声の代価
玉座の間に戻った。
モトは椅子に座ったまま待っていた。背筋を伸ばし、指を膝の上で組んでいた。微笑んでいた。待つことに慣れた存在の顔だった。死は急がない。
「お帰りなさい。バアルの答えは」
「受諾です。力の一部を冥界に残すことに同意しました」
モトの眉が微かに上がった。予想していた答えだったはずだが、それでも確認できたことへの満足が見えた。
「そうですか。嵐神も決断力はおありのようですね」
「では、ここまでの合意を整理させてください」
アシュタルは椅子に座り、帳面を開いた。掠れた声で、一項目ずつ読み上げた。
「第一。バアルは冥界を離れ、地上に帰還する」
「ええ」
「第二。バアルの神力の一部を冥界に残す。具体的な量と範囲は別途協議する」
「妥当ですね」
「第三。アシュタルの魂の死後管轄権をモト様に譲渡する。私が死んだ時、魂はモト様の領域に入る」
「承りました」
三つの条件。これが骨格だ。だが——まだ足りない。アシュタルには分かっていた。
「モト様。一つ確認させてください。この条件で、あなたは合意しますか」
モトが微笑んだ。穏やかな笑みだった。だが目の奥に——何かがあった。
「概ね、よろしいかと思います。しかし——」
やはり来た。
「保証が必要です」
「保証」
「ええ。アシュタルさん。あなたの魂の死後管轄権。それは確かに価値がある。しかし——保証はどこにありますか?」
モトが身を乗り出した。椅子の上で、長身の体が前に傾く。漆黒の瞳が至近距離でアシュタルを捉えた。
「あなたが地上に帰った後、別の神に魂を差し出したらどうなります? エルに。あるいはヤムに。あるいは——名もなき異国の神に。あなたの口約束一つで、私が嵐神を手放す道理がありますか?」
正論だった。
商取引で言えば、手形の信用の問題だ。支払いを約束する手形は、振出人の信用がなければ紙切れだ。アシュタルが「死後の魂をモトに渡す」と約束しても、その約束を履行する保証がなければ、モトにとっては空手形に等しい。
「信用とはそういうものです。紙切れ一枚で成り立っている。でも、商人はそれで何千年も商売してきた——と言いたいところですが」
アシュタルは帳面を閉じた。
「モト様の仰ることは正しい。口約束では保証になりません。必要なのは担保です」
「おっしゃる通りです。では——何を担保に?」
モトの声が微かに弾んだ。楽しんでいる。この交渉のこの局面を、死神は心から楽しんでいた。
アシュタルは答えなかった。
まだだ。ここで担保を出すのは早い。モトの要求を全て聞き出す前に切り札を切ってはいけない。
「その前に、もう一つ確認させてください」
「ええ?」
「バアルの力を冥界に残す件。『具体的な量と範囲は別途協議する』と申しました。ここを詰めておきたい」
モトの表情が僅かに変わった。話題を逸らされたことへの不快——ではなかった。むしろ感心の色があった。「担保の話を急がない。先に条件を固める」——商人の手順を、モトは理解した。
「よろしいでしょう。どれほどの力を残していただけますか」
「バアルの意向を踏まえて提案します。力の全量の二割を冥界に残します。残りの八割でバアルは帰還する」
「二割、ですか。少ないですね。四割は欲しい」
「四割は受け入れられません。四割を失えばバアルは嵐を制御できなくなる。地上の天候が完全に崩壊します。それはモト様にとっても不利益です。天候が崩壊すれば作物が枯れ、人間が大量に死ぬ。死者が一度に押し寄せれば、冥界の管理能力を超えます」
モトの指が止まった。
アシュタルは続けた。
「二割なら、バアルは不完全ながら天候を制御できます。時折暴走はしますが、致命的ではない。人間の死は自然な速度で起こり、モト様の領域に適切な量の魂が流れ込みます。秩序が保たれる」
「……三割ではいかがですか」
「二割五分。これが限界です」
モトが黙った。指を顎に添え、考え込んだ。
沈黙が長かった。冥界の静寂の中で、アシュタルの掠れた呼吸だけが聞こえた。生きている音。死の領域で、生きていることの証。
「二割五分」
モトが繰り返した。声に色がなかった。計算している声だ。
「受けましょう」
アシュタルは帳面に書き留めた。バアルの神力の二割五分を冥界に残す。残りの七割五分で帰還。
「では、保証の話に戻りましょうか」
モトの声が、再び楽しげになった。
ここだ。交渉の最後の壁。
アシュタルは帳面を膝に置き、モトの目を見た。漆黒の瞳。底のない黒。その奥で、何かが待っている。
「もう一つ」
モトが言った。
「条件に加えていただきたいものがあります」
「お聞きします」
「バアルの帰還に際して——力の移行を段階的に行うこと。一度に全力で帰還すれば、地上に被害が出ます。バアルの力が冥界から地上に移る過程で、嵐が暴走する。段階的に——三日間かけて移行する。その間、あなたが冥界に残って立会人を務めること」
アシュタルの心臓が跳ねた。
三日間。冥界に留まる三日間。すでに声が掠れ始めている。三日後には——声は完全に失われているかもしれない。感覚の喪失がさらに進むかもしれない。
「それは——」
「合理的な要求です」
モトの声が穏やかだった。
「力の移行が暴走すれば、冥界も地上も被害を受けます。立会人が必要です。そして立会人は、バアルの力に反応する『捧げもの』の印を持つ者が最適です。違いますか?」
正論だった。呪わしいほどの正論だった。
アシュタルは唇を噛んだ。三日間の追加滞在。リスクは大きい。だが——必要な条件だ。力の移行を無秩序に行えば、確かに被害が出る。
「条件に含めましょう。ただし、三日間の滞在中、私の身の安全をモト様が保証すること。冥界の環境による感覚喪失の進行を可能な限り抑える措置を講じること」
「もちろんです。お客様の安全は保証いたします」
微笑み。丁寧な微笑み。死神のもてなし。
アシュタルは帳面に追記した。
条件が積み上がっていく。一つずつ、一段ずつ。商談は建築に似ている。土台を据え、柱を立て、梁を渡す。どの一つが欠けても崩れる。
だが——まだ、最後の石が足りない。
保証。担保。
モトの目がアシュタルを見ていた。「まだ答えていませんよ」と言いたげに。
何を担保に差し出すのか。
アシュタルの右手首の印が、微かに疼いた。




