死神の愉悦
アナトの沈黙が増えていた。
旅の九日目。バアルの力は少しずつ安定してきていた。「流通管理方式」の第一段階——半径一里の精密制御——は維持できるようになり、第二段階——半径十里の緩やかな制御——にも成功しつつあった。天候暴走の頻度は減り、不意の雷や突風は三日に一度程度に収まっていた。
その分——アナトの沈黙が目立った。
以前のアナトは黙っていても「存在感」があった。背筋を伸ばし、金色の瞳で周囲を睨み、戦女神としての圧を放っていた。沈黙していても——そこにいることが分かる沈黙だった。
今のアナトの沈黙は違った。
薄い。
存在を消すような沈黙ではない。ただ——アナトがアナトらしくない。歩く速度は同じ。警戒は怠っていない。だが視線が——泳いでいた。何かを考えているのか、何かを避けているのか。金色の瞳が、定まらなかった。
バアルと二人で話している時のアナトは、特にそうだった。
「アナト。明日は東の峠を越える。偵察を頼めるか」
「……ああ」
「夜明け前に出発する。それでいいか」
「……いい」
短い返事。以前なら「任せろ」と言うか、「指図するな、私は自分で判断する」と返すか、どちらかだった。だが今は——ただ「ああ」と「いい」。
バアルはそれを気にしている。気にしているが——触れない。
アシュタルは気づいていた。
アナトの沈黙の理由を——正確には分からない。だが推測はできる。
バアルが戻った。それはアナトが最も望んでいたことだ。冥界への旅の全てが、この瞬間のためだった。兄を取り戻す。それだけが目的だった。
そして——取り戻した。
バアルは隣にいる。生きている。歩いている。話している。笑っている。アナトが命を賭けて守ろうとした兄が、ここにいる。
なのに——。
アナトは、以前のようにバアルと話せない。
何かが変わった。冥界への旅の間に——あるいは、旅の中で——何かが変わった。アナトの中で、バアルの位置が変わったのか。それとも、アナト自身が変わったのか。
アシュタルはそれを知っていた。知っていたが——口にしなかった。商人は他人の秘密を売り物にしない。
十日目の夜。
焚き火を囲んで、バアルが先に眠った。嵐神の体はまだ完全に回復していない。夜は力の消耗が少ないとはいえ、日中の制御で疲弊している。バアルの寝息が——微かに聞こえた。嵐の残響のような、低い寝息。
アシュタルは帳面を書いていた。明日の行程、食料の残量、水の確保方法。商人の日課だ。
アナトが——動いた。
焚き火の向こう側で横になっていたアナトが、上体を起こした。赤い髪が顔にかかっている。金色の瞳が——焚き火の光を受けて、琥珀色に見えた。
「……寝ないのか」
アナトの声は小さかった。バアルを起こさないように。
「もう少し記録を」
「……そうか」
沈黙。
焚き火の薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がった。
「お前に——聞きたいことがある」
アナトが言った。声はまだ小さい。
「何ですか」
「……いや」
止まった。アナトの言葉が——途切れた。金色の瞳が横を向いた。焚き火の光から逃げるように。
「いや。何でもない。忘れろ」
「忘れますよ。商人は聞かなかったことは忘れます」
「……嘘つけ」
「嘘はつきません。記録しなかったことは忘れます」
アナトが——微かに笑った。笑い、ではない。口の端が僅かに緩んだだけだ。だがアシュタルの目は見逃さなかった。
沈黙が戻った。
だが今度の沈黙は——先ほどまでの沈黙とは質が違った。重くなかった。焚き火の温度のような沈黙だった。
アナトが横になった。背中を向けて。赤い髪が地面に広がった。
「……おやすみ」
アナトの声が聞こえた。小さく。掠れるように。
おやすみ。
アナトがその言葉を使ったのは——この旅で初めてだった。
アシュタルは帳面に目を落とした。
何も書かなかった。
書くべきことがなかったのではない。書けなかったのだ。二人の沈黙の意味を——帳面に書く言葉がなかった。
焚き火が弱くなった。薪を足した。火が蘇った。
バアルの寝息と、アナトの静かな呼吸と、焚き火の爆ぜる音。
三人の旅路の、十日目の夜が更けていった。




