第四章 十の質問
六月の訪問は、梅雨の晴れ間になった。
前の日に電話をかけると、トシ子さんは、はいはい、と言ってから、どちらさま、と聞いた。郵便局の水野です、みまもり訪問の、と言うと、ああ、水野さん、と声が明るくなった。先月もそうだったかどうか、わたしは覚えていなかった。帳面をつけていないからだ。電話のことは、タブレットの項目にない。
坂の上のポストの前で、佐野さんが紫陽花の植え込みに水をやっていた。
紫陽花は、まだ青くなりきっていなかった。白に近い花が、梅雨の晴れ間の光を受けていた。佐野さんは、この植え込みを、十年かけて育てたのだと言っていた。
「トシ子さん、このあいだ内科の日、バス乗りそびれたってさ」
「そうなんですか」
「バス停で待ってたら、なんの用で来たのか忘れちゃったって。笑ってたけどね」
わたしは、そうですか、と言った。
佐野さんは、ホースの口を指でつぶして、水を遠くまで飛ばした。紫陽花の葉が、しずくを弾いた。
「息子さんに、言ったほうがいいのかね」
「どうでしょう」
「わたしから言うのも、おかしいか。連絡先、知らないし」
わたしは、みまもり訪問の申込者の連絡先を知っている。メールアドレスだけだ。それを佐野さんに教える決まりはない。教えない決まりがある。お客さまの情報は、ほかの人に伝えない。
「訪問のときに、ご本人の様子を見てきます」
わたしがそう言うと、佐野さんは、頼むね、と言った。
頼まれたことを、わたしは頭の中で言い直した。様子を見る。見たことのうち、質問の項目にあることを入力する。それが、わたしの仕事だ。
*
三〇五号室のテーブルには、湯のみが二つと、何も載っていない小皿が一つ置いてあった。
流しには、洗っていない茶碗が二つ重なっていた。先月は、流しに何もなかった。それは、わたしが覚えていることで、記録にはない。記録にないことを比べても、報告にはならない。
「お菓子、切らしちゃって」
トシ子さんは、小皿を少しこちらへ押した。何も載っていない皿を、わたしはしばらく見ていた。皿の縁に、最中の粉が少しだけ残っていた。
「お気遣いなく」
今度は聞こえたらしく、トシ子さんはうなずいた。
タブレットを開いた。
体調はいかがですか。
「いいわよ」
どこか痛いところは。
「ない」
わたしは、良い、を選んだ。
トシ子さんの顔色は、先月と変わらなかった。変わらないように、わたしには見えた。顔色の欄はない。体調の欄に、本人がいいと言えば、良いを選ぶ。それが決まりだ。
研修の冊子には、こうも書いてあった。ご本人のお言葉を尊重してください。訪問員の印象で、ご本人のお答えを変えないでください。
わたしは、変えなかった。
食事は、一日に何回とっていますか。
トシ子さんは少し考えて、三回、と答えた。何を食べましたか、と聞くと、朝はパン、と言って、そのあと黙った。昼は、と聞くと、うどん、と言った。先月と同じ答えだった。
わたしは、三回、を選んで、備考に、朝パン、昼うどん、と入力した。
冷蔵庫の横のごみ箱から、菓子パンの袋が三つのぞいていた。どれも同じ種類だった。それは、わたしの推測になる。推測は入力しない。
睡眠。よく眠れる。
外出。
「スーパーに、二回かしら。内科は……」
トシ子さんは、壁のカレンダーを見た。五月のままになっていた。月末の木曜に、赤い丸がついていた。
「行ったわよ」
わたしは、月一回、を選んだ。
カレンダーの赤い丸を、わたしはもう一度見た。月末の木曜。十時、と小さく書き添えてあった。
その日の朝、坂の途中でトシ子さんとすれ違ったことを、わたしは覚えていた。停留所のほうへ歩いていったことも。その日、バス停のベンチで、時計を拾ったことも。
内科に行ったかどうかは、見ていない。トシ子さんは、行ったわよ、と答えた。答えを入力するのが、わたしの仕事だ。
*
心配事はありますか。
この質問のとき、トシ子さんはいつも、湯のみを両手で包む。
「ないわね」
わたしは、なし、を選んだ。
十の質問が終わると、入力内容の確認の画面が出る。体調、良い。食事、三回。睡眠、良い。外出、週二回、通院月一回。心配事、なし。ほかの項目も、全部、先月と同じだった。
わたしは送信のボタンを押した。
システムは、この内容をもとに報告書を作る。報告書のいちばん上には、総合所見という欄があって、全項目に異常がないときは、定型の一文が入る。研修の冊子に、見本が載っていた。
お変わりなく、お元気にお過ごしです。
わたしがその文を書くのではない。システムが書く。わたしは、答えを入力するだけだ。
*
帰り支度をしながら、仏壇の写真を見た。
白いワイシャツの袖から、手首がのぞいている。銀色の時計が、そこに写っていた。丸い文字盤で、バンドは写真では色がわからなかった。
「ご主人の時計、毎朝巻いてらっしゃるんですよね」
聞いてから、項目にない質問だと気づいた。
トシ子さんは、写真のほうを見た。
「そうよ。毎朝」
それから、手提げを膝に引き寄せて、中をのぞいた。財布と、ハンカチと、病院の診察券と、飴の袋が入っていた。トシ子さんは、手提げの底を指で探って、それから口を閉じた。
「毎朝、巻いてるわよ」
もう一度そう言って、手提げを椅子の背に掛けた。
わたしは、それ以上は聞かなかった。
手提げの底を探る指の動きを、わたしは見ていた。何かを探して、見つからなかった指だった。それとも、何かがあることを確かめて、安心した指だったのかもしれない。見ただけでは、どちらかわからない。
わからないことは、入力しない。
わたしの胸のポケットには、もう何も入っていなかった。時計は、坂の下の交番の棚にある。透明な袋に入って、番号のタグをつけられて。財布の奥には、拾得物件預り書がある。
それを、トシ子さんに言う決まりはなかった。トシ子さんは、時計をなくしたとは言っていない。毎朝巻いている、と言っている。
*
玄関で、封筒を預かった。
三通目の白い封筒だった。宮下健一様。同じ東京の住所。裏に、トシ子さんの名前。
坂の上のポストに入れた。
入れる前に、封筒の表を見た。宛名の字は、四月の封筒より少し大きく、少し右に傾いていた。それは、わたしの推測だ。四月の封筒は、もう手元にない。比べることはできない。
ポストの口に封筒が落ちる音がした。
局に戻って、タブレットを返した。局長が、宮下さん、どうだった、と聞いた。
わたしは、局長の机の横に立ったまま、少し考えた。
考えたのは、答えの言葉だった。どうだった、と聞かれて、どう答えるのが正しいのか。局長が聞いているのは、報告の中身だ。報告の中身は、わたしがさっき送信した。体調、良い。食事、三回。心配事、なし。
カレンダーが五月のままだったこと。菓子パンの袋が三つあったこと。電話で、どちらさま、と聞かれたこと。それは、報告の中身ではない。わたしが見て、推測したことだ。
「お変わりありません」
わたしは、入力したとおりに答えた。
財布の奥の拾得物件預り書のことは、局長に言わなかった。仕事の話ではなかったからだ。
心配事、「ない」。
その夜、アパートの台所で、財布を開いた。
預り書は、免許証の後ろにあった。わたしは、それを取り出さなかった。財布を閉じて、鞄にしまった。
トシ子さんの手提げの底を探る指を、思い出した。何かを探して、見つからなかった指。それとも、何かを確かめた指。
わたしは、どちらなのか、明日の朝には忘れているだろうと思った。忘れても、困らない。報告書には、書いていない。




