骨の商路
条件は揃った。あとは担保だけだ。
アシュタルは帳面を見つめていた。帳面の上に並んだ条件を何度も読み返した。読み返しながら、別のことを考えていた。
商人が担保を差し出す時、その担保は「失いたくないもの」でなければ意味がない。安いものを担保にすれば、約束を破る動機が生まれる。担保の価値が契約の重みを決める。
つまり——モトが求めているのは、アシュタルにとって最も失いたくないものだ。
帳面を閉じた。
何が自分にとって最も大切か。一族。家族。妹。故郷。それらは既にモトの要求で出た。だが「売れないものは取引に乗せない」と断った。他人の命は担保にできない。
では、自分のものは。
自分の命。自分の記憶。自分の——
答えは、もう見えていた。
見えていたが、口にするのを避けていた。帳面に書くのを避けていた。商人の習性だ。切り札は最後まで隠す。たとえ自分自身の中でも。
「アシュタル」
アナトの声だった。
振り向いた。回廊の壁に背を預けていたアナトが、腕を組んだまま言った。
「お前の顔が変だ」
「変、ですか」
「……笑っているのに、目が笑っていない。モトと同じ顔をしている」
胸を突かれた。
モトと同じ顔。死神のように笑って、死神のように計算している。商人と死神は似ているのかもしれない。どちらも取引で生きている。どちらも相手の弱みを探し、自分の強みを隠す。
「大丈夫です」
掠れた声で答えた。声が掠れているのが、今だけは都合が良かった。震えが隠れる。
「大丈夫と言う時のお前は、大丈夫じゃない」
アナトの声が低かった。断定だった。
「……よく見ていますね」
「見ている。ずっと」
アナトがそう言って、視線を逸らした。「それだけだ」と付け加えるかと思ったが、今日は付け加えなかった。
沈黙が流れた。冥界の冷気が二人の間を通り過ぎた。
「アナト」
「何だ」
「もし——仮にの話ですが。私が、自分自身を賭けるとしたら。あなたはどう思いますか」
アナトの金色の瞳がアシュタルを射貫いた。
「何を言っている」
「仮にの話です」
「仮にの話をするな。お前の『仮に』は、いつも『仮に』じゃない」
的確だった。
アシュタルは苦笑した。この女神は、商人の言葉の裏を読むことを覚えてしまった。旅の初めには「人間の言い回しは面倒だ」と苛立っていた戦女神が、今はアシュタルの仮定法の裏にある本音を見抜く。
「答えてください」
「答えない。お前が『仮に』を取り下げるまで」
「……」
「アシュタル」
アナトが壁から背を離した。一歩、近づいた。長身の女神が見下ろすような姿勢になる。だが威圧ではなかった。
「私はバアルを取り戻すためにここに来た。それは変わらない。だが——」
声が途切れた。アナトの癖だ。大事なことを言う前に、言葉が詰まる。
「——お前を置いていくためじゃない」
短い言葉だった。飾りのない言葉だった。戦女神は比喩を使わない。直球しか投げない。だからこそ、その直球は鋭い。
アシュタルは目を伏せた。
置いていくためじゃない。
その言葉が胸の奥で反響した。温かかった。冥界の冷気の中で、その言葉だけが温かかった。
だが——温かさは判断を鈍らせる。商人が情に流されれば、取引は崩れる。
「行きましょう。モトが待っています」
アシュタルは歩き出した。
アナトが追いかけてきた。半歩後ろ——ではなく、横に並んだ。いつからか、この女神は横に並ぶようになっていた。
玉座の間に入った。
モトは椅子に座ったまま、微笑んでいた。どれだけ待たされても表情が変わらない。死は待つことに慣れている。
「お帰りなさい。ご準備はよろしいですか」
「はい。最後の条件——担保についてお話しします」
モトの瞳が光った。興味の光だ。
アシュタルは椅子に座らなかった。立ったまま、モトの目を見た。
「その前に、全条件を改めて確認させてください」
「ええ、どうぞ」
帳面を開いた。掠れた声で、一つずつ読み上げた。
「第一条件。バアルは冥界を離れ、地上に帰還する」
「はい」
「第二条件。バアルの神力の二割五分を冥界に残す。この力はモト様が管理し、冥界の安定に用いる」
「はい」
「第三条件。力の移行は三日間かけて段階的に行う。その間、アシュタルが冥界に留まり立会人を務める。モト様はアシュタルの安全を保証する」
「はい」
「第四条件。アシュタルの魂の死後管轄権をモト様に譲渡する。アシュタルが死んだ時、その魂はモト様の領域に入る。他の神への帰属は行わない」
「はい。——そして、担保は?」
モトの声が、僅かに前のめりになった。
アシュタルは帳面を閉じた。
「モト様。あなたが求めているのは、私が契約を裏切らないという保証です。地上に戻った後、別の神に魂を差し出さないという確約です」
「その通りです」
「保証の方法は二つあります。一つは、物理的な担保を差し出す方法。もう一つは——契約そのものに拘束力を持たせる方法です」
「後者は困難でしょう。神と人間の契約に拘束力を持たせるには、相当な力が必要です」
「ええ。ですから——」
アシュタルは右手首の布を解いた。
銀の円環紋様が露出した。「捧げもの」の印。冥界の薄い光の中で、印が淡く発光していた。バアルとモトの両方に反応する回路。神力の導管。
「この印を、担保として差し出します」
モトの表情が変わった。微笑が消えた。
「印を、ですか」
「いいえ。正確には——印を通じて、私の魂の《《一部》》を、今ここで、モト様の管理下に預けます」
玉座の間が凍った。
アナトが声を上げた。
「何を——」
「待ってください」
アシュタルはアナトを手で制した。視線はモトから逸らさなかった。
「魂の全部ではありません。一部です。商人で言えば——手付金です。本契約の前払い。私の魂の一欠片をモト様に預ける。これにより、私が契約を裏切ることは不可能になります。魂の一部がモト様の手中にある以上、私は他の神に魂を渡せない。既に一部はモト様のものですから」
モトが黙った。
漆黒の瞳がアシュタルを見つめていた。驚き。感心。そして——欲。
「……なるほど」
低い声だった。囁きに近かった。
「手付金。魂の手付金。——面白いことを考えますね、アシュタルさん」
「商人ですから」
「しかし——魂の一部を失うということは、あなたにとって——」
「ええ。自覚の一部が欠けます。記憶の一部が曖昧になるかもしれません。感情の鮮明さが失われるかもしれません。——ですが」
アシュタルは印を掲げた。銀の光がモトの顔を照らした。
「これが、私にとって最も失いたくないもの——自分自身——を担保にする方法です。失いたくないからこそ、契約を守る動機が生まれる。担保とは、そういうものです」
モトの指が——震えた。
微かに。だが確実に。死神の指が、欲に震えた。印持ちの魂の一部。それは冥界にとって計り知れない価値がある。
「……」
長い沈黙。
モトが椅子の上で姿勢を正した。表情を整えた。微笑を取り戻した。だが目の奥の光は消えなかった。
「検討に値する提案です。しかし——具体的にどれほどの『一部』を預けていただけるのか。それを詰める必要がありますね」
「もちろんです」
交渉は続く。
だがアシュタルには分かっていた。モトの反応で分かった。この方向で——いける。
問題は、どこまで自分を削れるかだ。
掠れた声の奥で、心臓が打っていた。生きている音が、死の領域に響いていた。




