第93話:浸蝕(しんしょく)
社長室には、まるで湿った空気だけが沈殿したような重苦しさで満ちていた。
如月は斎藤の言葉を理解しようと努める。
しかし、普段なら即座に脳内で始まるはずの情報の精査も、今日は働かなかった。
耳に届く音が、厚いガラス越しに聞いているように遠ざかっていく。
自分のパートナーであるカナレが辞める――。
その一文だけが、凶器のように胸を突き刺していた。何度反芻しても、心の中で形として固まらず、ただ痛みだけが残る。
本来なら、自分が守るべき存在だった。支え、引き上げ、背中を預け合う相手だった。
なのに、蓋を開けてみれば、守られるばかりで、何ひとつ返せていなかったのではないか。
(……俺が原因なのか……)
その考えが胸の深い場所に突き刺さり、そこから鈍い痛みが内側に広がっていく。
答えは出ない。
だが、“そうかもしれない”という可能性だけが、確かな重さをもって如月の心を押し潰していた。
如月は何も言わず、静かに歩を進めた。
本田や斎藤の顔も、社長室の冷たい光も視界に入らない。床に向けられた視線だけが、かろうじて彼がまだ現実に立っていることを示していた。
扉が閉まった瞬間、廊下の空気が肌に触れた。
だが、その冷気すら感覚として認識できない。足裏が床に吸いつくたび、“重さ”だけが増していく。
普段、リング上では空気を裂くように軽やかで無駄なく動く身体が、まるで地面へ沈んでいくようだった。
肩は自然と落ち、歩幅も狭まる。息が浅いことにも気づかないまま、如月はただ前へ進んだ。
如月が去った社長室には、沈黙だけが取り残された。
斎藤と本田――残された二人は、互いを見ようとしなかった。机の上の資料に落とされた視線は、焦点がどこにも合っていない。
本当に、責められるべきは自分たちではないのか。
その問いが二人の胸の奥でゆっくりと芽を広げ、重い影をつくる。答えの出ない自責だけが室内に濃く漂い、湿気を帯びたようにまとわりついた。
斎藤は握った手を机の下で強く震わせ、本田は唇を噛み、息をゆっくり吐く。見えない後悔が二人の肩に重く積もり、社長室の空気はさらに沈み込んでいった。
まるで、三人のうち最も傷ついた者だけを置き去りにしてしまった――。
そんな罪悪感が、誰も口を開けない理由となっていた。
カナレの決断――その裏にある感情を、どこまで理解しようとしてきたのか。
如月が背負ってきた負担を、自分たちはどれほど正しく把握していたのか。
問いかけだけが胸の奥で重く沈み、返答はどこにも見つからない。
室内には、聞き取れないほど小さな後悔の呼吸音だけが、長い残響のように漂っていた。
廊下を、如月は黙々と歩き続けていた。
社長室を出てからの記憶はほとんど欠落している。歩くという動作だけが身体に残り、それ以外抜け落ちていた。
途中、誰かとすれ違った感覚がある。名前や顔も浮かばないが、確かに声をかけられた気がした。
しかし、その記憶は波に揉まれた砂のように形を保てず、必要のない断片だけがざらついて残り、思考は虚ろなまま遠ざかっていく。
そのとき――。
「如月!」
鋭く通る声が、廊下の空気を切り裂いた。
如月は反応が一拍遅れ、ゆっくりと、まるで重い水の中で首を動かすように、声の方向へ顔を向けた。
視線の先、吹き抜けに面した施設内のバルコニー――二階の張り出し通路から、望月が身を乗り出すようにして必死に手を振っていた。
その表情は焦りと心配が入り混じり、今にも柵を越えそうな勢いで如月を呼び止めている。
如月の瞳は、ただ望月の姿を捉えるだけで精一杯だった。
その目は微かに揺れている。
それが動揺によるものなのか、胸の奥に渦巻く憤りなのか、自分でも判別がつかない。
曖昧で霧がかった思考のまま立ち尽くしていると、いつの間にか望月が目の前に駆け寄っていた。
全力で走ってきたのだろう。肩が大きく上下し、吐く息は荒い。額には汗が滲み、声を出す前からその焦りが伝わってきた。
「あんた、どこにいたのよ!」
必死の声。それでも如月の耳には、遠くから響くようにしか届かない。
望月はその状況を悟ったのか、ついに如月の両肩を強く掴んだ。力を込めて揺さぶり、言葉を叩きつけるようにカナレの状況を報告する。
しかし――如月の表情は変わらない。
茫然としたまま、呼吸の仕方すら忘れたように、ただ望月を見据えているだけだった。
その瞳の奥には、なにもない。あるのは、ひとつの事実を受け止めきれず宙づりになった心だけだった。
「どうしよう……カナレが……」
望月は力が抜けたように膝をつき、その場に崩れ落ちた。泣き出しそうな震え声と同時に、小さな体が揺れる。
だが如月は、その光景をただ見下ろすように眺めているだけだった。慰める言葉も、支える手も出てこない。
自分がどれほど鈍く、冷たくなってしまっているのか、その事実がじわじわと胸を侵食していく。
(……40越えのオッサンが、こんな若い女の子たちを泣かせちまってる……)
嫌悪は、ゆっくりと怒りへと形を変えつつあった。
如月は、何かを固く決めたように両拳を握りしめる。
指の関節が白く浮き上がり、そこから発される気迫が、周囲の空気を静かに圧し潰していく。
望月は、如月の体から滲み出す異質な“圧”に気づいた。
それは怒りとは別種の、重く澱んだ、得体の知れない力のようだった。
まるで施設全体を一瞬で支配してしまうのではないかと思えるほど、強大な気配が膨れ上がっていく。
あまりにも強烈な支配力に、望月は息を呑んだ。瞼にたまっていた涙が、熱に触れて蒸発するように消えていく。
如月は何も言わない。
ただ、音もなく、その場を離れるように歩き出した。
足音はあるのに、気配がない。まるで“人”としての存在感が削ぎ落とされ、そこにいるのは影だけのようだった。
そして、数歩歩いたところで如月はふいに立ち止まる。
濁った空気を払うように、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
スッ――。
静寂の中で、その吸気は異様なほど澄んで聞こえた。
そして。
「ハッ!――」
口から迸った気合の声は、形を持つ衝撃のように廊下へと放たれ、よどんだ空気を一瞬で吹き飛ばした。
「ひぃ……!」
望月は反射的に息を小さく呑み、肩を震わせる。
――次の瞬間、如月の足が動いた。
その背中はまだ望月に向いている。
しかし、去り際、まるで何かを託すような、覚悟を剥き出しにした声が放たれた。
「望月……カナレに言っておいてくれ……」
望月は、呆然とした表情で返事をした。喉の奥が強張り、声にならない。
「……な、何を?」
ようやく絞り出せたその小さな言葉に、如月は振り返らない。
ただ、歩幅だけをわずかに広げ、前へ進もうとする。
「俺と研美先輩の試合、必ず見に来てくれって……」
その声には怒りはなかった。
ただ揺るぎない意志だけが、低く静かに燃えている。
望月の胸に、得体の知れない震えが走った。
如月が何をしようとしているのか――すべてを聞かなくても、伝わってしまうほどの迫力だった。
「如月……!」
伸ばそうとした手は空を掴み、ただ温度だけが手のひらに残る。
如月は振り向かないまま、施設の奥へと歩みを進めていった。
その歩みは静かだが、どの足音もまるで決定事項を刻みつけるかのように重かった。
そして――如月は、新たな決意を携えて研美戦に向けた最終調整へと踏み出した。
もはやそれは、プロレスのトレーニングではなかった。
格闘技の範疇すら逸脱している。
鍛えるというより、削る。
積み上げるというより、削ぎ落す。
自分という器を限界まで削り、剥き出しになった核心だけを残そうとするような、鬼気迫る行為だった。
望月の前から立ち去った如月が向かったのは、ほとんど使われていない二階の道場だった。
照明もどこか曇った明かりを放ち、すすけた匂いを放つ誰も近寄らない場所。
その静寂の中で、如月は一人、血反吐を吐くほどの壮絶な“自虐”に身を投じていた。
腕立て伏せは、もはや腕立てという体をなさないほどの速度と角度で床を叩く。
スクワットは、膝の軋む音が外に漏れ聞こえるほど限界を超え、受け身は、風切り音と衝撃が皮膚を裂くように道場の空気を震わせた。
呼吸は荒く、肺が焼けつくように痛む。喉からせり上がる鉄の味を飲み込みながら、それでも止まらない。
――止めれば、戻れなくなる。
そんな焦燥が、肉体の悲鳴をすべて上書きしていた。
汗は溢れ、時折混じる血がリングに暗い点となって落ちる。
だが如月は気づかない。いや、気づいていても無視していた。
ひとつ、またひとつと自分の“限界”を強引に踏み越えるたび、カナレの顔が脳裏に鋭く浮かぶ。
その執念だけが、如月を動かしていた。
何時間経過したのか――その感覚すら、如月の中から完全に消えていた。
本道場で行われているはずの合同トレーニングにも一切姿を見せず、ただ黙々と、呼吸と肉体の限界だけを相手にし続ける。
その表情は、鬼気という言葉すら軽いと思えるほど切迫していた。
外界のすべてを切り離し、自らの内側に沈み込む。
胸の奥深くに沈殿していた闘争の核――蠢く闘諍の権化を呼び覚まそうとするそれは、もはや鍛錬というより、祈祷にも近い“儀式”だった。
自傷行為と言い換えたほうが、まだ救いがあるようにさえ思えた。
一切の迷いなく、己を犠牲にし、自信だけを供物のように差し出す荒行。その一挙手一投足が、如月の内側で何かを削り、そして何かを呼び戻していた。
窓から差し込んでいた陽光は、いつの間にか琥珀色に変わり、やがて夕闇が滲み、そしてその夕闇すら夜に侵食されていく。
暗闇が道場を覆い尽くし、視界が輪郭を失った頃――。
如月は、まるで糸が切れたようにその場へ倒れ込んだ。
荒く上下する胸。
血走った眼。
喉の奥から漏れる低い唸り声は、もはや人間のものとは思えないほどの熱を帯びていた。
だが、その唸りこそが高揚感だった。
痛みと疲労の向こう側にある、原始的な昂ぶりが如月の表情をゆがめていく。自らを削ぎ落とし、研美に挑むための“核”だけが今、むき出しになりつつあった。
そして、心の中で懺悔するようにつぶやいた。
人としての感情がまだ辛うじて残っているうちに。
(……師匠、すみません……)
その瞬間、胸の奥から、わずかに“人間らしい情念”が漏れ出した。
それは温度を持った、柔らかな光のような感情だった。
しかし――それはすぐに、背後から這い上がる禍々しい闘気に押しつぶされる。
圧倒的で、濁っていて、暴れていて、人間の思考の形をしていない“別の何か”。
英二が長年押し殺し、封じてきたものが、いま解き放たれようとしていた。
如月は、床に突っ伏した姿勢のまま、ゆっくりと顔を横に向けた。視線の先、闇に沈む狭い道場の床に――何かが落ちている。
それを拾い上げようとはせず、ただ起き上がり、静かに、値踏みするかのように見据える。
闘気の余韻で歪んだ視界の中でも、その形だけははっきりとわかった。
見覚えがある。
カナレのピン留めだった。
小さな金属片に過ぎないのに、そこには強烈な“彼女”の気配が宿っていた。
カナレが大事にしている愛用品。父親が、旅立ちの日に「せめてこれだけは持っていけ」と渡した祝いの品。
父親は最後までカナレのプロレス入りに反対だった。娘の身体が傷つく世界に送り出したくなかった。
それでも、叶わぬ夢ではないと信じる娘のまっすぐな熱意に、最終的に折れてしまった。
その証が――今、如月の足元に落ちている。
なぜここにあるのか。
誰が、いつ、どうやって。
答えはどこにも繋がっていない。
だが、そのピン留めが、如月の胸の奥にほんの少しだけ残っていた“迷い”を振り払い、乾いた枝が折れるように音を立てて如月麗という人間が消えた瞬間だった。
呼び覚ました禁忌の力。
研美との戦いに向けて肉体を削り続けた理由。そのすべてが、この小さな金属片を媒介に、一点で結びついた感覚が鈍り始めるように如月の体を侵食する。
「……」
言葉は出なかった。
落ちていたピン留めを見つめるうちに、如月の顔色にはわずかに血の気が戻り、人間としての輪郭を取り戻しつつあるようにも見えた。
だが、その“情”すら――不要だった。
如月はその感覚を自らそぎ落とすように、握りかけていたピン留めを手から振り払った。
カン、カラン。
金属片が頼りなく跳ね、虚しい音を立ててリングの下へ消えていく。
その瞬間、人としての気配はまた薄れていった。
如月は再び、一心不乱の表情となった。
何かに取りつかれたかのように、自ら望んで“何か”に身を捧げるかのように、常軌を逸した鍛錬を再開する。
腕が崩れ、膝が軋み、呼吸が黒ずんだ痛みに変わっても止まらない。
鍛錬という言葉では足りない。それは身体への攻撃であり、魂の摩耗であり、封じられてきた力を呼び覚ますための“代償”そのものだった。
誰に求められたわけでもない。
誰も望んでなどいない。
しかし、師から禁じられ、意図的に心の深淵へと封じ込められていた“何か”を、如月は自らの肉と骨を削るような覚悟で呼び起こそうとしていた。
やがて闇に沈んだ道場の中で――。
如月の眼光だけが、静かに、獣のような光を帯びてゆらめいた。その光は、闘志という言葉では片づけられない。
生物としての本能が剥き出しになり、暗闇の中でただ一つ、確かな“存在”としてそこに浮かび上がっていた。
まるで、これから訪れる試合の結末を暗示するかのように――。
外の天候が、不意に変わり始めた。
遠くで雷が低く鳴り、空気を震わせる。次の瞬間には、空を裂くような稲光が閃き、ガラス窓の向こうで一瞬、道場の内部が白く照らされた。
風が強まり、雨が叩きつけるように降り始める。建物全体を揺らすような轟音が連続し、まるで外界までもが何かに怯え、抗っているようだった。
外の轟音が、やがて道場の静寂を押しつぶすように響き渡る。
ドォォォン――ッ!
その音は雷ではなく、目覚めた“何か”への号砲のようにも聞こえた。
闇の中――。
如月だけが、まったく動じなかった。
濡れた獣のような眼光だけが、静かに、しかし確実に世界の変化を見据えていた。




