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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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沈黙する女神

 翌朝、アシュタルはバアルに商売の話をした。


 唐突だったと思う。嵐神の力の制御方法を話し合うはずの場で、商人が在庫管理の話を始めたのだから。


「港には倉庫があります」


 アシュタルは焚き火の灰を棒で突きながら言った。朝の空は薄曇りで、小雨がぱらついていた。バアルの力は夜の間に少し安定したらしく、紋様の明滅は穏やかだった。


「倉庫には商品が入っている。穀物、布、油、陶器。商品は出入りがあります。仕入れて、保管して、売る。この流れを——『流通』と呼びます」


「……商売の授業か」


「まあ、聞いてください」


 バアルは苦笑した。だが座ったまま聞いている。アナトは少し離れた岩の上に座り、風に髪を遊ばせながらやはり聞いていた。聞いていないふりをしているが——耳は向けている。


「流通管理で最も大事なのは——『入りと出のバランス』です。仕入れすぎれば倉庫が溢れる。売りすぎれば品切れになる。大事なのは量ではなく——流れです」


「流れ」


「はい。倉庫の容量は決まっています。無限ではない。だから——入ってくる量と出ていく量を、倉庫の容量に合わせて調整する。容量を超えた分は——別の倉庫に回す。あるいは、仕入れを一時的に止める」


 アシュタルは地面に図を描いた。大きな円を一つ、そこから伸びる矢印を何本か。


「バアルの体が倉庫です。力が商品。天候に放出するのが売上。冥界から流入してくるのが——いや、流入はないですね。在庫は七割五分で固定。問題は、売上——つまり力の放出——が制御できていないことです」


「俺の体が倉庫で、嵐が売上、か」


「はい。今のあなたは——倉庫の管理人が休職中で、入出庫が無秩序に行われている状態です。管理人——つまり制御系統——が復帰するまでの間、仮の管理体制を組む必要がある」


「仮の管理体制」


「昨夜話した、制御範囲の縮小です。でも——もう少し精密にやります」


 アシュタルは地面の図に書き足した。大きな円の中に、小さな円を何重かに描いた。


「一番内側が——バアルの体から半径一里。この範囲は精密に制御する。嵐も雷も起こさない。安全圏です。次の円が半径十里。ここでは制御を緩めて、小雨程度の天候操作を許す。一番外側がカナアン全域。ここは——」


「自然に任せる」


「はい。段階的な制御領域です。流通管理で言えば、Aランク・Bランク・Cランクの倉庫管理。最も大事な在庫はAランク倉庫で厳重管理。次がBランク。Cランクは最低限の記帳だけで、あとは現場に任せる」


 バアルが黙っていた。


 長い沈黙だった。アシュタルは口を挟まなかった。商談の最中に相手が黙った時、先に口を開いた方が負ける。沈黙を恐れるな。それが父に教わった最初の商売の鉄則だった。


「……お前の話は」


 バアルが口を開いた。


「面白い」


 面白い——ではなかった。


 バアルの声には、それ以上のものがあった。驚き。感嘆。そして——ある種の敬意。嵐神が人間の商人に敬意を向けている。


「面白い、ではないな。正しい」


「正しいかどうかは——やってみないと分かりません」


「いや。理屈としては正しい。俺は——嵐の制御を、感覚でやっていた。全盛期の力があれば感覚で十分だった。だが今は力が欠けている。感覚だけでは補えない。——構造で補う。お前の言う『流通管理』は、嵐の制御を構造化しようとしている」


「構造化——はい。そう言ってもいいかもしれません」


「面白い考え方だ」


 バアルが——アシュタルを見た。


 その目は、「面白い人間」を見る目ではなかった。「認めた相手」を見る目だった。濃い青の瞳が、焚き火の灰の向こうから真っ直ぐにアシュタルを射抜いた。


「嵐の制御に、人間の知恵を使う。——俺は何千年もこの力を持っていたが、そんな発想はなかった」


「それは当然です。力がある人は、力で解決する。力がない人間は——別の方法を考える。僕が考えたのは別の方法であって、力の代替ではありません」


「力の代替ではない——だが、力の補助にはなる」


「なれば、いいんですが」


 バアルが立ち上がった。


「やってみよう」


 嵐神が空に向かって右手を掲げた。紋様が淡く光った。だが今度は——暴走ではなかった。意図的に、慎重に、力を絞り出している。


 最初の円——半径一里。この範囲の天候を完全に制御する。


 バアルが集中した。額に汗が浮いた。右腕の紋様が安定した光を放った。


 小雨が——止まった。


 三人の頭上から、雨雲が消えた。小さな円形の晴れ間。半径一里。その外側では小雨が続いている。だが円の内側は——晴れていた。


「できた——か?」


「できています」


 アシュタルは空を見上げた。円形の青空。その縁に灰色の雲。見事な対比だった。


「最初の円は成功です。次は——」


「焦るな。今は、これが限界だ。一つ目の円を維持するだけで——相当の集中力がいる」


「分かりました。では——今日は一つ目の円を維持する練習をしましょう。商売も同じです。最初の取引が安定してから、次の取引に手を出す」


 バアルが——笑った。


 先ほどの苦笑ではなかった。穏やかな笑みだった。


「お前はいい商人だな」


「最高の褒め言葉です」


 アナトが岩の上から降りてきた。


「……馬鹿な話をしている割に、空は晴れたな」


「馬鹿な話のおかげです」


「うるさい」


 だがアナトの口元が——微かに緩んでいた。


 アシュタルは帳面に書いた。


 流通管理方式。第一段階——成功。


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