死神の玉座
雷が落ちた。
雲一つない空から——雷が落ちた。
閃光が視界を灼いた。白い線が空から地面に走り、乾いた大地を抉った。轟音が遅れてきた。空気が震え、足元の砂が跳ねた。焦げた匂い。雷に焼かれた岩の匂い。
アシュタルは反射的に伏せた。商人の体は戦士のそれではない。雷に対する正しい対処法など知らない。ただ本能的に身を低くした。
「動くな!」
アナトの声が頭上を飛んだ。
二発目。
今度は近かった。十歩先の岩に落ちた。岩が砕け、破片が飛んだ。熱い風が顔を叩いた。空が——晴れているのに——唸っていた。雷鳴が連続して響く。雲のない雷。異常だ。
バアルだ。
嵐神が立っていた。両腕を広げ、空に向かって何かを叫んでいた。だが声は雷鳴にかき消されていた。右腕の紋様が白く、激しく、脈動している。稲妻が紋様から空に向かって——逆に——走っていた。地上から空へ。嵐神の体が放電している。
「まずい……抑えきれない」
バアルの声が聞こえた。雷鳴の合間に。途切れ途切れに。
「力が——勝手に——」
三発目。
今度は空に向かって走った。地面から空へ。逆さまの雷。バアルの体から放たれた雷が空を裂き、藍色の空に白い亀裂を刻んだ。亀裂はそのまま——雲になった。何もなかった空に、灰色の雲が生まれた。
ありえない光景だった。
嵐とは空から降りてくるものだ。雲が生まれ、風が吹き、雨が降る。それが自然の順序だ。だが今、嵐は地上から空に向かって《《生まれて》》いた。嵐神の帰還が——天候の因果を逆転させている。
「バアル!」
アナトが叫んだ。
駆け寄ろうとした。だがバアルが片手を上げて制した。近づくなという意思表示。
「来るな——巻き込まれる」
バアルの周囲に風の壁ができていた。暴風。半径十歩ほどの円形の暴風域。砂が渦を巻き、小石が弾丸のように飛んでいる。嵐神を中心にした、制御されていない嵐。
アシュタルは伏せたまま、その光景を見ていた。
これが嵐神の力だ。
冥界で見た時は、力は封じられていた。痩せた体躯に閉じ込められ、紋様は薄れ、雷は遠い記憶のようだった。だが今——地上の大気に触れ、風を感じ、空と繋がったバアルの力は——暴れている。
モトとの契約で残した二割五分。あれが足枷になっている。全力なら制御できる力を、七割五分で制御しようとしている。足りない。バランスが崩れている。エンジンの出力とブレーキの比率が合っていない——と、アシュタルは商人の比喩ではなく職人の比喩で考えた。
四発目の雷が空に走った。灰色の雲がさらに広がった。
「アナト」
アシュタルはアナトを呼んだ。伏せたまま。砂が口に入った。
「何だ」
「あれは止められるのか」
「……分からない。兄の全力の嵐なら制御できた。だが今の兄は——力が欠けている。欠けた力で嵐を起こしている。制御系統が機能していない」
アナトの声には焦りがあった。戦女神が焦っている。何千年も兄と共に戦場を駆けた女神が、兄の力に手を出せない。
「止まれ——」
バアルの声が聞こえた。自分の力に命じている。嵐神が嵐に命じている。だが嵐は——応えなかった。
「止まれっ——!」
五発目。
空が灰色に覆われた。さっきまでの晴天が嘘のように、分厚い雷雲が頭上を覆い尽くした。風が唸っている。砂嵐のような暴風が吹き荒れ、視界が霞んだ。
そしてバアルが——叫んだ。
言葉ではなかった。嵐神の雄叫び。あるいは悲鳴。自分の力に裏切られた者の声。
雷が一斉に——空から降り注いだ。
十本。二十本。数え切れない稲妻が灰色の空から地面に走った。大地が揺れた。岩が砕けた。砂が舞い上がった。白い光の雨。
アシュタルは両手で頭を覆った。帳面が手から落ちた。初めてだった。帳面を手放したのは。
そして——止まった。
唐突に。
雷が止まり、風が凪いだ。
静寂が降りた。
アシュタルは顔を上げた。
バアルが膝をついていた。両手を地面について、肩で息をしていた。白混じりの髪が汗で額に張りついている。紋様の光は消えていた。力を使い果たしたのではない——力が一時的に休眠状態に入った。暴走と鎮静のサイクル。
空を見上げた。
灰色の雲はまだ残っていた。だが雷は止んでいる。代わりに——雨が降り始めた。静かな雨。焼けた大地を濡らす、温かい雨。
アナトがバアルに駆け寄った。
「バアル——」
「……すまない」
バアルが言った。膝をついたまま。嵐神の声は疲弊していた。
「制御が——間に合わなかった。力が戻ってきたことを、体が覚えていない。いや——力の方が、体を覚えていない。七割五分の力で、十割の嵐を呼んでしまった」
「休め。無理をするな」
「……ああ」
アシュタルは砂の上に落ちた帳面を拾い上げた。砂をはたいた。頁が少し破れていた。だが中の記録は読める。
立ち上がった。膝が震えていた。恐怖ではない——いや、恐怖だ。素直に認めよう。雷に囲まれて恐怖を感じない人間はいない。
雨に打たれながら、バアルを見た。
嵐神が膝をついている。地上に帰還した嵐神が、自分の力に振り回されている。
バアルの帰還は——正しかったのだろうか。
その問いが、胸の奥に小さな棘のように刺さった。刺さったが——抜かなかった。今は抜くべきではない。問いは問いとして持っておく。商人は結論を急がない。
帳面に書き足した。
天候暴走。バアルの力——制御不能。
雨が帳面を濡らした。墨が少し滲んだ。だが——読める。まだ読める。




