自ら留まる嵐
豪雨は三日間続いた。
三日目の朝——朝と呼べるかどうか、灰色の空が少しだけ明るくなったのを朝と判断したのだが——アシュタルは岩陰を出て、雨の中に立った。
遠くに緑が見えた。
乾ききっていたはずの大地に、草が芽吹いていた。三日前には枯れ草と砂しかなかった斜面に、薄い緑の絨毯が広がっている。砂漠に近い荒野が——潤っていた。
「……嵐の恵み、か」
アシュタルは呟いた。
バアルの力がもたらした豪雨は、カナアンの大地を潤していた。干ばつに苦しんでいた地域にとっては、まさに天の恵みだろう。農民は踊っているかもしれない。牧草地は蘇り、井戸の水位は上がり、枯れかけた河川には水が戻っているはずだ。
だが——。
南の方角を見た。
低地がある。河川が合流する平野部。あの辺りは——水没しているだろう。三日間の豪雨を受け止めるには、カナアンの河川は細すぎる。氾濫は確実だ。農地は流され、家屋は浸水し、家畜は溺れているかもしれない。
恵みと災い。同じ雨が、場所によって恵みにも災いにもなる。
バアルが岩陰から出てきた。三日間で少しだけ回復した。髪の白い部分が減り、体つきにも張りが戻りつつある。だが紋様は不安定に明滅を続けている。力の制御は——まだ、できていない。
「雨が——小さくなってきた」
バアルが空を見上げた。灰色の雲は薄くなりつつある。三日間で放出された力が落ち着き始めている。
「止まりますか」
「完全には止まらない。俺が地上にいる限り、天候は俺の力に反応する。だが——大雨は収まるだろう。小雨程度になるはずだ」
「小雨程度なら——恵みのままでいられる」
「……そうだな」
バアルの声には苦いものが混じっていた。自分の力がもたらした災いを、嵐神は自覚していた。
アナトが近づいてきた。三日間、ほとんど口を開かなかった。バアルの傍にいて、暴走の兆候があれば身構える——その繰り返しだった。
「歩けるか」
アナトの問いはアシュタルに向けられていた。
「歩けます」
「兄上は」
「……歩ける」
「なら出発する。ここにいても仕方がない」
三人は歩き始めた。
北西へ。ウガルへ。
アシュタルは歩きながら、頭の中で整理を始めた。バアルの帰還がもたらした天候暴走は、カナアン全域に影響を及ぼしている。恵みと災いの二面性。この問題を——どうするか。
バアルの力を完全に封じるわけにはいかない。嵐神の力はカナアンの天候を支えている。バアルがいなければ干ばつが続き、雨は降らず、大地は枯れる。バアルが戻ったからこそ雨が降った。問題は——量と制御だ。
多すぎる恵みは災いになる。少なすぎる恵みは意味がない。
商人の頭が回った。
これは——需給バランスの問題だ。供給(バアルの力)と需要(カナアンの天候)のバランスが崩れている。供給側の制御が利かないなら、需要側——天候が力を受け取る仕組み——に介入する必要がある。
だが天候に介入するなど、人間にできることではない。
いや——。
アシュタルは考えた。人間には直接できない。だがバアルに「やり方」を提案することはできる。商人は自分で荷物を運ばない。運び方を設計し、最適な経路を組み、運ぶ人間を手配する。それが商人の仕事だ。
「これは僕が契約で引き受けた問題だ」
アシュタルは呟いた。声に出した。
アナトが振り向いた。
「何が」
「バアルの帰還——その結果起きている問題の全てが、僕の契約の範囲内です。バアルを地上に帰還させた。それは契約通りだ。でも帰還の結果起きた天候暴走は——契約では想定していなかった」
「想定していなかったなら、お前の責任ではない」
「いいえ。想定できなかったのは僕の落ち度です。商人は——取引の結果を全て見通す義務がある。見通せなかったなら、それは準備不足です」
アナトが目を細めた。何か言いたげだったが——言わなかった。
「だから——この問題は僕が解決します。方法を考えます。バアルの力の制御方法を。天候暴走の収束策を。それが——僕の仕事です」
バアルが歩きながら振り向いた。
「人間が、嵐神の力を制御する方法を考えると」
「制御する方法を——提案します。実際にやるのはあなたです。僕は商人で、嵐は起こせません。でも——起こし方の設計はできるかもしれない」
バアルの眉が動いた。興味の表情だった。
「面白いことを言う」
「面白いかどうかは分かりません。でも——考えないわけにはいかない」
恵みでもあり、災いでもある。
この天秤をどう傾けるか。アシュタルは歩きながら考え続けた。帳面の頁が足りなくなりそうだった。




