商人の問い
三人の旅が始まった。
二人の旅ではない。三人だ。バアルが加わったことで、旅の全てが変わった。
まず、歩く速度が変わった。バアルは神だが、冥界の滞在で体力が落ちている。アナトのような不知疲が嘘のような健脚ではなく、人間のアシュタルと同じくらいの速度でしか歩けなかった。
「情けない話だ。嵐神が人間の歩く速度に合わせるのではなく、人間と同じ速度でしか歩けないとは」
「気にしないでください。急いでも仕方がない距離です」
「俺が気にしているんだ」
バアルの声には苛立ちと自嘲が混じっていた。力を失った王の屈辱。それは——アシュタルには理解できる感情だった。商人にとって、信用を失うことは死に等しい。バアルにとっての力は、商人にとっての信用だ。
次に、食事の問題があった。アナトは食事を必要としない——少なくとも「必要としない」と本人は主張している。だがバアルは、冥界の影響で神力による自己維持が不十分になっており、人間と同じように食事を摂る必要があった。
「兄上。食べなさい」
アナトが干し肉をバアルに差し出した。アシュタルが冥界に持ち込んだ携帯食料の残りだ。
「お前は食べないのか」
「私は——必要ない」
「嘘をつけ。お前も消耗している。冥界の空気を長く吸った。食べろ」
「……」
アナトが干し肉を受け取った。小さく齧った。その仕草が——アシュタルの記憶の中のアナトとは少し違っていた。
旅の最初の頃、アナトは食事という行為自体を馬鹿にしていた。「人間は脆い。食べなければ動けないのか」と。だが今は、抵抗なく干し肉を口にしている。小さな変化だが——変化だ。
最も変わったのは、アナトだった。
バアルとの再会を、アナトがどれほど待ち望んでいたかはアシュタルも知っている。冥界への旅の全てが、この再会のためだった。兄を取り戻す。それだけがアナトの動機だった。
だが——再会したアナトは、ぎこちなかった。
「兄上。水場はあちらの方角です」
「ああ。ありがとう」
「……いえ」
それだけだった。以前なら——バアルがいた頃なら——もっと自然に会話していたはずだ。兄と妹。何千年も共に過ごした家族。その間柄が——どこかぎくしゃくしていた。
アナトがバアルと話す時、言葉が足りなかった。言いたいことの半分も出てこないような——あるいは、言いたいことが何なのか、本人にも分からないような。
バアルはそれに気づいている。嵐神は鈍い男ではない。妹のぎこちなさを、何度も横目で確認していた。だが——問わなかった。時間が必要だと判断しているのだろう。賢明な判断だ。
アシュタルは三人の中間を歩いていた。
物理的にも、関係性的にも。
バアルが先頭。アシュタルが真ん中。アナトが後方。自然とそうなった。バアルは前方の天候を感知しながら歩く。アナトは後方の警戒を担う。アシュタルは——二人の間で、帳面を書きながら歩く。
夕暮れ時、岩陰で火を起こした。
バアルとアナトが並んで座った。兄妹だ。当然、隣に座る。だがアナトの体は——微かに硬かった。肩が上がっている。普段の彼女にはない緊張。
「アナト」
バアルが声をかけた。柔らかい声。兄の声。
「何だ」
「お前は——変わったな」
アナトが顔を上げた。金色の瞳が揺れた。
「何が」
「分からない。だが——変わった。前のお前は、こんな風には座らなかった」
アナトの肩がさらに上がった。
「……座り方まで指図するな」
「指図ではない。気づいたことを言っただけだ」
「気づくな」
「無理だ。妹のことだ」
アナトが立ち上がった。唐突に。火の向こうに移動して、背中を向けて座り直した。
「……風を見てくる」
「風は今、安定している。俺が一番よく分かる」
「うるさい」
バアルが微苦笑した。アシュタルを見た。
「何があった」
小声だった。アナトに聞こえないように。
「何が、とは」
「あいつが変わった理由だ。お前は知っているだろう。旅をしてきたんだから」
アシュタルは口を開きかけて——閉じた。
知っているか。知っている。少なくとも——推測はできる。だがそれを兄に話すのは、アシュタルの役目ではない。
「僕は商人です。他人の秘密を売り物にはしません」
バアルが目を細めた。
「……そうか」
「ただ——一つだけ」
「何だ」
「あなたの妹は、強い人です。冥界に乗り込む強さだけじゃない。変わることができる強さがある。——それは、すごいことだと思います」
バアルが黙った。
焚き火の向こうで、アナトの背中が微かに震えた。聞こえていたのかもしれない。聞こえていないふりをしているのかもしれない。
三人の旅路は——始まったばかりだった。




