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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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モトの反論

 バアルが力を解放した。


 意図的に——ではなかった。正確には、「意図的に一部を解放して、残りを抑える」という試みだった。アシュタルが提案したのだ。暴走を待つのではなく、こちらから少しずつ力を放出して圧力を下げる。商人の言葉で言えば「在庫の計画的な放出」。溜まりすぎた商品を一気に市場に流せば値崩れを起こすが、少しずつ放出すれば市場は安定する。


 理屈としては正しかった。


 結果としては——半分だけ正しかった。


 バアルが右手を空に向けた。紋様が淡く光った。力を絞り出すように——少量の雷を、空に向かって放った。制御された放電。冥界帰還後、初めての「意図的な」力の行使だった。


 雷が空に走った。一本。細い稲妻。灰色の雲に吸い込まれるように消えた。


「もう少し」


 バアルが呟いた。二本目の雷を放った。三本目。四本目。少しずつ、少しずつ。体内に溜まった嵐の力を空に逃がしていく。


 最初の五本は——上手くいった。


 六本目で制御が外れた。


 細い稲妻のつもりが、太い雷になった。空に向かって放った力が雲を貫き、雲の中で連鎖反応を起こした。灰色の雲が膨張し、分厚い積乱雲に変わった。


 そして——雨が降り始めた。


 豪雨だった。


 バケツをひっくり返したような、という比喩がある。それが甘い。空が割れて水が落ちてきたような雨だった。視界が完全に塞がれた。三歩先も見えない。大地が一瞬で泥に変わり、乾ききっていた岩の隙間から水が噴き出した。


 広範囲だった。


 頭上だけではない。空を見上げれば——見上げられないほどの雨だが——積乱雲が地平線まで広がっていた。アシュタルの計算が正しければ、この雲の範囲は——カナアン全域に近い。


「……まずいな」


 バアルが雨の中で立っていた。全身がずぶ濡れだった。白混じりの髪が顔に張りつき、紋様は消えている。力を使い果たしたのではなく、力が「勝手に出て行った」。バアルの中に残った嵐の力が、六本目の雷を呼び水にして一気に空に放出された。


「兄上……」


 アナトが雨の中でバアルの横に立った。赤い髪が雨に濡れて暗い色になっている。金色の瞳が兄を見上げていた。そこには——怒りも苛立ちもなかった。ただ、痛みがあった。兄が苦しんでいることへの、純粋な痛み。


「制御を、やり直す必要がある」


 バアルが言った。


「冥界に長くいすぎた。力の回路が錆びている。——それに、二割五分が欠けている。体が覚えている感覚と、実際の出力が合わない。十割の力で百の嵐を制御していたのに、今は七割五分で百の嵐を制御しようとしている。足りない分が——暴走になる」


 アシュタルは豪雨の中で帳面を開いた。もう濡れることは諦めた。濡れた頁に、滲む墨で書いた。


「つまり——力の総量は変わっていないのに、制御できる範囲が狭くなっている。そういうことですか」


「そうだ」


「なら、嵐の規模を小さくすればいい。百の嵐ではなく、七十五の嵐を起こせばいい」


「……言うのは簡単だ。だが嵐神の力は天候と連動している。俺が地上にいる限り、カナアンの天候は俺の力に反応する。『小さい嵐』を起こそうとしても、天候がそれを増幅してしまう」


 なるほど、とアシュタルは思った。


 市場の問題と同じだ。供給を制御しても、需要側が暴走すれば価格は安定しない。バアルの力が供給で、カナアンの天候が需要。需要側——天候側——の反応を制御する方法が必要だ。


 雨は止まなかった。


 三人は岩陰に避難した。岩の庇の下で雨をしのぎながら、アシュタルは考え続けた。


「この雨——カナアン各地で降っているんですよね」


「ああ。俺の力が引き起こした雲だ。カナアン全域に広がっているだろう」


「夏の終わりの豪雨。干ばつが続いていた地域には恵みになる。でも——」


「河川の近くでは洪水になる」


 バアルの声は重かった。


「港湾都市は高潮の危険がある。農地は——作物次第だ。水を欲していた土地もあるだろう。だが多すぎれば根が腐る」


 恵みと災い。


 嵐神の帰還は、カナアンの大地にとって恵みであり災いだった。


「各地で何が起きているか、確認する方法はありますか」


「直接見る以外にはない。以前なら——嵐を通じてカナアン全域を感じ取れた。だが今は、力が不安定で遠くの天候を把握できない」


 アシュタルは頷いた。


「では、ウガルに向かいながら確認しましょう。道中の街で情報を集めます。商人にはそれができます」


 バアルがアシュタルを見た。


「お前は——取り乱さないな」


「取り乱していますよ。内心では」


「見えないが」


「見せないんです。商人ですから。取り乱した顔を見せたら、取引が不利になる」


 バアルが——微かに笑った。疲弊した顔に、小さな笑みが浮かんだ。


「面白い奴だ」


 その言葉に、アシュタルは何も返さなかった。面白いと言われても困る。目の前の問題は面白くもなんともない。


 雨は降り続いた。


 カナアン全域に——嵐神の帰還を告げる雨が、降り続いた。


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