玉座への道
契約が結ばれた。
モトの掌から立ち昇った黒い光が、玉座の間を満たした。闇が凝縮し、文字の形を取った。冥界の古い言語——死者の文字——が宙に浮かび、六つの条項を一語ずつ刻んでいった。光ではなく闇で書かれた契約書。文字は黒く、だが背景の闇よりもなお深い黒だった。読めた。文字の意味が、印を通じてアシュタルの頭に流れ込んできた。
右手首の印が激しく発光した。
銀の円環紋様が脈打つように明滅し、冥界の契約と共鳴している。印は「捧げもの」の回路だ。神力の導管。今、その導管を通じて、アシュタルの魂がモトの管理下に移行しようとしている。
痛みがあった。
物理的な痛みではない。体の奥——骨の奥——存在の核を掴まれるような感覚だった。自分が自分である根拠。記憶。感情。意志。それら全てが一度、ほどけるような感覚を覚えた。紐を解かれた荷物のように、中身がばらけそうになった。
歯を食いしばった。
ここで崩れてはいけない。契約の最中に意識を失えば、契約そのものが不完全になる。商人は署名の瞬間に手を震わせない。
「アシュタルさん。あなたの印に、手を触れます。よろしいですか」
モトの声が近かった。目の前にいた。白い手が伸びてきた。温度のない手。死の手。
「……どうぞ」
掠れた声で答えた。
モトの指がアシュタルの右手首に触れた。
冷たく——なかった。温度がなかった。熱くも冷たくもない。存在と非存在の境界に触れているような、現実感の薄い感触だった。
印が反応した。銀の光が白く弾けた。
引かれた。
魂が——引かれた。体の内側から、印を通じて、モトの指先へ。液体のように流れるのではなく、霧のように滲み出ていく感覚。自分の一部が——全部が——モトの管理下に預けられていく。
視界が白くなった。
一瞬。ほんの一瞬だけ。
白い視界の中で——母の顔が見えた。父の声が聞こえた。妹の笑い声。港の波の音。蜂蜜菓子の匂い。帳面の紙の手触り。市場の喧騒。全ての記憶が一度に押し寄せ、そして——遠ざかった。
消えたのではない。遠ざかった。手を伸ばせば届く距離から、走っても追いつけない距離に。
視界が戻った。
玉座の間。モトの顔が目の前にあった。漆黒の瞳の中に——微かな光が宿っていた。アシュタルの魂の光だ。人間の魂の輝きが、死神の瞳の底に預けられている。
「受領しました」
モトの声は丁寧だった。いつも通りに丁寧だった。
「あなたの魂は私の管理下にあります。契約条項が全て履行されるまで。——大事にお預かりしましょう」
アシュタルは頷いた。声が出なかった。声帯の問題ではなく——言葉が、遠かった。自分の中にあったはずの言葉が、少し遠い場所にあるような感覚。魂を預けた影響だ。思考はできる。判断もできる。だが——色が薄い。感情の彩度が一段落ちた。
「次に——バアル」
モトが嵐神に向き直った。
バアルが進み出た。痩せた体躯だが、背筋は真っ直ぐだった。王の姿だ。
「力の移行の手続きだ。明日から三日間。段階的に力を解放する。二割五分を冥界に残し、残りはお前と共に地上へ帰る」
「分かった」
バアルの声は短かった。だがアシュタルを見た。その目に——何かがあった。済まなさ、ではない。それだけではない。
「お前のおかげで帰れる」
バアルが言った。
「礼を言う」
アシュタルは首を振ろうとした。だが——首が重かった。体が重い。魂を預けた代償が、物理的な疲労として表れ始めている。
「まだ——終わっていません。帰還が完了するまでが、商談です」
掠れた声が辛うじて出た。
バアルが微かに笑った。
「商人だな」
「商人ですから」
モトが手を打った。乾いた音が玉座の間に響いた。
「では、契約は成立です。明日より三日間、力の移行を行います。——ああ、それと」
モトの声が変わった。
微笑はそのまま。だが——声の温度が一段下がった。
「一つだけ、お伝えしておきましょう」
アシュタルの背筋が反応した。商人の勘だ。危険を告げる勘。
「何でしょうか」
「契約とは直接関係のないことです。ただの——助言です。死神から人間への、ささやかな」
モトがアシュタルの前に立った。至近距離。漆黒の瞳がアシュタルを覗き込んだ。瞳の底に預けられたアシュタルの魂の光が、微かに揺れていた。
「あなたの印を刻んだ者は——私よりずっとあなたを見ていますよ」
心臓が止まった。
比喩ではなく——一瞬、心臓の拍動が途切れた。
「……何を」
「私が刻んだ、と以前申しましたが。あれは嘘です。あなたもお気づきでしょう? バアルから聞いたはずだ」
聞いていた。バアルは言った。「私ではない。だが誰かは知っている」と。
「印を刻んだのは、私でもバアルでもありません。もっと古い存在です。もっと——大きな計画を持った存在です」
モトの微笑が、一瞬だけ消えた。
「その存在は、あなたを見ています。ずっと。あなたが生まれた時から。あなたがこの冥界に来ることも、私と契約することも——おそらく全て計算の内でしょう」
アシュタルの指が冷えた。既に感覚の薄れた左手が、さらに遠くなった。
「なぜ——今、それを」
「助言です。死神は嘘をつきますが、契約の後には嘘をつきません。——お気をつけて、アシュタルさん。あなたの値打ちを知っているのは、私だけではないということです」
モトが背を向けた。黒衣の裾が骨の床を掃いた。玉座に戻り、座り、両手を肘掛けに置いた。表情が——いつもの微笑に戻っていた。何事もなかったかのように。
だがアシュタルの中で、言葉が反響していた。
あなたを見ている者がいる。
印を刻んだ者。モトでもバアルでもない存在。もっと古く、もっと大きな計画を持った存在。
エル——。
その名前が浮かんだ。だが口にはしなかった。
バアルが目を伏せていた。知っている顔だった。知っていて——語れない顔。
「……帰りましょう」
アシュタルはアナトに向かって言った。掠れた声。もう長くは持たない。
アナトは壁際で動かなかった。
赤い髪が顔を覆っていた。拳は握り締められたまま。先ほど床に落ちた血の跡が、骨の白い表面に赤く残っていた。
「アナト」
呼んだ。
アナトが顔を上げた。
金色の瞳が——赤かった。泣いてはいない。泣いていない。戦女神は泣かない。だが目が赤かった。怒りで赤いのだと、本人は言うだろう。
「……行くぞ」
それだけ言って、アナトが歩き出した。アシュタルの横を通り過ぎる時——一瞬だけ、肩が触れた。
偶然ではなかった。
わざとだった。
その肩の温度が——魂を預けて薄くなった感覚の中でも——はっきりと感じられた。温かかった。戦女神の体温。神は寒さを感じないと言った存在の、しかし確かな温度。
玉座の間を出た。
回廊を歩いた。
背後でモトの声が聞こえた。「おやすみなさい、アシュタルさん。明日からが本番ですよ」——丁寧に。穏やかに。不気味に。
冥界に風が吹いた。
微かな——だが確かな風。温かい風ではなかった。冷たくもなかった。ただ——動いた。冥界の空気が、動いた。
バアルの帰還が——始まろうとしていた。
そして、見えない目がアシュタルを見ていた。
印を刻んだ者。全てを計算に入れた者。
この契約すらも——計画の一部なのかもしれない。
だが。
アシュタルは帳面を握った。冷えた指で、強く。
たとえ計画の駒であっても——駒には駒の意志がある。商人には商人の帳簿がある。誰かの計算の中にいたとしても、自分の帳尻は自分で合わせる。
帳面の最後の頁に、一行だけ書いた。
契約成立。
掠れた文字だった。墨が薄く、線が震えていた。だが——書いた。
商人の署名だ。
冥界の奥で、嵐が目覚め始めていた。




