嵐の残り香
光が見えた。
冥界の出口は、想像していたものとは違った。巨大な門でもなければ、裂け目でもない。ただ——岩壁の隙間から漏れる、一筋の白い光だった。細い光。指の幅ほどしかない。だがそれが、アシュタルの目を射抜いた。
太陽だ。
どのくらい見ていなかっただろう。日数は帳面に記録してある。だが記録の数字と、体が覚えている時間は別物だった。冥界に入ってから、アシュタルの体は太陽を忘れかけていた。肌が光を忘れ、目が闇に慣れ、骨の匂いを自然なものとして受け入れ始めていた。
あの光は——本物だ。
「動くな」
アナトの声が背後から飛んできた。低い声。警戒の声。双剣の柄に手をかけたまま、金色の瞳が岩壁の隙間を睨んでいる。
「罠かもしれん」
「罠じゃない」
バアルの声だった。
嵐神は三人の先頭に立っていた。白混じりの黒髪が風に——そう、風に靡いていた。冥界には風がなかった。骨の回廊にも、モトの玉座の間にも。だが今、ここには風がある。岩壁の隙間から吹き込む、乾いた風。
「地上の風だ」
バアルが目を細めた。
その横顔をアシュタルは見た。嵐神の顔には、安堵ではなく苦悶があった。眉間に深い皺が刻まれ、右腕の雷の紋様が不規則に明滅している。薄れていたはずの紋様が——脈打っている。
「バアル」
アナトが兄を呼んだ。声の質が変わっていた。警戒ではない。心配だ。
「平気だ」
バアルが答えた。短く。だが額に汗が浮いていた。神は汗をかかないとアナトが以前言っていた。それが——汗をかいている。
嵐神の力が目覚め始めている。
モトとの契約で決められた通り、力の七割五分がバアルと共に地上へ向かう。三日間の段階的移行は完了した。だが「移行」と「制御」は別の話だ。冥界に何年も封じられていた嵐の力が、地上の風を感じて反応している。犬が飼い主の匂いを嗅いだ時のように——制御を離れて暴れようとしている。
「行きましょう」
アシュタルは言った。掠れた声だった。冥界を出れば声も戻るだろうか。左手の小指の感覚は、まだ戻っていない。
岩壁の隙間を通った。
狭かった。アシュタルの細身の体がぎりぎり通れる幅で、アナトは横向きに、バアルは肩を岩にこすりながら進んだ。岩の質感が変わっていくのが分かった。冥界の骨のような白い岩から、地上の砂岩に。乾いた岩。太陽に焼かれた岩。温度がある。
光が広がった。
隙間を抜けた瞬間、視界が白く弾けた。
目を開けていられなかった。冥界の暗闇に慣れた目には、太陽光が刃物だった。涙が出た。物理的に——涙が出た。魂の全てを担保に預けたアシュタルの目から、不随意に涙が流れた。
眩しい。
痛いほど、眩しい。
風が吹いた。
乾いた風。砂と塩の匂いを含んだ風。カナアンの風だ。地中海の東岸に吹く、夏の終わりの風。
アシュタルは目を細めたまま、風を浴びた。
帰ってきた。
その実感が、遅れて体を満たした。帳面を持つ指が震えた。帰ってきた。地上に帰ってきた。骨の床ではなく、砂の上に立っている。闇ではなく、光の中にいる。
「——っ」
背後でバアルが呻いた。
振り向いた。嵐神が片膝をついていた。右腕の紋様が激しく発光している。赤ではない——白い光。雷の色。地上の大気に触れた瞬間、封じられていた力が一気に反応した。
「まずい」
バアルが呟いた。歯を食いしばっている。額の血管が浮き出ている。
「力が——動いている。勝手に」
空を見た。
雲一つない晴天だった。だが——空の色がおかしかった。青が深すぎる。藍色に近い。大気中の水分が急激に凝集し始めている兆候だ。商人として天候を読む訓練は受けている。嵐の前触れだ。
だが今は夏の終わりで、嵐の季節ではない。
「抑えられるか」
アナトがバアルの横に立った。手を伸ばそうとして——止めた。触れれば力が連鎖する。戦女神の直感がそれを悟ったのだろう。
「……三日あれば慣れる。今は——少し」
バアルが顔を上げた。
濃い青の瞳が白く明滅していた。嵐神の目。カナアンの空を映す瞳が、今は雷を宿している。
アシュタルはその目を見た。
見ながら——計算した。商人の頭が動いた。バアルの力の不安定さ。制御に要する時間。ウガルまでの距離。残りの日数。
帰還は成功した。
だが——これは、始まりだ。
空が藍色に変わりつつある。乾いた風が湿気を帯び始めている。バアルの帰還が——カナアンの空を揺らしている。
アシュタルは帳面を開いた。冷えた指で、新しい頁に書いた。
地上帰還。力の制御——未達。
商人は事実を記録する。良い事実も悪い事実も。帳簿に嘘を書けば、破産するのは自分だ。
バアルが立ち上がった。不安定に——だが、立ち上がった。
三人は冥界の出口に背を向けた。
地上が広がっていた。乾いた大地。遠くに山脈。空は藍色。風は湿り始めている。
嵐神が帰ってきた。
その帰還の代償が——今、空の色を変え始めている。




