第92話:崩落前夜
如月は廊下を歩きながら考えていた。
白い照明が足元を淡く照らし、静かな空気の中を、彼女の足音だけが一定のリズムで響いていく。その歩幅には迷いこそないが、足取りの奥には微かな重さが滲んでいた。
これから先、カナレと同部屋で過ごすのはお互いにとって良くないと。メンタルが最も重要視されるプロレスの世界において、必要以上の精神負担をなるべく少なくした方がいい。
その思考が巡るたび、胸の内側で柔らかい痛みのようなものが波紋を広げた。
特にまだデビュー間もない若手の選手がそのような状況に陥っている原因は自分にあると、本田に直訴するため社長室へと向かっている。
自分の責任を認めるという負荷が、肩先にじんと乗る。それでも如月の顔には、逃げる意思はひとかけらもなかった。
ベテランである自分が若い選手の足かせになることは避けたい。カナレに対しての配慮を考えながら如月が出した答えは、通いで団体に所属してもいいかどうかということ。
廊下の壁に沿う銀色の手すりが、ふと如月の横顔を反射し、その表情には静かな決意が浮かび上がっていた。
研美戦を終えてベルトを奪取すれば、名目上如月はロイヤルガード。その肩書きが持つ重みと責任の気配が、言葉以上の質量で胸に宿る。
若手の選手が一気に階級を飛び越えて、団体内ではクィーンに次ぐ位。そうなればある程度の優図が聞くのではないかと考えていた。
だがそれは、己を盾にしてでも環境を整えようとする覚悟でもあった。
やがて、社長室に向かう通路へと差し掛かると、奥に社長室の扉が見えた。
磨かれた木製の扉はやけに重圧的で、向こう側にいる者たちの空気が、すでに薄く滲み出しているようにも感じられた。
昔からそうだったが、何かあるたびに社長室へ行き直談判することが多かった英二。その都度社長や幹部連中と衝突しては苦渋を飲む生活が待っていたが、それは覚悟の上だった。
自ら嵐の中心へ飛び込むような行動は、英二が背負い続けた長年の習性であり、そして如月の内側に残る「英二の影」でもあった。
いつもなら慣れた勢いで押し通して、それが通らずとも納得できた。そしてその行為に対して一切の後悔はなかった。
――英二として生きてきた長い年月で身についた、強引さと潔さ。
相手が社長、幹部であろうが、拳で殴り合うような覚悟のみで臨むことに迷いはなかった。
だが、今回は違った。
自分のことのようであり、それはカナレという選手に対してのケアに相当する行為だと自分に言い聞かせていた。
守りたいものができた時の、あの胸の微妙な揺れ――如月はそれを久しく忘れていた。
それが何故か心の中で引っかかる。
理由をはっきり言語化できないまま、喉の奥に硬い小骨が刺さったような感覚だけが残り続ける。
そしてその引っ掛かりが社長室に向かう足取りを重くさせていることに如月は気が付いていたが、まるで自分に言い聞かせるように歩いて行く。
長い廊下の照明が、ひとつ、またひとつと頭上を流れ、歩調に合わせて影の形が細長く伸びては縮む。その変化が、妙に胸をざわつかせた。
いつの間にか社長室の前まで来ていた如月は、少し深呼吸をしてからドアをノックした。軽く肺に空気を送りながら、それでも胸の奥は冷たく沈んでいるようだった。
――コンコン。
重厚なドアから小気味よい音が聞こえると、中から本田の声が聞こえた。その声音はいつもと同じはずなのに、なぜか今日は冷たい刃物のように感じた。
「どうぞ」
如月はドアを開けて中に入った。
「失礼します」
中に入ると本田と斎藤が話をしていたようで、一瞬如月は出直そうかと思ったが、本田から呼び止められるように声をかけられた。
社長室の空気は独特の静寂を帯びており、まるでそこだけ気圧が変わったように肺の奥がわずかに重くなった。
「要件は?」
いつものような仕事モードの口調が、やけに心をざわつかせ、やりずらそうな雰囲気を醸し出していた。
普段なら淡々と流せるはずのその声が、今日は奇妙に距離を感じさせる。
本田はいつものように机に向かって両肘をつきながら座っている。机の前では斎藤が如月を見ていた。
その視線は探るようでもあり、突き放すようでもあり、何か普段の斎藤とは微妙に違って見えた。
(……あれ?)
如月は少し違和感を感じた。
斎藤の髪が少し乱れ、額には汗が浮かんでいた。呼吸も少し整っていないようで、胸と背中が小刻みに隆起している。
普段の斎藤なら絶対に見せない乱れ。ちょっとした呼吸の荒さでさえ、異様に目につく。
まるでトレーニングでも終えてすぐさま社長室に来たようにも見えたが、特に気にすることなく、本田に自分の考えている意見を率直に述べた。
しかし如月の中では、さきほどの“違和感”が薄い霧のようにまとわりつき、言葉のすべてが胸の裏側に微かなざらつきを残していく。
喉の奥が乾き、声を出すたびに感情の輪郭だけがじわじわと滲んでいくようだった。
その間、斎藤は腕を組みながら目を閉じて、ただ黙って聞いているだけで何も言わなかったが、それが逆に不安を掻き立てる。
閉じた瞼の奥で何かを押し殺しているような気配――それが本来の斎藤らしくなく、胸の奥でざわつきが広がる。
本田は微動だにせず目線を合わせることなく淡々と如月の意見を聞いているだけで、その表情からは何を考えているのか読めなかった。
まるで感情を押し込めた仮面でも装着しているかのような静けさが、逆に異様だった。
(……なんで俺がこんなに緊張してるんだ……)
心の中で自嘲ぎみに呟いたが、その疑問は胸の奥の重苦しさをますます濃くするだけだった。
そして、如月が言い終えると、本田と斎藤は同時に軽くため息のような息を吐いた。
その音はわずかなものであったが、部屋の空気を一気に冷たくするには十分だった。
ほんの一瞬の静寂が、妙に如月の心を締め付ける。まるで世界から音が消えたかのように、鼓動の音だけが耳の奥で大きく響く。
本田は顔を上げて如月の目を見ながら答えるが、その顔はいつものような飄々としたポーカーフェイスではなく、怒りというより憤りに近い表情だった。
その淡々とした外見の奥底に、熱が押し込められているのが痛いほど伝わってきた。
そして、いつもより少しトーンが低い声で如月に言った。
「却下です……以上……」
短い。だがその言葉には、まるで刃のような冷ややかさが宿っていた。
本田はそれ以上何も言わず如月から目線を外すと、そのまま定位置へと戻し静かに頭を下げた。
その動作が妙に淡泊で、突き放すようで、胸の奥で何かがひりついた。
すると今度は横にいた斎藤が腕を組んだまま如月を睨みつけるように答えた。その声はどこか震えているようにも感じられた。
「……ベルトを奪取して一人暮らしか……随分と安く見られたな。うちのタイトルも」
静かに投げつけられたその一言は、怒りよりも失望の色を濃く含んでいた。
斎藤は言葉を言い終えると、そのままじりじりと如月に詰め寄っていく。如月は、いつもの雰囲気とは違う斎藤の目がどうも気になった。
怒りというより、悲しみが先に立つような、わずかな目の光が軌道を残した瞬間。その揺らぎは、斎藤自身が何かを押し殺している証拠のようにも感じられた。
バシーンッ!
斎藤のビンタが如月の頬を貫くと、その勢いで壁際まで吹き飛ばされた。
乾いた衝撃音が社長室の壁に反響し、その残響が部屋の空気をぴんと張りつめさせた。
そんな状況下でも、本田は一切微動だにせず、ただ状況を精査するような表情で見ていた。斎藤は真逆で、怒りに震えながら、倒れる如月を見下ろしながら拳を握り締めていた。
二人の対比が、この一瞬の異様さをより強く浮き彫りにしていた。
「何すんだ!コノヤロウ!」
如月のドスの聞いた声が社長室に広がる。声の振動が空気を叩き、重々しい静寂に亀裂を入れた。
如月はすぐに立ち上がると、斎藤に突進するように歩を進めると、お互いの額がぶつかる勢いで斎藤に顔を近づけた。
床板を踏み鳴らす重い足音が、荒れた呼吸とは別の意味で空気を震わせる。
火花が散るような至近距離。
その火花は比喩ではなく、本当に二人の視線のぶつかる位置で空気が裂けるような感覚さえ走った。
息と怒気がぶつかり合うその瞬間、社長室の中の空気は完全に戦いの場へと変貌していった。
空調の唸りさえ消え失せ、室内は二人の呼吸音だけで満たされる。
一触即発のこの状況。普段なら世話焼きの望月や島村が止めに入るが、いま彼女たちはここにはいない。
その不在が、いつも以上に殺気を濃くする。
本田も如月に顔を向けることもせず、何も言わない。
静観しているのか、敢えて放置しているのか――その曖昧さが逆に恐ろしく思えた。
如月は斎藤をにらみつけるが、全く動じない。それどころか徐々に斎藤から発せられる異様なプレッシャーが瞬く間に社長室を飲み込んでいくのが、全身で感じ取れた。
絵に描いたような“怒り”ではなく、もっと冷たくて深い、底知れない圧。まるで荒天の前兆が一人の人間から生まれているかのようだった。
すると斎藤は、両手で如月を押しのけるとそのまま言い捨てた。
「貴様のような乳臭い小娘がベルトを奪取するだと?」
言葉の端々に混ざる嘲りと苛立ち。その声は鋭く、刃のように鋭く耳に突き刺さる。
怒りと笑顔の中間のような迫力のある目つきで如月を見据えるが、如月本人も怒り心頭で今にでも飛び掛かるような姿勢だった。
ただ、そこにはいつものような冷静さはなかった。
野に放たれた野生の獣。その生々しい匂いが全身から噴き出しているようだった。肩越しの筋肉が緊張で張りつめ、拳を握る手はわずかに震えていた。
しかし、斎藤はそのような気迫に臆することなく、まるで無価値なモノを見据えるような冷え切った目で淡々と答えた。
「パートナーとロクに連携もとれないレスラーが何をほざく」
その言葉に図星を突かれて、一瞬如月の表情が硬直したが、すぐさま戦闘態勢に入る。胸の奥がざわりと逆立ち、熱い血が一気に全身を駆け巡る。
凄む相手が違うだろうとでも言いたそうな表情で、如月を冷めた目で見ながら、少し間を置いてから答えた。
「……カナレは……辞めるそうだぞ」
まるで何かを吹っ切るような、斎藤には似つかわしくない捨てセリフだった。語尾にわずかな震えが混じり、それが余計に刺さる。
「えっ?」
斎藤の言葉に如月は瞬間的に我に返った。怒りの熱が一気に冷水を浴びせられたように揺らぎ、視界が一瞬だけぼやける。
カナレが辞める。その意味を理解するまで少しだけ時間がかかった。
耳鳴りが遠ざかり、世界が急激に静寂へと沈む。
その言葉が、胸の底にゆっくりと沈み込んでいった。
――如月が社長室に行く15分前。
スパーリング専用の道場に斎藤の怒号が響き渡る。鉄骨むき出しの天井にその声が跳ね返り、まるで雷のように空間を揺らした。
「さっさと立て!」
カナレと斎藤がスパーリングをしているようで、カナレはすでにボロボロだった。それはスパーリングとは呼べない一方的なシゴキのようにも見えた。
足元には汗が散り、マットの縫い目に沿って滴が震えていた。
バーン!
マットに何度も叩きつけられる音が生々しく、リングサイドで見守る望月たちの耳に届くたび、体がすくむようだった。
その反響は、鼓膜というより心臓そのものを殴りつけるような衝撃だった。
「さっさと立てって言ってるだろ!」
斎藤はカナレのツインテールの片方を無造作につかみ上げた。無理やり立たされたカナレの顔は痛みに耐えながら引きつっていた。
瞳の奥には涙が滲み、しかし涙がこぼれ落ちる隙すら与えられない。
「ちょっと、やりすぎなんじゃない!?」
望月がSAKEBIの袖を引っ張りながら必死の形相で伝えるが、SAKEBIも少し震えながら何も言えないでいる。
背中に冷や汗がつっと流れ、口を開こうとしても喉が固く閉ざされる。
その震えはSAKEBIだけのものではなく、袖をつかむ望月も微かに震えていた。理性では止めに入りたいのに、体が恐れで縫いつけられたように動か情ない。
斎藤に無理やり連れてこられたカナレは問答無用にリングに上がらされた。そこから始まったのは、一切の情を捨てた鬼の 荒事だった。
厳しいくてもどこか情がある。そんな指導者としての斎藤の影はそこには一欠片もなかった。
なぜこんなことをするのかと疑問に思う島村は、両拳を握り締めながらリングの二人を見ている。
拳の爪が掌に食い込み、じんと痛む。しかしその痛みさえ、自分を現実に引き留めるための必死の抵抗のようだった。
「うぅ……」
痛みに耐えながらカナレは斎藤を見上げた。その顔はいつもの斎藤の顔ではなかった。
厳しく選手たちを管理する傍ら、練習が終わると選手たちのケアを欠かせない。理不尽なシゴキは絶対にしない斎藤。
だからこそ、目の前の“斎藤”は異様で、恐ろしく、理解できなかった。
カナレの前に対峙する斎藤は、まさに鬼の形相。
まるで資料室で見た研美のような殺意を纏っているような、つけ入るすきもない表情で、カナレの髪を掴んだまま無造作に投げ捨てた。
空気ごと振り回されるようなその動きに、カナレの体は軽い人形のように宙を切った。
とっさに受け身を取るカナレだったが、斎藤は躊躇なく腹部に足裏を押し付けた。
「ぐっ……!」
斎藤の体重がカナレの顔に乗るたび悲痛なうめき声をあげる。靴底のラバーの溝が皮膚に押しつけられ、痛みが電流のように脳まで走る。
しかし斎藤は一切の加減をしない。それどころか更に体重を乗せて、煙草の吸殻を踏み消すようにグリグリと追撃する。
リング下の三人はその度に肩をすくめ、呼吸を忘れる。
「がぁっ……」
カナレは必死に抵抗しながら斎藤の足首を持って引き離そうとするが、全く斎藤の足は微動だにしなかった。
力ではなく“意志”で押さえつけられているような圧だった。
「いつものバカ力はどうした!」
抵抗するカナレを容赦なく追撃する斎藤の姿を、リング下の三人はどうすることもできずにいた。
ただその場で硬直したまま、目の前の惨状を見ていることしかできなかった。
喉の奥がひりつき、涙がにじむのに、声は一切出ない。
「痛い……痛いよ……」
リングからすすり泣く声が聞こえ始めた。
カナレは目に涙を浮かべながら泣いていた。痛みによるものなのか、信じてきた斎藤のシゴキに耐えられなかったのか、それは誰にもわからなかった。
その泣き声は、場違いなほど幼く、切なかった。
すると斎藤の表情はふっといつもの表情に戻ると、カナレの腹部から足を退けてカナレを見下ろしていた。
先ほどまでの鬼気が霧散し、そこにはどこか哀しみを帯びた、人間の斎藤が戻っていた。
マットの上にうずくまりながら泣きじゃくるカナレからは、普段の勇猛果敢な威勢はなく、頼りなく、普通の少女にしか見えなかった。
斎藤はそんなカナレを見下ろしている。その顔は悲しさと怒りが交互するようであり、見ている側にも痛々しく伝わっていた。
自分を責めているのか、カナレを叱っているのか、その境界が見えない。
「カナレ……お前は優しすぎる」
斎藤がぽつりとつぶやく。その声はリングに落とされたひと時の癒しのしずくのようにも感じ取れた。
先ほどの怒号とは全く違う、乾ききった声だった。
「強さというものは力だけではない、時には精神力がものを言う」
リング下で見守る望月たちは斎藤の言葉に耳を傾けながら、マットで泣きじゃくるカナレを心配そうに見ていた。
皆、胸の奥が締め付けられ、代わりに息をするのもつらかった。
「何があったかは知らんが、パートナーである如月を支えてやることがお前の……」
「もういい!」
斎藤の言葉を遮るようにカナレが大きな声を上げ、リングの静寂を振り払った。その瞬間、空気が変わり、三人の背筋まで震えが走った。
カナレはそのまま涙をぬぐいながら立ち上がると、斎藤の顔を見ながら言い放った。
「もういい……もう戦いたくない……」
カナレの言葉に全員が言葉を失った。対峙する斎藤の顔も、思いがけない言葉をどう受け止めていいのかわからないと言った表情だったが、すぐに顔はいつもの厳しい表情になり、そのままリングを降りた。
そして何も言わず道場から出ていった。扉が閉まる音だけが妙に重く、残響が胸の奥に沈んでいく。
リング中央で立ち尽くしながら涙をこらえるのがやっとだった。リングの下では現状を理解できない三人が、ただリングに立つカナレを見ているだけだった。
窓から入る日差しがカナレを照らすが、その引きずるような影が、何かを暗示しているように見えた。
光に照らされているのに、その影はどこまでも長く、どこまでも寂しかった。




