帳簿を開く
十二日目に、街に着いた。
名前はビブロスではない。もっと小さな、名もない交易中継地だった。カナアンの内陸部から海岸線へ向かう隊商路の途中にある、石造りの家が二十軒ほど並ぶ集落。井戸が一つ、市場が一つ、宿が一つ。それでも——人がいた。
アシュタルにとって、人がいる場所は商売ができる場所だった。
「少し稼いでいきます」
「稼ぐ? 今か?」
バアルが怪訝な顔をした。嵐神には商人の行動原理が理解できないらしい。
「食料が尽きかけています。水も。——それに、情報が欲しい。天候暴走がこの辺りでどんな影響を出しているか」
「なるほど」
「バアルは——街に入らない方がいいかもしれません。力が不安定な間は、人が多い場所は避けた方が安全です」
「……ああ」
バアルの声には苦いものがあった。自分の力が危険であるという事実を、改めて突きつけられている。
「街の外の丘で待っていてください。アナトと——」
「私が行く」
アナトが言った。
アシュタルは振り向いた。アナトの金色の瞳がアシュタルを見ていた。
「兄上の傍にいるのは私だ。お前が街に入るなら——一人で行け」
「……分かりました」
アシュタルは一人で街に入った。
石造りの門をくぐると、市場の喧騒が耳に飛び込んできた。冥界の沈黙に慣れた耳には、人間の声が眩しいほどだった。売り子の呼び声。子供の笑い声。ロバの鳴き声。荷車の軋む音。
懐かしい。
この音が——アシュタルの世界だ。
市場を歩いた。商人の目で棚を見た。品物の種類と量、価格、客の表情。全てが情報だ。
目についたのは——水の価格だった。通常の三倍。干ばつが長引いた後遺症だ。だが同時に——穀物の価格が下がっていた。雨が降ったからだ。バアルの帰還による豪雨が、作物に恵みを与えていた。
「おい。旅の者か」
水売りの老人に声をかけられた。
「ウガル港に向かう商人です。この辺りの天候はどうですか」
「天候だと? 決まっている。めちゃくちゃだ」
老人が唾を吐いた。
「一月前まで雨が降らなかった。井戸が枯れかけた。そしたら急に——雷が鳴って、豪雨だ。三日三晩降り続いた。おかげで井戸は満杯になったが——南の農地が水浸しになった。ちょうどいい、ってのがないんだ」
「雷はいつ頃から」
「十日ほど前だ。空が紫になってな。雲一つなかったのに、いきなり雷が落ちた。——嵐神バアルが怒ったのかと思ったよ」
アシュタルは苦笑した。怒ったのではない。帰ってきたのだ。
「雷の後は」
「豪雨。そして——収まった。今は小雨がぱらつく程度だ。だが不安定でな。突然風が強くなったり、雲が急に湧いたりする。漁師が海に出られないんだ。天候が読めない」
「漁師が海に出られない——それは大きいですね」
「ああ。魚が入ってこない。肉の値段が上がっている。——まあ、穀物は安くなったがな。一長一短だ」
恵みと災いの二面性。バアルが言っていた通りだった。
アシュタルは市場を一巡した。持っていた塩の残りと、冥界で使わなかった火打ち石を売り、干し肉と水袋と穀物の粉を買った。利益は僅かだったが——赤字ではない。旅の途中で黒字を出せるだけで上出来だ。
もう一つ。情報を買った。
隊商の護衛をしているという男に、銅貨一枚で道中の安全情報を聞いた。ウガルまでの最短路は北西の峠越えだが、豪雨で峠道が崩れている。迂回路を使えば三日余分にかかるが、安全だ。
「ありがとうございます。助かりました」
「商人か。若いな。気をつけろ。天候が荒れてる時は、山道は危険だ」
街を出た。
丘の上で、バアルとアナトが待っていた。バアルは地面に座り、目を閉じて力の制御に集中していた。アナトはその傍に立ち、周囲を警戒していた。
「情報が取れました」
アシュタルは二人の前に座り、帳面を開いた。
「天候暴走は広範囲に影響しています。豪雨の恵みで穀物は安くなったが、漁業が停滞している。道も一部崩れている。——それと」
「それと?」
「バアルの帰還を——街の人々は『嵐神の怒り』だと思っています」
バアルが目を開けた。
「怒り——か」
「恵みだと思っている人もいます。でも、嵐の不安定さを怖がっている人の方が多い。嵐神が怒っている。何かよくないことが起きる前触れだ、と」
バアルの表情が曇った。
「……俺が帰ってきたことが——恐怖になっている」
「今はそうです。でも——天候が安定すれば、恵みだけが残る。安定させましょう。それが、今の最優先事項です」
バアルが頷いた。重い頷きだった。
アシュタルは立ち上がった。
「では、出発しましょう。迂回路を使います。三日余分にかかりますが、峠道が崩れているので」
「三日——」
「間に合います。計算済みです」
帳面を閉じた。街の喧騒がまだ耳に残っていた。人々の声。恐怖と期待が入り混じった声。
バアルの帰還を喜ぶ声と、嵐に苦しむ声が共存している。
その両方を——バアルは聞いている。




