イネスはいつもいなくなる
イネスは、不思議な令嬢だった。
成績は中の上。
授業で目立つことはない。
教師に褒められることも、叱られることも少ない。
けれどエリシアには、どうしてもそれが不自然に見えた。
授業中、難しい問いに対して、イネスは答えを知っている顔をしている。
でも手を挙げない。
実技でも、失敗はしない。
けれど一番にはならない。
誰かに話しかけられれば穏やかに返す。
けれど、気づくと輪の外にいる。
まるで、目立たないことを目的にしているようだった。
「イネス様って、すごく綺麗に歩かれますよね」
ある日、図書館で隣に座ったエリシアがそう言うと、イネスは本から顔を上げた。
「そうでしょうか」
「はい。姿勢も、指先も、全部綺麗です。私も真似したいです」
「……遠縁の叔母が、少し礼儀に厳しい人でしたので」
「少し?」
「かなり、かもしれません」
イネスは珍しく、少しだけ困ったように言った。
その表情がなんだかおかしくて、エリシアは笑ってしまった。
「でも、素敵です。私、イネス様みたいになりたいです」
「真似ですか……? そんな必要はありませんよ」
「どうしてですか?」
「真似をしなくても、エリシアさんは十分に綺麗な立ち振る舞いです。あとは貴族としての儀礼を学べば問題ありません」
真顔で言われて、エリシアはまた笑った。
イネスといる時間は、不思議と楽だった。
何かを聞き出されることもない。
聖女候補として扱われることもない。
将来について、勝手に期待されることもない。
ただ、隣に座って本を読む。
分からないところを聞けば、短く教えてくれる。
お茶に誘えば、たまに来てくれる。
けれど、べったり一緒にいるわけではなかった。
お互いに仲の良い友人はいるし、イネスも誰とも話さないわけではない。
その中で、エリシアは“よく話す友人の一人”だった。
けれどエリシアとしては、もっとイネスと仲良くなりたかった。
しかし、それはなかなか難しい。
なぜなら、イネスはよくいなくなるからだ。
休み時間に席を立ったと思えば、次の授業には何事もなかったように戻っている。
放課後に誘おうとすると、もう姿がない。
けれど、エリシアが本当に困ったときには、なぜか来る。
魔法実技の授業で、エリシアの力が暴走しかけた日もそうだった。
女神の意識に触れてから、エリシアの魔力は急激に増大した。
だからこそ、まだ扱いに慣れていない。
膨れ上がる光。
制御できない力。
周囲の生徒たちが怯え、教師が駆け寄ろうとした瞬間だった。
誰かが、そっとエリシアの手首を掴んだ。
「息を吐いてください」
静かな声。
イネスだった。
「力を無理に押さえ込もうとしないでください。流れを感じて……遠くから眺めるように」
その声に従う。
すると暴れていた光が、少しずつ細くなっていく。
制御するのではない。
流れを整える。
その感覚に気づいた瞬間、エリシアの魔力はゆっくりと落ち着きを取り戻した。
周囲は騒然としていた。
けれどエリシアは、イネスの手の冷たさだけを感じていた。
「……イネス様、今の」
「少し、家庭教師に習っただけです」
「家庭教師で、あんなことを?」
「ええ。少し変わった方でした」
まただ。
イネスは本当のことを言っていない。
でも、嘘をついている感じでもない。
ただ、大事なところだけを静かに隠している。
その日の放課後。
エリシアは中庭でイネスを見つけた。
偶然だった。
大きな木の陰で、イネスはひざまずき、小さな鳥を手の中に包んでいた。
怪我をしていたのだろう。
淡い光がこぼれ、やがて鳥は小さく羽ばたく。
イネスはそっと空へ放し、ゆっくり振り返った。
「見ましたか」
「……はい」
「では、見なかったことにしてくださいね」
いつもと同じ声だった。
けれど、その微笑みがあまりにも綺麗で、エリシアはなぜか胸の奥が熱くなる。
エリシアは黙ってうなずいた。
胸の鼓動が、少しだけ速い。
おかしい。
「イネス様は、不思議です」
「不思議……?」
「もし私が男の人だったら、イネス様のこと、好きになっていたと思います」
言ってから、エリシアは自分で驚いた。
告白みたいだ。
違う。
違わないけれど、違う。
好き、なんだけど。
でも、そういう好きではなくて。
イネスは数秒、完全に止まった。
「……何を言っているんですか」
「だって、絶対に幸せにしてくれそうですもん」
「私は、そんな大層な人間ではありません」
「でも、そう思うんです」
エリシアは笑った。
イネスは困った顔をして、それから小さくため息をつく。
「あなたは、少し人を信じすぎです」
「そうでしょうか」
「ええ」
「でも、イネス様は信じてもいい人です」
「……困った人ですね」
「ええ。私、イネス様になら騙されてもいいって思えるんです」
その言葉に、イネスは何も返さなかった。
ただ、夕暮れの光の中で静かに目を伏せる。
その姿があまりにも綺麗で、エリシアは思った。
この人はきっと、自分が誰かを救っていることに気づいていない。




