バアルの告白
五日目の夜。
雨は小降りになっていた。岩陰に火を起こし——アナトが岩を叩いて火花を散らし、アシュタルが枯れ草を集め、バアルが申し訳なさそうに雨を逸らした——三人は焚き火を囲んでいた。
バアルは火の向かい側に座っていた。膝を立て、両手を組んでいる。紋様は弱く明滅している。夜になると暴走の危険は下がるらしい。太陽がない分、天候との連動が弱まるからだとバアルは説明した。
「では、整理しましょう」
アシュタルは帳面を膝に載せた。墨は乾ききっているが、薄い文字でなんとか書ける。
「バアルの力の制御が利かない原因は——二つ。一つは、力の二割五分が冥界に残っていること。制御系統が十割の力を前提に設計されているのに、七割五分しか使えない」
「そうだ」
「もう一つは、冥界に長くいたことで、力の回路——紋様——が鈍っていること。これは時間が経てば回復する可能性がある」
「回復する。だが完全にはならない。二割五分が欠けている以上、全盛期の制御精度には戻らない」
「つまり——時間が解決するのは回路の鈍りだけ。力の不足は構造的な問題で、解決しない」
「その通りだ」
アシュタルは帳面に図を描いた。円を描き、その四分の一を斜線で消した。残った四分の三に「バアルの力」と書き、消した部分に「冥界に残留」と書いた。
「モトとの契約で、二割五分は冥界に残すと決めた。これは覆せない。契約違反になれば——僕の魂がモトのものになる」
「……すまない」
「謝らないでください。これは僕が自分で決めた条件です」
バアルが目を伏せた。アシュタルの言葉に対する嵐神の反応は、常に「すまない」だった。自分のために人間が魂を賭けたことへの罪悪感。それは——真摯な感情だった。だがアシュタルには、今は感情よりも論理が必要だった。
「では、七割五分の力で天候を安定させる方法を考えましょう。問題は——百の嵐を七十五の力で制御しようとしていること。選択肢は二つ。力を増やすか、嵐を減らすか」
「力は増やせない。冥界に残した分は戻らない」
「なら嵐を減らす。百の嵐を、七十五に抑える方法を探す」
「どうやって」
「それを今から考えます」
アナトが焚き火の向こうで腕を組んでいた。会話に参加せず、ただ聞いていた。だが——聞いている。金色の瞳が焚き火の光に照らされ、時折アシュタルの方を向いた。
アシュタルは帳面の新しい頁を開いた。
「バアル。あなたの力は——常時発動しているんですか。眠っている間も」
「……ああ。嵐神の力は俺の意志とは半ば独立して動いている。天候を感知し、自動的にバランスを取ろうとする。俺が意識的に嵐を呼ぶ時は精密に制御できるが——自動的に動く部分は、制御が難しい」
「自動的に動く部分。それが暴走の原因ですね」
「そうだ。全盛期は、自動制御の範囲を俺の意志で調整できた。だが今は——調整弁が壊れている」
調整弁。
商人の頭が動いた。
「バアル。その自動制御を——一時的に切ることはできますか」
「切る?」
「全部ではなく——範囲を限定する。カナアン全域ではなく、半径十里、二十里の範囲だけを制御対象にする。残りの範囲は——天候を自然に任せる」
バアルが目を見開いた。
「制御範囲を——縮小する、だと?」
「力が足りないなら、守る範囲を狭くすればいい。全部を守ろうとするから暴走する。七十五の力で百を守るのではなく、七十五の力で七十五を守る」
「だが——残りの二十五はどうなる」
「自然に任せる。バアルがいなかった時代——冥界に留まっていた間——カナアンの天候は自然に動いていたはずです。干ばつにはなったが、世界が滅びたわけではない。嵐神の介入がなくても、天候はそれなりに動く」
バアルが黙った。
長い沈黙だった。焚き火の薪が爆ぜる音だけが聞こえた。
「……全てを守らなくていい、と。そう言っているのか」
「はい」
「それは——王としての務めを放棄しろと言っているのと同じだ」
「いいえ。選択しろと言っています。全てを中途半端に守るか、一部を確実に守るか。——商売では、全ての取引先を同時に満足させることはできません。優先順位をつけて、一つずつ対処する。それが——持続可能な方法です」
バアルの拳が膝の上で握り締められた。
アナトが口を開いた。
「兄上」
静かな声だった。
「こいつの言うことには——理がある」
バアルがアナトを見た。
「お前も同意見か」
「私は嵐の制御など分からない。だが——戦場では同じだ。全方位を守ろうとすれば陣形が崩壊する。守る場所を選び、捨てる場所を選ぶ。それが指揮官の仕事だ」
バアルが目を閉じた。
「……分かった」
嵐神が目を開いた。濃い青の瞳に——決意があった。
「明日から試す。制御範囲を縮小して——段階的に、力を安定させる」
原因は分かった。方針も見えた。
だが——解決はまだ先だ。
アシュタルは帳面に書いた。
方針決定。段階的制御。実行は明日から。
書きながら——右手首の印が微かに疼いた。銀の円環紋様が、焚き火の光を反射して光っていた。




