第113話
地を蹴り、蜘蛛へと向かって秋雨は疾走する。
その外皮はアンネリーゼの攻撃にも耐えきる強固さを有していることは分かっている。
故に、狙うべき箇所は限られてくる。
外皮に攻撃が通らないのならば、蜘蛛の脚部の関節一点だ。
蜘蛛が秋雨を視認し、その脚を動かし突撃してくる。
脚の先端は鋭利であり、その歩みを進める度に地を抉り取っていく。
「——早いッ!」
お互いを狙い合うが故に、肉薄までにそう時間は必要なかった。
蜘蛛が前脚を大きく振り上げ、その先端を秋雨へと突き刺さんがために振り下ろす。
ガリガリガリ————氷刃刀で受け流すと、刀身の氷が削れ、その粒が秋雨の頬に当たって融解する。
「舐めるなッ!」
力を籠め、秋雨は蜘蛛の脚を弾き飛ばす。
そして、氷刀刃の刃を蜘蛛の脚にある関節へ奔らせる。
だが————、
「か、硬いッ⁉」
強固な外皮の隙となるであろうと思った脚の関節は、想像以上に硬い。氷刃刀の刃は全く通らず、そのまま無様に弾き返される。
「ダメだよ。コイツは何処も彼処も硬過ぎるからねぇ!」
弾かれ態勢を崩した秋雨をカバーするように、アンネリーゼが蜘蛛との間に躍り出る。
「千匹の仔を孕みし森の黒山羊!」
黒い雲の中より、のたうつ黒い触手が伸びる。
狂気による汚染が通じないのならば、直接手を下してしまえば良い。
あくまでアンネリーゼが精神汚染を目的に用いていただけで、それ単体の戦闘能力も常軌を逸している。
「絞め殺せ、千匹の仔を孕みし森の黒山羊」
黒い触手が蜘蛛を絡めとり、慈悲の欠片もない力で締め上げていく。
だが、それは蜘蛛の動きを僅かに止めるだけに過ぎなかった。
蜘蛛は締め上げられて数秒の後、その触手を引き千切ったのだ。
「比較と超越——相変わらず厄介だよねぇ」
千匹の仔を孕みし森の黒山羊を黒い雲の中へと戻しながら、アンネリーゼは秋雨の隣に降り立つ。
「比較と超越?」
「あー、秋雨君は知らないかったねぇ。収獲者は比較と超越の理を有しているんだよねぇ。比較——それは己と相手を見比べること。超越——対象よりも一段強くなること。簡単に言っちゃえば、アイツは比較して、相手より一段超越する厄介な特性を持っているってことだよぉ」
それを聞き、秋雨は顔を引き攣らせる。
手札を見せれば見せるほど、蜘蛛は強くなっていくということだ。
「厄介で済む話じゃないよな?」
「……まぁ、そうだねぇ。私の 千匹の仔を孕みし森の黒山羊も超越しちゃったみたいだし、困ったものだよねぇ。だけど、斥候相手なら超越される前に一気に叩けば間に合うかなぁ?」
アンネリーゼは蜘蛛から視線を外すことなく、祝詞を紡ぎ始める。
「我が権能、我が母、我が信仰の主――御身の名はシューブ=ニググラトス」
空気が震え、大地が腐りはじめる。
「おい、アンネリーゼ⁉」
「出し惜しみしている間にやられるだけだけから、一気に片付ける他ないと思うけどぉ?」
言わんとしていることは理解できる秋雨であったが、アンネリーゼが召喚しようとしているものが問題だった。
「クロ! ルシア! 両目をしっかり閉じろ! このアンネリーゼが召喚する奴を絶対に視界に収めるな! 人間性が朽ち果てて、廃人になるぞ!」
秋雨の言葉にギョッとした二人は即座に両目の瞼を下ろす。
ロイガーとツァールで精神をゴリゴリに削られている中で、更にシューブ=ニググラトスを直視しようものなら、間違いなく耐え切れない。
アンネリーゼの隣に、のたうつ黒い触手と黒い蹄の短い脚、そして黒い山羊の頭を持った異形は現れる。
「食らい尽くせ、シューブ=ニググラトス」
アンネリーゼの言葉と共に、異形は蜘蛛へと瞬きの間に肉薄した。
蜘蛛が異形へと脚を突き刺すが、突き刺した途端に腐り落ちていく。
そして——、
「終わったねぇ」
アンネリーゼのその言葉を聞き終えた時には、目の前から蜘蛛の姿は無くなっていた。




