何を差し出すか
契約の儀式が始まろうとしていた。
モトが右手を掲げた。掌から黒い光——光と呼ぶべきか迷うが、闇が凝縮したようなもの——が立ち昇った。冥界の契約は死の力で刻まれる。モトの神力が契約の器を形成し始めた。
「では、契約の文言を——」
「待ってください」
アシュタルの声が、玉座の間に響いた。掠れきった声だった。もう声帯が限界に近い。だが——今だけは通った。通さなければならなかった。
モトの手が止まった。黒い光が揺れた。
「何ですか、アシュタルさん。条件は全て合意済みですが」
「一つ、変更があります」
「変更?」
「第六条の担保条件を——撤回します」
沈黙が落ちた。
モトの微笑が消えた。初めて——この商談の中で初めて——モトの表情から完全に笑みが消えた。
「……撤回、ですか」
「はい。魂の二割の預託は撤回します。代わりに——」
アシュタルは一歩前に出た。骨の床を踏む足音が一つ。
「私の魂の全てを、担保にします」
玉座の間が凍りついた。
モトの黒い瞳が見開かれた。驚愕。純粋な驚愕だった。千年を生きた死神が、人間の言葉に驚いている。
バアルが身じろぎした。「何を——」という声が漏れた。嵐神の声に、初めて動揺があった。
そして——
「ッ——!」
アナトが叫んだ。
声ではなかった。声になる前の、感情の奔流だった。金色の瞳が見開かれ、壁際から一歩——二歩——飛び出した。双剣の柄に手がかかった。体が動いていた。理性より先に体が反応した。制御を超えた衝動。戦女神が誇る完璧な自制が、この瞬間だけ——崩れた。
「馬鹿か、お前はッ!」
アナトの声が玉座の間に反響した。骨の柱が揺れた。戦女神の怒声には物理的な力がある。
「魂の全てだと!? それはお前の——お前の全部だろうッ! それを差し出すということは——」
「分かっています」
アシュタルは振り向かなかった。モトから目を逸らさなかった。背中にアナトの視線を感じていた。怒り。恐怖。そして——名前のつけられない何か。
「分かっているから、言っています」
「分かっていない! 分かっていたらそんなことは言わない! お前の魂がモトの手に渡れば——」
「契約を守れば返還されます」
「守れなかったらどうするッ!」
「守ります」
「根拠は何だッ!」
アシュタルはようやく振り向いた。
アナトの顔を見た。
金色の瞳が揺れていた。揺れている。この旅で何度も見た鋭い視線が、今は——揺れていた。怒りに見える。怒りのはずだ。戦女神の怒り。だが——怒りだけでは、目はあんな風に揺れない。
「根拠は」
アシュタルは掠れた声で言った。
「信用です」
「信用——」
「信用とは担保のない手形みたいなものです。紙切れ一枚で成り立っている。でも——商人はそれで何千年も商売してきた」
かつて自分が口にした言葉だった。今、その言葉を本気で実行する時が来た。
アナトの唇が震えた。何か言おうとした。だが——言葉が出なかった。戦女神は言葉が武器にならない。剣なら振るえる。だが言葉で人間を止める方法を、この女神は知らない。
「アナト」
バアルの声だった。
嵐神が妹を呼んだ。低い声。穏やかだが、有無を言わさない王の声。
アナトが振り向いた。
「バアル——」
「聞いてやれ」
それだけだった。バアルは多くを語らなかった。だがその三文字に、全てが込められていた。止めるな。こいつの覚悟を止めるな。
アナトの拳が——握り締められた。指が白くなるほど。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。
だが——一歩、退いた。
壁際に戻った。
壁に背をつけた瞬間、アナトの体が微かに震えた。怒りで震えているように見えた。怒りだと、本人はそう思っているだろう。
だが——アシュタルには分かった。商人の目が見た。
あれは、怒りだけではない。
「……愚か者」
アナトの声が小さく聞こえた。「愚か者」。呪いのような響きだった。
アシュタルはモトに向き直った。
「失礼しました。——改めて、第六条を修正します」
モトが黙っていた。漆黒の瞳がアシュタルを見つめていた。驚きはもう消えていた。代わりにあったのは——敬意。死神が人間に敬意を向けている。奇妙な光景だった。
「修正第六条。担保として、アシュタルの魂の全てを契約成立時にモト様の管理下に置く。契約の全条項がバアル帰還完了後四十五日以内に履行されたことが確認された時点で、魂はアシュタルに返還される。確認されなかった場合、または契約違反があった場合、アシュタルの魂はモト様のものとなる」
読み上げた。掠れた声は途中で何度か裂けそうになったが、最後まで持った。
「これが——私の全てです。これ以上の担保は、人間には用意できません。逆に言えば——これ以上の担保を差し出す人間は、二度と現れないでしょう」
モトが立ち上がった。
ゆっくりと。玉座の間の死んだ空気を纏いながら。長身の体がアシュタルの前に立った。
「アシュタルさん」
低い声だった。どこまでも丁寧な声だった。だが——今までとは、音の質が違っていた。
「あなたは自分の全存在を賭けている。命ではなく、魂を。命は終わりがありますが、魂は——終わりがない。つまりあなたは、永遠を担保にしている」
「はい」
「それが——あなたの言う『信用』ですか」
「信用とは、そういうものです」
モトが笑った。
今度の笑いは——声が出た。低く、長く、玉座の間に響いた。骨の柱が共鳴し、壁の死者の名が揺れた。死神が笑っている。嘲笑ではなかった。感嘆だった。
「素晴らしい」
モトの声に色があった。初めて聞く色だった。
「人間がここまでやるとは。いえ——人間《《だから》》ここまでやるのかもしれませんね。有限の命が永遠を賭ける。その矛盾が——美しい」
「美しいかどうかは分かりません。ただ——これが、私にできる全てです」
モトが頷いた。
「受けましょう」
その声は短く、確かだった。
アシュタルの膝が——一瞬だけ——震えた。
恐怖だ。遅れてきた恐怖だ。自分の全てを差し出すと宣言した直後、体が事の重大さに追いついた。だが膝は一瞬だけ震え、すぐに止まった。商人は恐怖を経費として計上する。払えるうちは払う。
背後で、アナトが顔を伏せていた。赤い髪が表情を隠していた。
拳の中から、血が一滴、骨の床に落ちた。




