死者の情報
交渉は深夜に及んだ。
冥界に深夜という概念はないが、アシュタルの体感ではそのくらいの時間が経過していた。膝の上の帳面は二十頁以上めくられ、墨は三度溶かし直した。声は掠れを通り越して、擦れた革紐のような音になっていた。
担保の詳細を詰める作業は、この商談で最も消耗する過程だった。
魂の一部を預ける——その「一部」の定義をめぐって、アシュタルとモトは長い議論を重ねた。モトは「魂の三割」を求めた。アシュタルは「一割」を提示した。
「三割は多すぎます。自我の維持に支障が出ます。帰還後の立会人の役目も果たせなくなります」
「しかし一割では担保として不十分です。一割程度の損失なら、人間は日常生活で感じる疲労と大差ありません。失うことへの恐怖が弱ければ、担保の意味がない」
押し引きが続いた。二割。一割五分。二割。一割八分。数字が行き来した。
最終的に、二割で折り合った。
魂の二割をモトに預ける。帰還後、契約が全て履行された時点で返還される。契約違反があった場合——預けた二割はモトのものとなり、加えて残りの魂も即座にモトの管轄下に入る。
厳しい条件だった。だが——論理的には成立する。
「では」
アシュタルは帳面の新しい頁を開いた。指が冷えていた。左手の小指はもう感覚がない。残りの指も徐々に冷たくなっている。冥界の浸食が進んでいる。
「最終条件を、全て読み上げます」
モトが頷いた。椅子の上で背筋を伸ばし、両手を膝に置いた。聞く姿勢。
アナトは壁際で腕を組んでいた。金色の瞳が険しかった。この数時間、何度か口を挟もうとして踏み留まっていた。アシュタルの交渉を邪魔しないという判断だろう。だが——限界が近いことは、その表情から読み取れた。
「第一条。バアルは冥界を離れ、地上に帰還する。帰還は本契約成立の翌日より開始する」
「はい」
「第二条。バアルの神力の二割五分を冥界に残す。この力はモト様が管理し、冥界の安定に用いる。冥界以外の目的での使用は禁止する」
「冥界以外の目的、ですか。……まあ、よろしいでしょう」
「第三条。力の移行は三日間かけて段階的に行う。一日目にバアルの力の三割を解放し、二日目に三割、三日目に残りを解放する。ただし冥界に残す二割五分を除く。移行中、アシュタルが冥界に留まり立会人を務める」
「ええ」
「第四条。移行期間中、モト様はアシュタルの身の安全を保証する。冥界の環境による感覚喪失の進行を可能な限り抑える措置を講じる」
「お客様のおもてなしは私の領域の基本ですよ」
モトの冗談だった。笑えなかったが、形式としては認めた。
「第五条。アシュタルの魂の死後管轄権をモト様に譲渡する。アシュタルが死んだ時、その魂はモト様の領域に入る。他の神への帰属は行わない」
「はい」
「第六条。担保として、アシュタルの魂の二割を契約成立時にモト様に預ける。契約の全条項が履行された時点で返還される。契約違反があった場合、預けた二割はモト様のものとなり、残りの魂も即座にモト様の管轄下に入る」
「……はい」
モトの「はい」に、微かな含みがあった。満足の色。二割の魂が手に入る——一時的であれ——その事実に、死神の本能が反応している。
「以上が全条件です」
アシュタルは帳面を閉じた。
「モト様。この六条件で、合意いただけますか」
沈黙。
モトが椅子の上で指を組んだ。長い指が絡み合い、顎の前で止まった。考えている——ふりをしている。答えは既に決まっているはずだ。だが即答しないのは、死神の矜持だ。
「概ね、よろしいかと思います」
アシュタルの心臓が跳ねた。
「ただし——」
凍った。
「——一つだけ」
モトが指を解き、右手の人差し指をアシュタルに向けた。指先が白く、爪が長い。生命の色がない指だった。
「第六条の『契約の全条項が履行された時点で返還される』という部分。これを修正していただきたい」
「どのように」
「返還の時期を、『バアルの帰還完了後三十日』に限定してください。三十日以内に全条項の履行が確認できなければ、魂の二割は返還されません」
三十日。
アシュタルは計算した。バアルの力の移行に三日。帰還後の安定化に数日。天候の正常化の確認——これは三十日では足りない可能性がある。だが「全条項の履行確認」の定義次第では——
「三十日は短い。天候の安定化の確認には時間がかかります。六十日ではいかがですか」
「四十五日」
「……四十五日。受け入れます」
帳面に修正を書き込んだ。
「では、修正版の第六条。担保として、アシュタルの魂の二割を契約成立時にモト様に預ける。バアルの帰還完了後四十五日以内に全条項の履行が確認された時点で返還される。確認されなかった場合、または契約違反があった場合、預けた二割はモト様のものとなり、残りの魂も即座にモト様の管轄下に入る」
「結構です」
モトが微笑んだ。
「これで——全条件が揃いましたね」
「はい」
「では、契約を結びましょうか」
モトが立ち上がった。玉座の間の空気が変わった。死神が本気で動く時の、重力が増すような感覚。床の骨が微かに軋んだ。
「契約の方法は——」
「お待ちください」
アシュタルが手を上げた。
モトの動きが止まった。
「何か」
「バアルの立ち会いが必要です。この契約はバアルの力に関わるものです。当事者不在で結ぶべきではありません」
モトの眉が動いた。だがすぐに頷いた。
「ごもっともです。では——バアルを呼びましょう」
モトが右手を上げた。指を鳴らすような仕草。音は鳴らなかった。だが——冥界の空気が波紋のように揺れた。死神の命令が領域全体に伝播していく。
待った。
足音が聞こえた。
重い足音。だが——嵐のように力強い足音ではなかった。冥界に長く留まりすぎた嵐神の、抑制された足音。
バアルが玉座の間に入ってきた。
白混じりの黒髪。痩せた体躯。だが濃い青の瞳は——まだ嵐を宿していた。
バアルの視線がモトを捉え、アシュタルを捉え、アナトを捉えた。アナトの顔で一瞬止まった。何かを読み取ったように、微かに眉が動いた。
「条件は聞いた。壁越しに」
バアルの声は低く、静かだった。
「二割五分。——妥当だ」
それだけだった。嵐神は多くを語らなかった。
四人が、玉座の間に立った。
死神。嵐神。戦女神。人間の商人。
契約の時が——近づいていた。
だがアシュタルの胸の奥で、まだ何かが燻っていた。この条件で本当にいいのか。何か見落としていないか。商人の直感が——小さく、だが確実に——警告していた。
担保が足りない、と。
魂の二割では——まだ、足りないのではないかと。
モトの微笑の奥に、まだ何かが隠れている。
その不安を胸にしまい、アシュタルは帳面を握った。




