三者の膠着
バアルは人間が好きだった。
旅の七日目に、それがはっきりと分かった。
道中、羊飼いの一団と遭遇した。嵐の後で牧草地を移動していた遊牧民だ。十数頭の羊と、五人の男女。風焼けした顔に、警戒の目。見知らぬ旅人三人——しかも一人は明らかに「普通ではない」体躯の男——を見て、身構えるのは当然だった。
バアルの右腕が微かに痙攣していた。袖の下で、雷の紋様が断続的に明滅しているのだろう。力が出口を求めて暴れている。本人は平然とした顔で歩いているが、アシュタルは商人の目で見ていた。顎のわずかな強張り。呼吸が二歩に一度、ほんの少し深くなること。嵐神は——力を押さえ込むことに体力の何割かを常に費やしていた。
アシュタルが前に出た。交渉は商人の仕事だ。
「旅の者です。ウガル港に向かっています。道と水場の情報をいただけませんか。お礼に——」
腰の袋から塩の小袋を取り出した。冥界に持ち込んだ物資の残りだが、塩は遊牧民にとって貴重品だ。
交渉は五分で成立した。水場の位置と安全な道筋の情報を、塩一袋で購入した。相場よりやや高い。だが命に関わる情報に値切りは無粋だ。
その間、バアルは羊を見ていた。
「……太った羊だな」
遊牧民が去った後、バアルが呟いた。
「嵐の後で草が増えたからだろう。雨が恵みになった地域だ」
「ああ。——いい羊だった」
バアルの声には、素朴な喜びがあった。羊が太っていること、草が増えていること、遊牧民が健やかに見えたこと。それらが——嵐神を喜ばせていた。
そしてアシュタルは気づいた。羊を眺めている間だけ、バアルの右腕の痙攣が止まっていた。意識が力の制御から離れて、素朴な感情に向いた一瞬——身体が楽になっていた。嵐神にも、力から解放される瞬間がある。それが羊を見ている時だというのは——なんとも人間くさい話だった。
「あの羊を値付けするなら——上物ですね。塩一袋分の情報を出した遊牧民も、いい仕事をしている」
「お前はすぐ値段の話をするな」
「商人ですから。——でもバアル、あなたも人のことは言えない。いい羊を見て嬉しそうにしている嵐神なんて、聞いたことがない」
「嵐神に何を期待している。雷を落として喜ぶとでも?」
「少なくとも、あの遊牧民はそう思っていたでしょうね。あなたを見て怯えていた」
バアルが口の端を上げた。苦笑とも自嘲ともつかない表情だった。
「怯えられるのには——慣れている」
「慣れているのと、平気なのは違う」
バアルが横目でアシュタルを見た。嵐神の青い目に——一瞬だけ、何かが揺れた。
「……お前は時々、踏み込みすぎる」
「商人の悪い癖です。相手の本音が見えると、つい手を伸ばしてしまう」
「本音、か。俺の本音が見えるのか」
「全部は見えません。でも——人間が怯える顔を見るのが嫌なんだろうな、くらいは分かります」
バアルは答えなかった。ただ、前を向いて歩き続けた。右腕の痙攣が——また始まっていた。力が戻ってくる。押さえ込む作業が再開される。嵐神の日常は——終わらない抑制の連続だった。
「バアルは——人間が好きなんですね」
アシュタルは歩きながら言った。
「好き、とは違う」
「では何ですか」
「……守るべき存在だ。人間は——面白いが、脆い。放っておけば干ばつで死に、洪水で流され、疫病で倒れる。だが——面白い。同じ問題に何度もぶつかりながら、毎回違う方法で乗り越えようとする。飽きない」
「飽きない、ですか」
「何千年見ていても飽きない。それだけの価値がある」
アシュタルは黙って聞いていた。
バアルの人間観は——好意的だった。明確に好意的だった。人間を嫌っているわけでも、蔑んでいるわけでもない。面白いと思い、守りたいと思い、その営みに価値を認めている。
だが。
「守るべき存在」
その言葉が引っかかった。
「バアル。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたにとって、人間は——対等ですか」
バアルが足を止めた。
アシュタルも止まった。アナトが後方で立ち止まった。
「対等——か」
バアルが空を見た。自らの力で薄くした雲の間から、青い空が見えていた。
「正直に言えば——対等ではない。力が違いすぎる。寿命が違いすぎる。俺は雷を呼び、天候を操り、何千年も生きる。人間は——できない。その差は埋まらない」
「では、保護の対象ですか」
「保護——という言い方が正しいかは分からない。だが——守るのは俺の役目だ。嵐神として、カナアンの人間を嵐の災いから守り、雨の恵みで潤す。それが俺の存在意義だ」
「あなたは王で、人間は民。そういうことですか」
「王と民——そうだな。そういう関係だ」
アシュタルは帳面に書き込まなかった。この会話は記録すべきものではない。記憶に留めるべきものだ。
「僕は商人です」
「知っている」
「商人にとって、取引相手は対等です。王であっても、乞食であっても、取引の場では対等だ。——でなければ、公正な取引は成り立たない」
「公正な取引——か。だが神と人間の間に、『公正な取引』が成り立つと思うか」
「成り立たせたい、と思っています」
バアルの眉が動いた。
「大した自信だ」
「自信ではありません。願望です」
「……願望か」
バアルは歩き出した。前を向いたまま、低い声で言った。
「お前の願望は——面白い。だが危険でもある。神と人間が対等であるということは、神が人間を特別に守る理由がなくなるということだ。対等なら——人間は自分で自分を守らなければならない」
「それは——」
「嵐が来た時、俺が逸らさなければ人間は死ぬ。干ばつが来た時、俺が雨を降らさなければ作物は枯れる。それでも——対等か?」
答えに窮した。
バアルの論理は正しい。力の差がある以上、完全な対等はない。庇護者と被庇護者の関係は——力の非対称から生まれる。
だが——。
「今のあなたは、嵐を完全に制御できていない」
アシュタルは言った。
「恵みも災いも、あなたの意志通りにはならない。それでも——僕は、あなたの力を借りて問題を解決しようとしている。流通管理の方法を提案し、あなたがそれを実行している。これは——」
「対等な協力、か」
「少なくとも——一方的な庇護ではないと思います」
バアルが振り向いた。
濃い青の瞳が——アシュタルを見た。嵐神の目。千年の重みを持つ目。だがその目には——考え込むような色があった。
「お前の言葉は——考えさせられる」
「考えてもらえれば十分です」
「……面白い奴だ」
今日二度目の「面白い」だった。だが——最初の「面白い」とは、響きが違った。
アシュタルは歩き続けた。答えはまだ出ない。神と人間は対等か。その問いは——この旅が終わっても、終わらないだろう。
後方で、アナトが無言で二人の会話を聞いていた。金色の瞳が——アシュタルの背中を見ていた。




