第158話
モトは待っていた。
玉座の間は昨日と同じだった。骨の柱が天井を支え、壁には死者の名が隙間なく刻まれ、空気は動かない。死の神の領域は変わらない——変わることを拒んでいる。
玉座に座るモトの姿は完璧だった。灰白色の長髪が肩に流れ、黒衣の襟元が一分の乱れもなく整っている。漆黒の瞳がアシュタルを見下ろし、血の気のない唇が微笑を刻んでいた。余裕の笑みだ。昨日と同じ——いや。
違う。
アシュタルの目は商人の目だ。取引相手の微細な変化を見逃さない。モトの左手が玉座の肘掛けに置かれている。昨日は右手だった。右手は——膝の上。指が微かに動いていた。親指が人差し指の腹を撫でている。小さな反復動作。落ち着かない時に出る癖だ。人間でも神でも同じだ。無意識の身体言語は嘘をつけない。
「おはようございます、モト様」
掠れた声で切り出した。丁寧に。商人は取引先に礼を欠かない。たとえ相手が死神でも。
「おはようございます、アシュタルさん。一晩でお声がずいぶん弱くなりましたね。冥界は生者に厳しい場所ですから。——お急ぎになった方がよろしいかと」
穏やかな声だった。心配しているように聞こえる。だが内容は脅迫だ。「時間がないぞ」と告げている。焦らせて判断力を鈍らせる。交渉の初手としては教科書通りだった。
だが——その教科書通りの手を打つということは、モトも交渉の構えを取っているということだ。余裕があるなら手など打つ必要がない。
「ご心配いただきありがとうございます。では、本題に入らせていただいてもよろしいですか」
「ええ。聞きましょう。死と商談をする人間の二度目の試みを」
モトが微笑んだ。楽しんでいるように見えた。だがアシュタルの目は、その笑みの下にある指の動きを見ていた。
「昨日、モト様はこう仰いました。『バアルは自分の意志でここにいる』と。これは事実です。バアルが自ら留まっていることを、私も確認しました」
「ええ。ですから、返せと言われても困るのですよ。私が囚えているわけではないのですから」
「その通りです。モト様は何も悪くない」
モトの眉が微かに動いた。認めると思わなかったのだろう。
「しかし——」
アシュタルは一歩前に出た。玉座と自分の距離が縮まる。骨の床を踏む足音が一つ。
「モト様にとっても、バアルがここにいることは不都合ではありませんか」
沈黙が落ちた。
冥界の沈黙は地上のそれとは質が違う。音がないのではなく、音が死んでいる。その中で、アシュタルの掠れた声だけが生きて響いた。
モトの微笑が——消えなかった。消えなかったが、固まった。唇の形はそのまま、だが目の奥の光が変わった。観客の目から、当事者の目に。
「……何を仰っているのか、分かりかねますね」
「冥界に揺れが起きています。死者たちが落ち着かないと言っています。記憶の散逸が増え、市場の取引が滞っている。温かい風が吹く。冥界に、風が」
モトの指が止まった。肘掛けの上で親指が人差し指を撫でる動作が、ぴたりと停止した。
「バアルの力は『生』の力です。嵐。豊穣。成長。それが冥界に漏れ続けている。モト様の領域に、異質な力が浸透している。死者は安らげず、秩序は乱れている」
言葉を区切った。息を整える。掠れた声は長い演説に向いていない。短く、鋭く。要点だけを。
「あなたもバアルに出て行ってほしいはずだ」
静寂。
モトの表情が変わった。微笑が消え、無表情になった。漆黒の瞳がアシュタルを真っ直ぐに見据えた。底の見えない黒。覗き込めば溺れそうな深さ。だが——怒りではなかった。
「……」
モトが立ち上がった。
玉座から降りた死神は、思ったよりも長身だった。アシュタルの頭ひとつ分以上高い。黒衣の裾が骨の床を掃くように動いた。一歩、二歩。アシュタルに近づいた。
アナトの気配が緊張した。背後で双剣の柄に手がかかる気配がした。だがアシュタルは振り向かなかった。今、モトから目を逸らしてはいけない。
モトがアシュタルの前に立った。至近距離。モトの肌からは温度が感じられなかった。冷たいのではなく、温度という概念自体が存在しない。
「アシュタルさん」
低い声だった。囁くような。だが一語一語が骨に響いた。
「私の領域で、私の事情を、私に突きつけるとは。なかなかの度胸ですね」
「商人は取引先の事情を知らずに商談はしません」
「情報収集、ですか。市場で。私の領域の死者から」
「はい」
「……面白い方ですね」
モトが笑った。今度の笑みは——昨日までとは違っていた。余裕の笑みでも、嘲笑でもなかった。不快と興味が混じった、複雑な笑みだった。
「認めましょう」
モトが一歩退いた。だが玉座には戻らなかった。アシュタルと同じ高さに立ったまま。
「バアルの存在は、確かに私の領域を乱しています。嵐神の力は——厄介です。死者が安らげない。私の秩序が揺らいでいる。これは事実です」
認めた。
アシュタルの背筋を緊張が走った。認めるのが早い。商人の勘が警告していた。弱みを素直に認める相手は、その先に別の手を用意している。
「しかし、だからといって私がバアルを手放す理由にはなりません。バアルが自分で留まっているのですから。私が追い出す必要もない。時間が経てば——嵐神の力もいずれ冥界に馴染むでしょう。数百年もすれば」
「数百年は長い。その間、モト様の領域は乱れ続けます」
「私は死です。時間はいくらでもあります」
そう来るか。
アシュタルは唇を噛んだ。モトは弱みを認めた上で、「急いでいない」と主張している。焦っているのはアシュタルの方だ。声が掠れ、感覚が失われ、生きていられる時間が減っている。時間の非対称。死神の最大の武器だ。
だが——
「では、こう言い換えましょう」
アシュタルは掠れた声を絞り出した。
「私は、モト様がバアルを手放す理由を作ることができます。双方にとって得になる取引を」
モトの眉が動いた。
「取引。またですか」
「はい。ただし——昨日までとは違います。昨日まで私は『バアルを返してくれ』と頼む側でした。今は違います。これは『バアルという問題を、お互いのために解決する』商談です」
モトが黙った。
黒い瞳がアシュタルを見つめていた。秤にかけている。この人間の言葉に、どれだけの価値があるのか。
「……聞きましょう」
モトが言った。声のトーンが変わっていた。丁寧語は崩れていない。だが——聞き流す声ではなかった。
聞く、という声だった。
アシュタルの心臓が跳ねた。
交渉のテーブルが——開いた。
主導権が動いた。死神の玉座の間で、一介の人間の商人が、死の神を交渉の席に着かせた。
ここからだ。
ここからが、本当の商談だ。




