表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
174/332

三者の膠着

 バアルは人間が好きだった。


 旅の七日目に、それがはっきりと分かった。


 道中、羊飼いの一団と遭遇した。嵐の後で牧草地を移動していた遊牧民だ。十数頭の羊と、五人の男女。風焼けした顔に、警戒の目。見知らぬ旅人三人——しかも一人は明らかに「普通ではない」体躯の男——を見て、身構えるのは当然だった。


 バアルの右腕が微かに痙攣けいれんしていた。袖の下で、雷の紋様が断続的に明滅しているのだろう。力が出口を求めて暴れている。本人は平然とした顔で歩いているが、アシュタルは商人の目で見ていた。顎のわずかな強張り。呼吸が二歩に一度、ほんの少し深くなること。嵐神は——力を押さえ込むことに体力の何割かを常に費やしていた。


 アシュタルが前に出た。交渉は商人の仕事だ。


「旅の者です。ウガル港に向かっています。道と水場の情報をいただけませんか。お礼に——」


 腰の袋から塩の小袋を取り出した。冥界に持ち込んだ物資の残りだが、塩は遊牧民にとって貴重品だ。


 交渉は五分で成立した。水場の位置と安全な道筋の情報を、塩一袋で購入した。相場よりやや高い。だが命に関わる情報に値切りは無粋だ。


 その間、バアルは羊を見ていた。


「……太った羊だな」


 遊牧民が去った後、バアルが呟いた。


「嵐の後で草が増えたからだろう。雨が恵みになった地域だ」


「ああ。——いい羊だった」


 バアルの声には、素朴な喜びがあった。羊が太っていること、草が増えていること、遊牧民が健やかに見えたこと。それらが——嵐神を喜ばせていた。


 そしてアシュタルは気づいた。羊を眺めている間だけ、バアルの右腕の痙攣が止まっていた。意識が力の制御から離れて、素朴な感情に向いた一瞬——身体が楽になっていた。嵐神にも、力から解放される瞬間がある。それが羊を見ている時だというのは——なんとも人間くさい話だった。


「あの羊を値付けするなら——上物じょうものですね。塩一袋分の情報を出した遊牧民も、いい仕事をしている」


「お前はすぐ値段の話をするな」


「商人ですから。——でもバアル、あなたも人のことは言えない。いい羊を見て嬉しそうにしている嵐神なんて、聞いたことがない」


「嵐神に何を期待している。雷を落として喜ぶとでも?」


「少なくとも、あの遊牧民はそう思っていたでしょうね。あなたを見て怯えていた」


 バアルが口の端を上げた。苦笑とも自嘲ともつかない表情だった。


「怯えられるのには——慣れている」


「慣れているのと、平気なのは違う」


 バアルが横目でアシュタルを見た。嵐神の青い目に——一瞬だけ、何かが揺れた。


「……お前は時々、踏み込みすぎる」


「商人の悪い癖です。相手の本音が見えると、つい手を伸ばしてしまう」


「本音、か。俺の本音が見えるのか」


「全部は見えません。でも——人間が怯える顔を見るのが嫌なんだろうな、くらいは分かります」


 バアルは答えなかった。ただ、前を向いて歩き続けた。右腕の痙攣が——また始まっていた。力が戻ってくる。押さえ込む作業が再開される。嵐神の日常は——終わらない抑制の連続だった。


「バアルは——人間が好きなんですね」


 アシュタルは歩きながら言った。


「好き、とは違う」


「では何ですか」


「……守るべき存在だ。人間は——面白いが、脆い。放っておけば干ばつで死に、洪水で流され、疫病で倒れる。だが——面白い。同じ問題に何度もぶつかりながら、毎回違う方法で乗り越えようとする。飽きない」


「飽きない、ですか」


「何千年見ていても飽きない。それだけの価値がある」


 アシュタルは黙って聞いていた。


 バアルの人間観は——好意的だった。明確に好意的だった。人間を嫌っているわけでも、蔑んでいるわけでもない。面白いと思い、守りたいと思い、その営みに価値を認めている。


 だが。


「守るべき存在」


 その言葉が引っかかった。


「バアル。一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「あなたにとって、人間は——対等ですか」


 バアルが足を止めた。


 アシュタルも止まった。アナトが後方で立ち止まった。


「対等——か」


 バアルが空を見た。自らの力で薄くした雲の間から、青い空が見えていた。


「正直に言えば——対等ではない。力が違いすぎる。寿命が違いすぎる。俺は雷を呼び、天候を操り、何千年も生きる。人間は——できない。その差は埋まらない」


「では、保護の対象ですか」


「保護——という言い方が正しいかは分からない。だが——守るのは俺の役目だ。嵐神として、カナアンの人間を嵐の災いから守り、雨の恵みで潤す。それが俺の存在意義だ」


「あなたは王で、人間は民。そういうことですか」


「王と民——そうだな。そういう関係だ」


 アシュタルは帳面に書き込まなかった。この会話は記録すべきものではない。記憶に留めるべきものだ。


「僕は商人です」


「知っている」


「商人にとって、取引相手は対等です。王であっても、乞食であっても、取引の場では対等だ。——でなければ、公正な取引は成り立たない」


「公正な取引——か。だが神と人間の間に、『公正な取引』が成り立つと思うか」


「成り立たせたい、と思っています」


 バアルの眉が動いた。


「大した自信だ」


「自信ではありません。願望です」


「……願望か」


 バアルは歩き出した。前を向いたまま、低い声で言った。


「お前の願望は——面白い。だが危険でもある。神と人間が対等であるということは、神が人間を特別に守る理由がなくなるということだ。対等なら——人間は自分で自分を守らなければならない」


「それは——」


「嵐が来た時、俺が逸らさなければ人間は死ぬ。干ばつが来た時、俺が雨を降らさなければ作物は枯れる。それでも——対等か?」


 答えに窮した。


 バアルの論理は正しい。力の差がある以上、完全な対等はない。庇護者と被庇護者の関係は——力の非対称から生まれる。


 だが——。


「今のあなたは、嵐を完全に制御できていない」


 アシュタルは言った。


「恵みも災いも、あなたの意志通りにはならない。それでも——僕は、あなたの力を借りて問題を解決しようとしている。流通管理の方法を提案し、あなたがそれを実行している。これは——」


「対等な協力、か」


「少なくとも——一方的な庇護ではないと思います」


 バアルが振り向いた。


 濃い青の瞳が——アシュタルを見た。嵐神の目。千年の重みを持つ目。だがその目には——考え込むような色があった。


「お前の言葉は——考えさせられる」


「考えてもらえれば十分です」


「……面白い奴だ」


 今日二度目の「面白い」だった。だが——最初の「面白い」とは、響きが違った。


 アシュタルは歩き続けた。答えはまだ出ない。神と人間は対等か。その問いは——この旅が終わっても、終わらないだろう。


 後方で、アナトが無言で二人の会話を聞いていた。金色の瞳が——アシュタルの背中を見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ