第94話:はじまりの気配
Queen Beeが誇るメインアリーナ――ヘキサゴンは、すでに満員御礼の札止め状態だった。
今日の一戦を“生”で目撃しようという観客が、開場前から溢れ返り、アリーナの外周には長蛇の列が折り重なるように続いていた。
入場ゲート付近には興奮と焦燥の入り混じった熱気が立ちこめ、外の空気を押し返すほどの圧力を帯びている。
「申し訳ありません!チケットをお持ちでない方は、この場から離れてください!」
スタッフたちが拡声器越しに声を張り上げ、進行役のハニーハンドが両腕を広げて人の波を押しとどめようとする。
しかし、熱狂に包まれた観客たちは後ろへ退く気配を見せない。むしろ、押し寄せる波のように前へ前へとにじり寄り、規制線がたわむたびに場内の緊張が高まっていった。
誰もがわかっていた。これはただの試合ではない。
半年ぶりのタイトルマッチの挑戦を受ける研美。
そして如月麗。
二人の名前が今夜、初めて同じカードに並ぶ。それだけで、観客の理性の半分はどこかへ吹き飛んでいた。
「後ろへ下がってくださーい!危険です!」
警備担当が必死に声をかけても、誰ひとりとして耳を貸さない。
まるでアリーナそのものが巨大な生き物となり、試合開始の瞬間を求めて蠢いているかのようだった。
今大会の前売りチケットは、発売開始からわずか十分で完売した。
それでも――観客は並んだ。
手元にチケットがない者、抽選に漏れた者、遠方から駆けつけた者。
誰ひとり諦める気配はなく、ヘキサゴンの入り口前には延々と列が伸び続けていた。
湿気を含んだ風が吹き抜けても、その風さえ観客たちの熱気に呑まれ、どこか同調しているように感じられる。
熱気を押し返すこともできず、ただ通り過ぎるだけ――それでも、押し寄せる人の波は止まる気配を見せなかった。
「お願いだから、立ち見でも!どこか空いてない!?」
「当日キャンセル出てない?頼む、どうしても見たいんだ!」
悲痛とも、熱狂ともつかない声があちこちで飛び交う。観客たちはただ、この試合を目で、耳で、空気で味わいたかった。
研美と如月――。
その名が同じカードに並んだ瞬間、誰もがすでに理屈を忘れていた。
たとえ入れなくてもいい。それでも、この場所で、同じ空気を吸っていたい。そんな想いが、ヘキサゴンの外周にまで押し寄せ、さらに膨れ続けていた。
アリーナ内の照明はすでに落とされ、巨大な闇の中でスポットライトだけが中央のリングを蒼く浮かび上がらせていた。
その光は、これから始まる非日常の舞台を静かに、しかし確実に照らし出している。
すでに第四試合が終わり、リングアナ・田辺の澄んだ声が蒼い光の中に響いていた。
「――13分25秒、体固めで島村ゆいの勝利!」
細身の体つきとは裏腹に、芯の強さがにじみ出る凛とした表情。蒼い光を受けて浮かび上がったのは、島村だった。
NEXT QUEEN’S GATE最終戦。決勝戦を控えた三位決定戦。
壮絶なトーナメントをなんとか勝ち残り、値千金の勝利――本来ならば、もっと大きな喝采に包まれていいはずだった。
だが、リング下でセコンドについていた望月は、勝者の島村へ拍手を送りながらも、どこかぎこちない笑顔を浮かべていた。
逆に観客の声援は、前評判の高かった研美対如月戦への期待だけで既に熱を帯びていたところへ、島村の勝利が火種となり、その抑えきれぬ衝動にいっそう火を点けていた。
島村もまた、勝ち名乗りを受けながらも、心からの笑みとは程遠い硬い表情を崩さない。
理由は明らかだった。
二人とも、この後に控えている“試合”の重さを知っていた。
観客の視線が島村や望月ではなく、次に行われるメインへ向けて傾き始めていることを、肌で感じていた。
会場全体が、不穏にも似た期待と緊張の熱を帯びていく――。
数時間後――ふたつの影があのリングに立つ。
その予兆だけで、観客たちのざわめきは嵐の前の唸り声のように膨らみ続けていた。
期待と不安と興奮が渦を巻き、場内の空気は重く、熱く、そしてどこか危険な匂いを帯びている。
一方その頃、選手控室の隅で如月はひとり静かに出番を待っていた。
壁掛け時計の針は、午後四時を示している。
研美との一戦まで――残り二時間を切った。
あと少しで、あの蒼い光の中心に立つ自分と研美が、観客全員の視線を一身に受け止めることとなる。
その事実だけが、控室の静けさの中で重く沈み込み、刻一刻と如月の内側の何かを揺らしていた。
試合までの五日間で、如月は何かを身にまとい、同時に、不要なものを一枚ずつ剥ぎ落としていった。
積み上げてきたものと捨て去ったもの。その両方が胸の奥で渦を巻き、今まさに、それらを吐き出す瞬間を待ち構えている。
研美は対戦が決まった日から、一度たりともQueen Beeには戻ってこなかった。連絡もなく、合同練習にも姿を見せず、すべてを断ち切るように沈黙していた。
そして今日、彼女は試合開始ぎりぎりまで時間を使い、ゲートが閉まるほんの十分前になって、ようやく現場に姿を現した。
その遅さはいつもの奔放な性格の断片ではなく、むしろ、徹底的に自身を追い詰めた者だけが纏う静謐さを孕んでいるようだった。
控室には観客の歓声など一切届かない。それなのに、壁の向こうの会場で渦を巻く熱気だけが、目に見えぬ圧力となって如月の肌を細かく刺す。
空気の粒子そのものが、今日の一戦を求める情念に色づき、重みを帯びてゆく。
そのざわめきを、如月は深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。自分が今から何を見せるのか――誰よりも彼女自身がいちばん理解していた。
普段なら、この静けさの中に望月が軽口を叩いて茶々を入れ、カナレが明るさと勢いで如月の背中を押してくれていたはず。
しかし、今日はその姿が誰ひとりとしてない。
彼女たちの声や、何気ないやり取り。それらがいつの間にか、試合前の張り詰めた空気をそっとほぐし、如月の緊張をほどいてくれていたのだと、今になってはっきりと実感する。
とりとめのない話題、噛み合っているのかどうかも曖昧な会話、唐突に起こる笑い声。
それらすべてが、いつの間にか如月の世界に溶け込み、当たり前の風景となり、そして何より心地良い“居場所”になっていた。
だが今、この控室にあるのは重く冷たい沈黙だけだった。
その沈黙を引き裂くように、如月の内側では別の温度がゆっくりと形を持ちはじめている。
ふと鏡に映る自分の顔を見た瞬間、如月は息を呑んだ。
そこには、いつものように仲間たちの明るさに釣られて緩む穏やかな表情がある……はずだった。
しかし、その奥底に張り付く影は、明らかに異質だった。
静かに冷えていくようでいて、どこか刃のように鋭い。
研美との一戦に向けて研ぎ澄まされ、長いあいだ押し込めていた“何か”が、皮膚の裏側を這い上がるように蠢いていた。
穏やかにも見え、同時に狂気にも支配されている。
そのふたつが拮抗し、相反する色を宿した表情は、これからリングに立つ狂戦士の顔以外の何者でもなかった。
一人で練り続け、磨き続け、肥大させてしまった異形の狂気は、自然と周囲の選手たちを遠ざけた。
近づこうとした者がわずかに怯むほどの圧が、如月の全身から滲んでいた。
如月自身も、その異質さを理解していた。
だからこそ、誰とも会話を交わすこともなく、必要最低限のメニューだけを淡々とこなす日々が続いた。
課せられた練習が終わると、導かれるように本道場を離れ、いつの間にか“住処”と化した別の道場に移動して、ただひたすらに己の身を削り続けた。
短い期間ではあった。
しかし、あの時、あの狂気渦巻く深淵へと辿り着いたという確信だけは揺るがなかった。研ぎ澄まされた気迫や精神の輪郭も、かつての自分が捨て去ったまま“あの場所”でまた拾い上げてしまった。
そして今、その呼び起こした古びた狂気が、今の研美にどこまで通用するのか。
師の遺言のような教えを破り捨て、禁じられた領域に自分から足を踏み入れた。その事実が、恐ろしくもあり、同時に底知れぬ期待を呼び覚ましてもいた。
かつての自分が戻ってきたのか、それともまったく別の何かになりかけているのか。その境界線に立つ感覚こそが、如月にはたまらなく心地よかった。
これでよかったのだ――そう言い聞かせるしかなかった。研美の狂気に対抗するには、この手段しか残されていない。
肯定する理性と、激しく拒む肉体。その相克をねじ伏せ、無理やり身にまとった狂気は、もはや仮面ではなく、自分の一部へと食い込んでいた。
気づけば、望むかたちに歪め、研ぎ澄ませてきた闘争本能が、静かに主導権を奪っている。すべてを塗り替える力が、すでに自分の内側で完成しつつあるのではないか――そんな確信めいた感覚が、いつの間にか根を張っていた。
控室の時計が、時間を溶かすように乾いた音を立てていた。
針だけが冷たく進み、空気は濁ったまま何ひとつ動かない。刻々と過ぎていく時間だけが、如月の思考を現実へ引き戻し続けていた。
そんな静寂を破るように、控室の扉がコツ、コツと叩かれた。
(……時間か……)
胸の奥で暴れ出しそうになる暴力的な感情を押し込み、呼吸を整える。
部屋の中央でひとつ姿勢を正し、動じぬよう身構えた瞬間、ドアがゆっくりと開いた。
差し込んできた影は大きく、控室の薄い光を塞ぐように立ちはだかった。
(……誰だ?)
確認というよりも、闘う相手を値踏みする時のような視線が自然と向かう。その先にいたのは研美の父。
――一之進だった。
「やあ……如月君」
声を発した一之進は、いつもの豪放磊落な調子ではなかった。どこか距離があり、よそよそしい。
しかし、それ以上に如月の肌を刺したのは、その奇妙な“違和感”だった。
一之進の気迫は、普段の比ではない。
その立ち姿は、まさに戦う気迫そのものだった。
呼吸ひとつで部屋の空気が揺らぎ、控室全体が見えない闘気で満たされていく。
まるで――この場で如月と一戦交えるために姿を現したかのように。
その圧に気づき、如月の背筋がほんの僅かに引き締まる。
だが、逃げるという選択肢は一切ない。むしろ、その圧に呼応するように、内側の“狂気”が静かに目を開き、ゆっくりと牙を覗かせていた。
如月は、研ぎ澄まされた獣のような目で一之進を睨み返す。わずかな火種があれば、そのまま飛びかかってしまいそうな殺気が、視線の奥底に潜んでいた。
――瞬間、一之進は胸の前で静かに合掌した。
その所作は、神仏の前に臨む僧侶のように厳かで、そしてどこか神々しい気配を帯びていた。
如月には、自分自身がまるで悪鬼羅刹の類であり、その姿が一之進の前で“祓われるべきもの”として重なって見える錯覚すらあった。
一之進は深く息を吸い込み、わずかに姿勢を正す。
そして――両手を大きく広げた。
パシーンッ!
鋭い柏手が、小さな控室の壁を跳ね返り、耳の奥にまで突き刺さる。
すさまじい破裂音が如月の鼓膜をじわじわと揺らし、まるで胸腔の底まで響き渡ってくるようだった。
その一撃は、ただの音ではなかった。
柏手の余韻が消えゆく中、二人はただ立ち尽くしていた。
一之進は微動だにせず、感情の色を一切見せない表情で如月を見下ろしている。その視線は鋭くも静かで、如月の内側を透かして覗き込むようだった。
対して如月は、先ほどまで全身にまとわせていた殺気が音もなく消え、荒ぶっていた内側の狂気が鎮められていくのを感じていた。
まるで、冷水を一気に浴びせられたように意識が澄み渡り、眼の奥に生気がゆっくりと戻っていく。
「……中々に生臭かったね……」
一之進が低く告げた言葉は、叱責ではなかった。
ただ事実を述べるだけの声音だった。
しかし、その一言だけで如月は胸の奥を掴まれたような感覚に襲われ、反論や弁明もできず、ただ静かにうつむいた。
自分の意気込みは間違っていない。必要なものを研ぎ澄まし、不必要なものを捨てる。
この五日間、それを狂ったように繰り返してきた。
だが――今の自分には、研ぎ澄ましたはずの刃とは別に、“濁った血糊の塊”がまだ確かに残っていた。
一之進の柏手は、その濁りを暴き出したのだ。如月は唇を噛み、息を整えようとする。それでも胸の奥がざわつき、いまだ何かが落ち着かない。
己の中の“狂気”は鍛えたはずだった。
だが、それが研美と向き合うための武器となるのか、あるいは自分自身を蝕む呪いなのか――。
今の如月には、その境目がまだ判然としなかった。
うつむいたまま、わずかに頼りなさを見せる如月の姿を見て、一之進は表情を変えぬまま静かに口を開いた。
「……如月君。少し話をしてもいいかな?……」
その声音は低く落ち着き、しかしどこかで決定的な“区切り”を告げる響きを帯びていた。
控室の空気が、柏手の余韻とは別の仕方で静かに締まっていく。
まだ時間はある。
だが一之進は、如月の内に膨れ上がっていた“過剰な何か”――先ほどまで空間を濁らせていた狂気を、一瞬で押しとどめ、言葉を投げかけたのだ。
圧倒するわけでもなく、諭すでもない。
ただ、逃げ場のない静謐な眼差しで、如月の核心へと触れにいく。
如月はゆっくりと顔を上げた。
一之進の視線は正面から彼女を捉え、まるでその闇と光の輪郭を確認するかのようだった――。
試合会場は、興奮と熱気、そしてそれとは相反するような妙な寒気に満たされていた。
熱が押し寄せ、冷気が背筋を撫でる――相反する空気がせめぎ合い、観客たちの呼吸すら不規則に乱していく。
中央のリングだけがスポットライトに照らされ、蒼い光が静かに揺らめいた。その中心へ近づくように、リングアナ・田辺がマイクを握り締める。
田辺が息を吸うわずかな気配だけで、ヘキサゴンに広がるざわめきがすっと収束した。
「これより――本日のメインイベント、BHCヘビー級シングル選手権試合を開始いたします!」
声が放たれた瞬間、会場は爆発したような大歓声に包まれた。
座席が震え、照明の骨格がわずかに揺れる。観客の喉が裂けるほどの叫びが、天井の鉄骨に反響し、波のように押し寄せてくる。
だが、その熱狂の奥――どこか底冷えするような緊張が確かに沈んでいた。
誰もが理解していた。
これから行われるのは“ただのタイトルマッチではない”ということを。




