第159話
交渉のテーブルが開いた。
モトが骨の椅子を二脚、玉座の前に置いた。正確には置いたのではなく、床から生えさせた。冥界の地面が隆起し、骨が組み合わさって椅子の形になった。死の神の領域では、家具も死者の骨で出来ている。座り心地は最悪だったが、文句を言える立場ではない。
「さて。お聞きしましょう」
モトが向かいの椅子に座った。玉座ではなく、アシュタルと同じ高さの椅子に。これは意味のある行動だった。「対等の交渉に応じる」という意思表示だ。もっとも、死神が人間と対等であるはずがない。だがポーズとしては——十分だ。
アナトは壁際に立っていた。腕を組み、玉座の間の出入り口を背にしている。退路の確保。戦女神の本能だ。
「まず前提を共有させてください」
アシュタルは帳面を膝に開いた。
「バアルの帰還は、私にとってもアナトにとっても、そしてモト様にとっても利益がある。バアルが冥界にいることで三者とも困っている。これが今回の商談の出発点です」
「三者、ですか。あなたまで数に入れるのは少々大げさではありませんか。あなたはただの人間でしょう」
「ただの人間ですが、『捧げもの』の印を持っています。バアルの帰還に直接関わる当事者です」
モトの薄い唇が弧を描いた。「なるほど」という顔だった。
「では、あなたの提案を聞きましょう」
ここだ。
アシュタルは帳面の頁をめくった。昨夜書いた交渉メモ。だが実際には帳面を見る必要はなかった。全ての数字と条件は頭に入っている。帳面を見るのはポーズだ。「記録に基づいて話している」という印象を与えるための。
「モト様。以前——旅の初めの頃です——あなたは私に接触されました。『捧げもの』の印を持つ人間として。あの時、あなたが求めたのは『印持ちの魂の管轄権』でしたね」
モトの瞳が細まった。
「よく覚えていますね」
「商人は取引の条件を忘れません。一度でも卓に乗った数字は、全て覚えています」
「……それで?」
「あの時の取引は成立しませんでした。ですが——今回、別の形で提案いたします」
アシュタルは一度息を吸い、掠れた声を整えた。
「バアルが地上に帰還する。その代わりに、『捧げもの』の印持ちである私の魂の死後管轄権を、モト様にお譲りします。私が死んだ時——それがいつであれ——私の魂はモト様の領域に入ります。他の神に帰属することはありません」
沈黙。
モトの表情が動かなかった。一秒。二秒。三秒。
それから——笑った。
「面白い」
声に色がついた。今までの丁寧な仮面ではない、本物の興味だった。
「印持ちの魂の死後管轄権。それは確かに価値があります。『捧げもの』の印は特殊な回路です。その魂は通常の死者とは異なる。私の領域に置けば——有用でしょう」
「ご理解いただけますか」
「ええ。あなたは自分の商品価値をよく分かっていらっしゃる」
モトが椅子に深く座り直した。背もたれに体を預ける。リラックスした姿勢——に見えたが、目は緩んでいなかった。
「しかし」
来た。
「足りません」
アシュタルは表情を変えなかった。予想通りだ。最初の提案がそのまま通る交渉はない。これは値付けの起点だ。ここから相手の本当の要求を引き出す。
「何が足りませんか」
「アシュタルさん。あなたの魂一つで、嵐神一柱の帰還が釣り合うと思いますか? 人間の魂は——どれほど特殊でも——人間の魂です。神の魂とは格が違います」
「格の違いは承知しています。ですが——」
「それに」
モトが遮った。声のトーンが半音下がった。
「バアルが帰還すれば、地上に嵐が戻る。雨が降り、作物が実り、人間が栄える。人間が栄えれば——人間が増える。人間が増えれば、いずれ私の元に来る魂も増える。それは確かです」
モトの論理だ。長期的には嵐神の帰還はモトの利益にもなる。だがそれは——
「しかし、その利益は数十年後、数百年後の話です。今すぐの対価にはなりません。そして何より——」
モトの目が鋭くなった。
「あなた一人の魂では、私が失うものの埋め合わせにならない。バアルが冥界に残した痕跡、嵐の力の残滓——あれを処理するコストを、あなたは計算に入れていますか?」
計算に入れている。
だが、モトの口からそれを言わせたかった。
「では、モト様は何をお求めですか」
商人の基本。相手に値段を言わせる。自分から上限を提示してはいけない。相手の要求を聞き、そこから削る。
モトが微笑んだ。
「ウガル。あなたの故郷の港湾都市。あの街の全住民の魂の死後管轄権を、私にいただきましょうか」
背筋が凍った。
ウガルの全住民。数千人。その全ての魂を、死後モトの管轄下に置く。家族も。友人も。商人仲間も。妹も。
「——」
声が出なかった。掠れた喉が、それとは別の理由で詰まった。
アナトが壁際で身じろぎした。金色の瞳がアシュタルの横顔を見ていた。
モトが微笑んだまま待っている。黒い瞳が、アシュタルの反応を一つ残らず記録している。これが死神の交渉術だ。相手の大切なものを狙い撃ちにする。家族。故郷。守りたいもの。そこに値段をつけて突きつける。
だが。
アシュタルは掠れた声で、短く答えた。
「お断りします」
モトの眉が動いた。
「売れないものは取引に乗せません。ウガルの住民の魂は、私の持ち物ではありません。他人の財産を勝手に売る権限は、私にはない」
「権限、ですか」
「はい。商人の原則です。自分に処分権のないものを取引に乗せれば、それは商売ではなく詐欺です。たとえ取引が成立しても、後で必ず崩れる。根拠のない契約は契約ではない」
モトが黙った。
アシュタルは続けた。
「私が差し出せるのは、私自身の魂だけです。それ以上でもそれ以下でもない。——ですが、モト様。本当にウガルの全住民の魂が欲しいのですか?」
「と、言いますと?」
「あなたは死の神です。全ての人間は、いずれあなたの元に来ます。ウガルの住民も例外ではない。管轄権を今ここで得なくても、時間が経てば同じことです。あなたが本当に欲しいのは——数千人の凡庸な魂ではないはずだ」
モトの瞳が光った。
底のない黒の中に、一瞬だけ何かが走った。興味。あるいは——驚き。
「……続けてください」
「あなたが欲しいのは、特別な魂です。『捧げもの』の印を持つ魂。神力の回路を内蔵した、唯一の人間の魂。それは時間が経っても自然に手に入るものではない。私が他の神に帰属すれば、永遠に手に入らない」
沈黙。
モトが椅子の上で指を組んだ。長い指が絡み合い、顎の下に添えられた。考えている。死神が考えている。
「……なかなか」
声が低かった。
「なかなかの商人ですね、アシュタルさん」
「恐れ入ります」
「しかし——まだ足りません。あなたの魂には確かに価値がある。ですが、嵐神一柱分には届かない。もう一つ、何かが必要です」
もう一つ。
アシュタルは頷いた。予想の範囲内だ。最初の提案で決まらないのは織り込み済み。問題は、「もう一つ」が何かだ。
モトの次の一手を、待った。




