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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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第160話

「もう一つ、と仰いました」


 アシュタルは帳面に目を落とした。頁を繰る仕草で時間を稼ぐ。商談の中盤は呼吸が大事だ。焦って先を急げば相手のペースに巻き込まれる。一拍の間が、商人の武器になる。


「ええ。もう一つ」


 モトが指を解き、椅子の肘掛けに片手を置いた。


「あなたの魂の死後管轄権。それは受けましょう。しかし、それだけでは嵐神の帰還に見合わない。——もう一つ、こちらの条件を加えていただきたい」


「お聞きします」


「バアルの力の一部を、冥界に残していただきます」


 アシュタルの手が止まった。


「……力の一部」


「ええ。嵐の力。バアルが冥界に長く留まったことで、彼の神力の一部はもう冥界に根を下ろしています。完全に引き抜けば冥界が荒れます。逆に——その一部を冥界に残せば、制御可能な形で冥界を潤す」


 モトが立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。玉座の間を横切り、壁面に手を触れた。壁に刻まれた死者の名が、モトの指に反応して微かに光った。


「冥界は乾いた世界です、アシュタルさん。死の領域には生の恵みがない。それは当然のことです。しかし——バアルの力が漏れた時、この領域で起きたことは興味深かった。死者たちが『温かい風を感じた』と言いましたね? あれは混乱を招いた。しかし同時に——死者たちが久しぶりに『何かを感じた』瞬間でもあった」


 モトの声が僅かに柔らかくなった。死者への、奇妙な慈悲の色。


「嵐の力の一部があれば、冥界を——より良い場所にすることができます。死者がただ沈黙するだけでなく、安らぎを得られる領域に」


 表向きは美しい論理だった。死者のための慈悲。冥界の改善。だがアシュタルの頭の中で、商人の計算機が回っていた。


 バアルの力の一部を冥界に残す。それはバアルの弱体化を意味する。地上に戻った嵐神は、全盛期の力を取り戻せない。天候を完全に制御できなくなる。嵐が暴走する。豊穣の恵みが不安定になる。


 そして——モトが嵐の力を手に入れる。冥界の支配者が、生の力の一端を掌握する。これはモトの勢力拡大だ。


 沈黙が長引いた。


「……バアル本人の意見を聞く必要があります」


「もちろん。これはバアルの力に関わる条件ですから。当事者の同意なくして契約は成立しません。——あなたもそう言っていましたね? 処分権のないものは取引に乗せない、と」


 自分の言葉を返された。巧い。モトは交渉の技術を持っている。当然だ。何千年もの間、死者の魂を管理してきた神だ。魂との取引は、モトの本業に近い。


「アナト」


 振り向いた。壁際のアナトが顎を上げた。金色の瞳に戦意はなかった。代わりに——不安があった。バアルの力が削られるという条件を聞いて、戦女神の表情が揺れていた。


「バアルのところへ行きます。一時中断をお許しいただけますか」


 モトが頷いた。「ええ、どうぞ。お待ちしています」——丁寧に。穏やかに。余裕を見せるために。


 玉座の間を出た。


 回廊を歩きながら、アナトが口を開いた。


「バアルの力を削る気か」


 低い声だった。怒りではなかった。問いかけだった。だがその奥に、刃物のような切れ味が隠れていた。


「まだ決めていません。バアルの考えを聞きます」


「力を失った嵐神に何ができる。バアルは——」


 アナトの声が途切れた。


 アシュタルは足を止めなかった。歩きながら言った。


「力が全てではないことは、あなたが一番知っているはずです」


 アナトが黙った。


 第二の門、第三の門でアナトが自らの戦闘力を代価に差し出した時のことを、二人とも覚えていた。力を削られた女神がどう変わったか。弱くなったのではない。別の強さを知った。


 だがアナトは自分のことと兄のことを同列には考えられないのだろう。自分が力を失うのは耐えられる。兄が力を失うのは——耐えられない。


「バアルが決めることです」


 アシュタルは静かに言った。


「私は条件を伝えるだけです。決めるのはバアル本人だ。——これは、バアルの力であって、私のものでもアナトのものでもない」


 アナトの足音が一瞬止まり、再開した。何か言いたげだったが、飲み込んだ。


 冥界の奥へ進んだ。玉座の間よりもさらに深い場所。石壁に嵐の焼け跡が増えていく。バアルの力が漏れた痕跡だ。ここに来るたびに、印が疼いた。右手首の銀の円環紋様が微かに発光し、バアルの存在を知らせている。


 突き当たりの部屋に、嵐神はいた。


 バアルは壁に背を預けて座っていた。短い黒髪に白いものが混じり、頬がこけ、全盛期の威容は失われている。だがその目だけは——濃い青の瞳だけは、まだ嵐の力を宿していた。


「来たか」


 バアルの声は低く、穏やかだった。嵐の神にしては、驚くほど静かな声だった。


「交渉の経過を報告します」


 アシュタルはバアルの前にしゃがみ、帳面を開いた。これまでの交渉内容を簡潔に伝えた。モトの弱みを突いたこと。主導権を握ったこと。最初の提案と、モトの反応。そして——


「モトの追加条件です。あなたの力の一部を冥界に残すこと」


 バアルの顔が動かなかった。


 長い沈黙が続いた。冥界の石壁に嵐の焼け跡が脈打つように明滅していた。バアルの内側の力が、この話を聞いて反応している。


「……そうか」


 バアルが目を閉じた。


「それは——妥当な要求だろうな」


 アナトが壁際で拳を握った。「バアル」と呼びかけようとして、唇を噛んだ。


「妥当——ですか」


「俺は長くここにいすぎた。力の一部はもう冥界に根を下ろしている。無理に引き抜けば俺の方が壊れる。モトはそれを知っている。だから要求した。道理だ」


 冷静な分析だった。感情を押し殺した、王としての判断。だがアシュタルは見逃さなかった。バアルの右手が微かに震えていた。力を失うことへの、隠しきれない恐怖。


「もし力の一部を残した場合——地上で何が起きますか」


 バアルが目を開けた。青い瞳がアシュタルを見た。


「天候を完全に制御できなくなる。嵐が暴走する。俺の意志と関係なく雷が落ち、暴風が吹く。豊穣の恵みが不安定になる。——民にとっては、決して良いことではない」


「それでも、あなたがいない今よりはましですか」


「……ああ。少なくとも、雨は降る。不安定でも、降らないよりはましだ」


 アシュタルは頷いた。帳面に書き留めた。


 力の一部を失う代償。天候の不安定化。嵐の暴走リスク。だが完全な不在よりは良い。


 これは——飲める条件だ。完璧ではないが、飲める。


「バアル。この条件を受け入れますか。決めるのはあなたです」


 バアルが長い息を吐いた。吐息に微かな風が混じった。冥界で風が動く。嵐神の息吹だ。


「……ああ。受け入れよう」


 静かな声だった。王の決断の声だ。


 アナトが顔を背けた。赤い髪が表情を隠した。


 アシュタルは帳面を閉じ、立ち上がった。


「ありがとうございます。——戻ります」


 バアルが頷いた。それから、アシュタルを見上げて言った。


「お前は——面白い人間だな。アナトが話していた通りだ」


 アシュタルは少し笑った。掠れた声で。


「それは光栄です。嵐神に面白がられるとは、商人冥利に尽きます」


 バアルが苦笑した。嵐の神の苦笑は、遠い雷鳴のように低く響いた。


 背を向けた。玉座の間へ戻る道。


 モトが待っている。次の手を持って、死神のもとへ。


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