それは、恋より先の感情だった
ジョエル王太子と、エリシアが話す機会は増えていった。
それは自然なことだった。
女神の意識に触れた聖女候補。
国の未来を担う王太子。
周囲は二人を並べたがったし、神殿も王宮も、それを望んでいるようだった。
最初は、エリシアがジョエルの視線に気づいたことから始まった。
彼は、誰かを探していた。
そして知る。
ジョエル王太子には、長く想い続けている相手がいるのだと。
イネスという名の、公爵令嬢。
イネス。
たしかに友人も同じ名前だった。
けれど王太子が想っているのは、社交界でも有名な公爵令嬢のイネス。
田舎育ちのエリシアですら、その名は知っていた。
女神のように美しく。
気高く。
賢く。
誰もが一度は憧れる存在。
――けれど。
完璧だと思っていたジョエル王太子が、誰かに焦がれるような感情を持っている。
それが、エリシアには少しだけ嬉しかった。
ジョエルが語る“イネス”は、遠い高嶺の花ではない。
優しくて。
不器用で。
どこか掴めない人だった。
その話を聞くたび、エリシアの胸の中にある感情が、少しずつ言葉になっていく。
ああ。この気持ちは、憧れなのだ。
そして、その気持ちを共有できるからこそ、エリシアはジョエルを“完璧な王太子”ではなく、一人の人間として見るようになっていった。
近づいていく、魔を祓う儀式の日。
女神の意識に触れたとき、エリシアは自分の役割を知った。
この身は、女神のもの。
その意思に従い、世界を守る。
それが、自分に与えられた使命だった。
だから、恋愛にうつつを抜かしている場合ではないことも分かっている。
けれど。
エリシアの心は確かに動いていた。
ジョエル殿下のこと。
そして、ジョエル殿下を思うたび、不意に考えてしまうこと。
――イネス様なら、どう言うかしら。
困ったとき。
迷ったとき。
誰かの期待が重くなったとき。
気づけばエリシアは、イネスの姿を探していた。
けれどイネスは、以前よりもさらに姿を消すようになった。
授業にはいる。
席にもいる。
成績も変わらない。
でも、気づくと遠い。
エリシアが王太子と話すようになればなるほど、イネスは少しずつ距離を取っていった。
寂しくないと言えば嘘になる。
けれど、不思議と恨めしくはなかった。
もともと、互いに別の友人たちがいる。
話す時間が減れば、自然と距離ができる。
イネスには最初から、そういうところがあった。
距離を取るのが上手い。
近づきすぎない。
でも、決して見捨てない。
ある夜、神殿から急な呼び出しがあった。
女神の力に関する確認だと言われたが、実際には、エリシアがどれほど王家に従順かを確かめるような空気だった。
女神像の前で、服従の宣誓をさせられる。
帰り道、エリシアは一人で泣きそうになった。
期待されるのは怖くない。
誰かの役に立てるのは嬉しい。
けれど、自分の心まで女神のものとして扱われるのは、少し怖かった。
「エリシア様」
暗い廊下の先に、イネスが立っていた。
眼鏡をかけた、目立たない子爵令嬢。
でもその姿を見た瞬間、エリシアは息を吐いた。
「……どうして、ここに」
「通りかかりました」
「嘘ですね」
「――そうですね」
イネスはあっさり認めた。
それがおかしくて、エリシアは泣きながら笑ってしまう。
「私、今も幸せです」
「はい?」
「もともと幸せなんです。家族も優しいし、学園にも入れて、力も授かって。だから、おかしいんですけど」
言葉がうまくまとまらない。
「イネス様といると、落ち着くんです」
イネスは黙って聞いていた。
「不思議ですよね。イネス様って、王子さまみたいな人なんです」
「王子……私は女性ですよ」
「分かってます。そういう意味じゃなくて」
エリシアは目元を拭った。
「昔読んだ本に出てくるんです。困ったときに、必ず来てくれる人みたいで」
イネスは少しだけ目を見開いた。
「買いかぶりすぎです」
「でも、本当なんです」
エリシアは笑った。
「私、ジョエル殿下が好きです。でも、イネス様といると、今ここにいていいんだって思えるんです」
(好きなんです。――おかしいですよね。)
これは恋ではない……
少なくとも、エリシアの知っている恋ではない。
胸が高鳴るより先に、視線を追ってしまう。
手を伸ばしたくなるより先に、その人の幸福を祈ってしまう。
そして、頼りたくなってしまう。
人を救うはずの、自分が。
そんな感情を、何と呼べばいいのか、エリシアには分からなかった。
卒業が近づく頃には、エリシアとジョエルが並ぶ姿を、学園中が当然のものとして見るようになっていた。
魔を祓う儀式には、ジョエルとの連携が必要だった。
他の有力貴族の子息たちとも関わる時間が増えていく。
だから、おのずとイネスとの時間は減った。
イネスは相変わらず、少し離れた場所にいた。
人混みに紛れ。
目立たず。
静かに立っている。
けれどエリシアには分かる。
必要なときには、必ず来る。
時が流れ。
学園を卒業し、ジョエルとの婚約を正式に発表した日のことだった。
帰り道。
校門へ続く石畳の道で、ジョエルと話していたエリシアは、ふと振り返る。
イネスがいた。
視線が合う。
イネスは小さく礼をして、またいつものように、人の流れの中へ消えていった。
エリシアは胸の奥で、そっと思う。
私はきっと、ジョエル殿下より先に、イネス様を好きになっていた。
けれど、それは恋ではない。
あの人に、幸福でいてほしい。
いつか私が女神の役目を果たす日が来ても。
いつか王子の隣に立つ日が来ても。
いつか、物語が終わる日が来ても。
イネス様には、笑っていてほしい。
その願いだけは、恋よりもずっと前から、エリシアの胸にあった。
だから彼女は、未来を知らなかった。
物語が終わった、ずっとあと。
自分がいなくなった世界で。
その願いを、誰よりも静かに受け取る人がいることを。
そして、困ったときに必ず現れる人が、今度は幼い王子の前に現れることを。
番外編 エリシアとイネス
END
本編では描ききれなかった、エリシアとイネスの学生時代のお話でした。
「ふたりの関係をもっと見てみたい」と思ってくださった方へ、感謝を込めて書かせていただきました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
※次回作のお知らせ
5月22日より、異世界恋愛の長編作品を連続連載予定です。
「王立図書館長が突然辞職することになったのですが、なぜか部下の私に求婚してきました」
全52話・約10万文字。
朝8時・夜20時を中心に更新予定となります。
静かな図書館から始まる、
少し不器用な二人の結婚と恋愛のお話です。
のんびり楽しんでいただけたらうれしいです。




