤く変色していた。赤い光。
「離れてくれ——」
アシュタルはバアルに向かって左手を伸ばした。
「バアルが近くにいると——印が反応する」
バアルが足を止めた。
「……俺の力に、か」
「はい。——バアルの神力が、印を通じて流れ込んでくる。モトの契約の時にも似た感覚がありましたが——あれは一時的だった。今は——」
痛みの波が引いた。バアルが三歩下がったからだ。距離を取ったことで、印への神力の流入が弱まった。
呼吸を整えた。額の汗を拭った。右手首の印は——まだ光っていた。赤い光は消えていない。
「見せろ」
アナトが近づいてきた。右手首の布を解こうとした。
「大丈夫です。もう——」
「見せろと言っている」
有無を言わさない声だった。戦女神の命令。
布を解いた。
銀の円環紋様が——変色していた。銀ではない。赤銅色。紋様の線が太くなり、脈打つように明滅している。以前は触れてもわずかな凹凸しかなかった紋様が——今は皮膚の上に浮き出ていた。立体的に。血管のように。
「……これは」
アナトの声が低くなった。
「神力の浸食だ」
バアルの声が遠くから聞こえた。距離を保ったまま、嵐神が言った。
「印が——俺の力に反応して、神力を取り込もうとしている。印は元々『捧げもの』の回路だ。バアルかモトの力を、人間の体に通すための導管。俺が近くにいれば——導管が開く」
「開く——」
「アシュタル。お前が冥界で契約した時、魂の全てをモトに預けた。あの時、印は一時的に『モト側』に接続されていた。だが帰還して俺が近くにいることで——印が『バアル側』にも接続しようとしている」
「両方に?」
「そうだ。元々印は——一つの神に接続するものだ。だが今、お前の印はモトにも俺にも反応している。それが——痛みの原因だろう」
アシュタルは右手首を見た。赤銅色の紋様が脈打っている。二つの神の力が、一つの印を通じて人間の体に流れ込もうとしている。
人間の体は——それに耐えられるのか。
「距離を取れば収まるのか」
アナトの問いはバアルに向けられていた。
「ある程度は。だが——完全には収まらない。俺が地上にいる限り、カナアン全域に俺の力が薄く広がっている。アシュタルの印は、どこにいても俺の力を拾う」
「では——」
「距離が近いほど強く反応する。離れれば弱まる。だが——ゼロにはならない」
アナトの拳が握り締められた。
「つまりお前が近くにいること自体が——こいつにとって危険だと」
「……そうなる」
沈黙が落ちた。
アシュタルは布を巻き直した。紋様を隠した。だが布の下で、印はまだ脈打っていた。弱く。しかし確実に。
「大丈夫です」
アシュタルは立ち上がった。膝が少し震えたが、立てた。
「痛みは収まりました。歩けます」
「無理をするな」
アナトの声は硬かった。
「無理ではありません。——この程度は、経費です」
「経費?」
「恐怖も痛みも、商人にとっては経費です。払えるうちは払います」
アナトが何か言いかけて——口を閉じた。金色の瞳に複雑な色が浮かんだ。怒り。苛立ち。そして——名前のつけられない何か。
「……歩くぞ」
アナトが歩き出した。
バアルが距離を保ったまま、後方を歩いた。嵐神の顔には——自責の色があった。
三人の隊列が変わった。
アナトが先頭。アシュタルが真ん中。バアルが——少し離れて後方。
印が——右手首の下で——微かに脈打ち続けていた。




