取引の申し出
暴風は予告なく来た。
雷の嵐が収まってから半日が経っていた。三人は冥界の出口から離れ、北西に向かって歩いていた。ウガルは北西の方角にある。バアルの力は小康状態にあり、空にはまだ灰色の雲が残っていたが、雷は鳴っていなかった。
アシュタルは歩きながら計算していた。ウガルまでの距離。徒歩での所要日数。残りの期限。食料と水の状況。契約の四十五日の猶予。数字を帳面に書き込みながら歩く——商人の習慣だった。
だから、風の変化に気づくのが遅れた。
最初の兆候は、足元の砂だった。砂が不自然な方向に流れていた。風は北西から吹いているのに、砂は渦を巻くように四方八方に散っている。
「バアル」
アナトが声を上げた。鋭い声。警告の声。
バアルの右腕の紋様が——また明滅し始めていた。
「分かっている——」
バアルが歯を食いしばった。紋様を左手で押さえた。だが手で押さえて止まるものではない。神力は物理的な力ではない。
風が変わった。
急激に。
それまでの穏やかな風が、一瞬で暴風に変わった。横殴りの風がアシュタルの体を叩いた。
「——ッ!」
足が浮いた。
体重の軽い人間の体が、暴風に煽られて宙に浮いた。帳面が手から引き剥がされ、風の中に消えた。視界が砂で埋まった。息ができない。口と鼻に砂が入り込んだ。
飛ばされる——。
そう思った瞬間、腕を掴まれた。
強い力。人間の力ではない。神の力。引き寄せられた。暴風の中で、誰かの腕の中に引き込まれた。
地面に叩きつけられた——いや、地面に押し伏せられた。誰かの体が覆い被さるように、アシュタルを地面に押さえている。
風が頭上を通り過ぎた。暴風の唸りが耳を聾した。
目を開けた。砂だらけの視界の中に——赤い髪が見えた。
アナトだった。
戦女神がアシュタルの上に覆い被さり、暴風から守っている。赤い髪が風に暴れ、革の戦装束が風に叩かれて鳴っていた。両腕でアシュタルの頭を覆い、背中で風を受けている。
神力の防壁ではなかった。
体で——守っている。
「アナト——」
「黙れ。動くな」
アナトの声は耳元で聞こえた。近い。息がかかるほど近い。金色の瞳が至近距離でアシュタルを見下ろしていた。砂埃で汚れた顔。だが瞳の色は鮮烈だった。
「死ぬな、馬鹿。契約はまだ途中だ」
その言葉は——怒りだった。アナトの声は怒りだった。だがその怒りの下に、何か別のものが混じっていた。声の震え。微かだが——震えていた。
暴風が続いた。三十秒か、一分か。時間の感覚が曖昧だった。風の唸りの中で、アシュタルはアナトの体温を感じていた。神の体温。冥界で肩が触れた時にも感じた温度。温かかった。暴風の中で、その温度だけが確かだった。
風が——弱まった。
唐突に。先ほどの雷の時と同じだ。バアルの力が暴走し、そして休眠する。そのサイクルが徐々に短くなっている。
アナトが体を起こした。
アシュタルの上から退いた。すぐに——何事もなかったかのように立ち上がり、バアルの方を見た。
「兄上」
「……すまない。また、抑えきれなかった」
バアルが膝をついていた。紋様の光は消えている。嵐神の顔には疲労と——申し訳なさがあった。
アシュタルは体を起こした。全身が砂だらけだった。口の中に砂が入っている。服の中にも。髪の中にも。商人の実用服は砂よけのフードがついているが、あの暴風には無力だった。
帳面を探した。
風に飛ばされた帳面が、三十歩ほど先の岩の陰に引っかかっていた。取りに行った。頁が何枚かちぎれていたが、本体は無事だった。
アナトが近づいてきた。
「怪我は」
「ありません。あなたのおかげで」
「……礼を言うな。契約の遂行に必要な行動を取っただけだ」
アナトは顔を背けた。赤い髪が風に靡いた。暴風は去ったが、まだ風は残っている。その風に髪を遊ばせながら、アナトは歩き出した。バアルの方へ。
アシュタルはその背中を見た。
契約の遂行。そう言った。理屈としては正しい。アシュタルが死ねば、モトとの契約の履行ができなくなる。アナトにとっては不利益だ。だから守った。論理的に正しい。
だが——体が先に動いていた。
アナトの反応は、計算ではなかった。考える前に駆けた。判断ではなく反射だった。「契約」という言葉は、後から付け加えた理由だ。商人の目はそれを見抜いた。
契約という名の言い訳は——いつまで通用するのだろうか。
アシュタルはその問いを飲み込んだ。今はそれどころではない。目の前にはもっと切実な問題がある。
バアルの力が制御できていない。
暴走の間隔が短くなっている。雷の次は暴風。次は何だ。豪雨か。竜巻か。このままウガルに向かえば、道中の村や街を巻き込む可能性がある。
「バアル」
アシュタルは嵐神に声をかけた。
「少し、話をしませんか。力の制御について」
バアルが顔を上げた。疲弊した顔。だが——濃い青の瞳は、まだ折れていなかった。
「……商人に、嵐の制御が分かるのか」
「嵐は分かりません。でも——暴走する力の扱い方なら、心当たりがあります」
バアルの眉が動いた。
「商売の話ですが」
アシュタルは砂だらけの帳面を開いた。
「聞いてもらえますか」




