第91話:空白の三日間
Queen Beeの選手たちは練習を終えて、少し遅めの昼食を取っている。
しかし、今日に限っては静まり返った雰囲気で、全員元気がないようだった。
普段ならカナレや望月の明るい声が響き渡る食堂。いつもは活気を満たしている空気が、今日はどこか冷え込んでいて、椅子のきしむ音すら大きく感じられるほどだった。
カナレや望月たちは食事の合間の談笑を交えることなく、ただ黙々と食事をしているだけで、かすかに聞こえる食器などの音も元気がないようだった。
スプーンが皿をかすめるわずかな音さえ、沈んだ水面に落ちる小石のように静けさを強調している。
そんなカナレ達の輪には如月はいなかった。
如月は食堂にはいない。カナレの横、その空席は、ぽっかりと穴が開いたように寂しく、そこにあったはずの温もりさえ忘れられたかのように冷たかった。
如月は施設内にあるコンビニで簡単な軽食を購入して自室で食べているようで。それが今日で三日目。
皆カナレと如月の間に何かあったのかと気が付いているようで、互いに様子をうかがいながら気を使っているようだった。
その空気は、誰も言葉にはしないが、テーブルの上に薄い霧のように漂っており、みな視線を交わすたびに気まずそうに目を逸らしていた。
いつもの指定席で食事をしている本田の顔もどこか元気のない様子で、何か物足りないような表情で湯呑を持ったまま。
そのまなざしはぼんやりと宙をさまよい、湯気の向こうにある“何か足りない日常”を探しているようだった。
湯呑を口元へ運ぶ仕草はゆっくりで、表情の奥には“いつもと違う日常”を見極めようとする慎重さが滲んでいた。
食堂の責任者である涼子も普段より皆食事の量が少なくなっていることと、如月が食べに来ないことが気になっている様子。
いつものような笑顔は少なく、淡々と仕事をこなしているようだった。
カウンターで器を拭く手つきはいつも通り丁寧だが、ふとした瞬間に遠くを見るような視線が落ち、彼女の胸の内にも不安が広がっていることがうかがえる。
食器に映り込む自分の顔を一瞬見つめるたび、そこに映る陰りが気になり、静かに息を吐くような仕草を見せた。
そんなとき、カナレが口を開いた。
「なぁ……」
元気のない声。普段の食堂なら喧騒でかき消されてしまうであろう力のない声は、広い食堂の隅から隅まで響き渡るようだった。
その声は、静けさの中に落とされた小石のように、広がっていく空気の揺れを誰も無視できなかった。
「何?」
「何ッスか?」
その重苦しい雰囲気の場に耐えきれなかった望月とSAKEBIがタイミングよく声をはじいた。お互いに目を合わせながら恥ずかしそうにしていると、島村が代わりに答えた。
「如月さん来ないですね……」
島村の言葉に誰も答えることができなかった。本当なら相槌でも打てばいいのに、それさへもはばかられるような雰囲気に押されて何もできないでいた。
「カナレ」
背後からカナレを呼ぶ声が聞こえた。楓だった。
普段は時間を気にせず好きなように食べている彼女だったが、食事を済ませて手には空になった食器類のトレイを持ってカナレ達のところに来た。
いつもより早く食事を切り上げたその姿に、彼女自身もこの異様な空気に気づいているのがはっきりとうかがえた。
「あんたどうしたの?」
楓の言葉に誰も答えることなく箸を置いた。その仕草に、何か良くない流れがQueen Beeの中でうごめいていることは誰もが感じていた。
箸が静かに皿へと落ちる音が、妙に大きく響き、張りつめた空気にひびを入れるように思えた。
広がる静寂は、雷が落ちる前の空気のように重く張りつめ、言葉を発した者が何かを壊してしまうのではと錯覚するほどだった。
誰もが呼吸を浅くし、音を立てまいと身じろぎすら控えている。まるで透明な膜に包まれたような息苦しさが、テーブルの上にまとわりついていた。
まるで説教されているようなカナレ達の表情に、楓もどう切り出していいかこまねいていると、楓の後ろを本田が通っていった。
特に咎めるわけでもないし、慰めるわけでもない、ただ見守る態度が、歩くたびに聞こえるヒールの音に表れているようだった。
コツ、コツ、と落ち着いた歩調の音が、食堂の空虚な空気を整えるように響き、彼女の背中が語らずとも状況を察していることを示していた。
本田は振り返ることなく、トレイを返却して調理場の涼子を見て「ごちそうさま」とだけ言って食堂を後にした。
その短い言葉には、必要以上の詮索をしないという静かな気遣いがにじんでいた。
「ふぅ……まぁ、タッグってのは色々と難しいところがあるから、あんまり考え込むんじゃないよ」
楓は言い終えると、先ほどの本田のようにトレイを返却して涼子に「ごちそうさま」と言って食堂を出ていった。
彼女のため息には、状況を無理に動かそうとせず、ただ寄り添おうとするような柔らかい響きがあった。
残されたカナレは置いた箸を取り、また黙々と食事を始めた。ただ咀嚼する音だけが、広い食堂の空気に小さな波紋を立てている。
何とも言いようのない緊張感が食堂の空気を重くしているようで、時折涼子がカナレ達の方を見るが何も言わず、自分の仕事をテキパキとこなしているだけだった。
しかし、その視線の端には“心配”という名の柔らかい影が揺れ、彼女なりの気遣いが静かに漂っていた。
食事を終えたカナレ達は、ロビーに行くこともなく自分たちの部屋へ帰っていく。普段なら誰かがロビーのソファに腰を下ろし、他愛もない話が始まるはずなのに、今日はその気配すらなかった。
SAKEBIとは反対方向の望月たちは「じゃあまた本道場で……」と言って自分たちの部屋に帰っていくが、望月たちの隣に住むカナレは同じ方向へは行かなかった。
その足取りは重く、まるで何かを避けるように進路を変えたように見えた。
「また今日も戻らないッスか?」
SAKEBIが尋ねるが、カナレは答えることができずただうつむいたままでSAKEBIと一緒の方向へと歩いて行く。
喉まで込み上げる言葉はあるのに、それを音にする勇気だけがどこかに落ちてしまったようだった。
ため息をはきながら、複雑な表情で天井を見ながら歩いていると、また後ろから声が聞こえた。
「カナレ!」
威勢のいい声が心臓を少しだけ震えさせた。
後ろを向くとそこには斎藤がいた。背筋を伸ばし自信に満ち溢れた佇まいでカナレの方へと歩いてくる。
その姿は廊下の空気ごと切り裂くようで、沈んだ空気の中でひときわ目立っていた。
靴音ひとつ響くたび、張りつめた空気が押しのけられ、まるで彼女が通る場所だけ世界が色を取り戻していくようだった。
カナレはそんな斎藤とは対照的で、うつむいたままで斎藤を見ようともしなかった。視線を上げることすら、今のカナレには重荷だった。
「なんだその覇気のない顔は!」
気合の権化のような斎藤の言葉で、横にいるSAKEBIも息を飲むがカナレはあまり反応を見せることなく表情を変えなかった。
斎藤の声は鋭く廊下に響き、壁に当たって跳ね返るような勢いがあったが、それでもカナレの目はわずかに揺れるだけだった。
どれだけ強い声がぶつかってきても、まるで布団を頭からかぶっているかのように、外界の刺激が心に届かない。
耳には届いているはずなのに、脳まで届かずに弾かれていくような鈍い感覚だけが残っていた。
そんなカナレの態度に業を煮やしたのか、カナレの手首を強引につかむとそのまま引きずるように連れて行く。
斎藤の手は容赦なく、鍛えられた握力がそのまま感情の強さとなって伝わる。逃げる隙すら与えない勢いだった。
「痛い!なにするんだよ!」
抗議の声を上げても、斎藤は振り返らず、ただ一直線に前だけを見て歩き続ける。彼女の決意だけが廊下を切り裂き、カナレはその後を引きずられるように運ばれていった。
その背中には迷いが一片もなく、まるで“引き戻すべき理由”をはっきりと見据えている者の歩みだった。
カナレは抵抗するが斎藤は何も答えぬままそのまま階段を下りて行く。
斎藤の足音と、カナレの足音が廊下に乱れながら響き、二人の影が壁を揺らした。
そんな様子を階段の踊り場に差し込む薄い照明が、揺れる影を大きく引き伸ばし、逃げられない現実のように二人の足元にまとわりつく。
強引な斎藤の行動で、あっけにとられていると望月たちがカナレの声に気が付いたのか、斎藤の後を追っていった。
目を丸くしながら互いに顔を見合わせ、足早に走り出す。驚きよりも「これはただ事じゃない」という直感が全身を突き動かした。
「あ~っ!もぅ!」
SAKEBIは髪の毛をかきむしりながら叫び、そのままカナレの後を追っていった。その声には苛立ちよりも心配の色が濃く、彼女なりにどうにかしたいという焦りが滲んでいた。
普段の軽口とは違う、少し震えの混じった声が、胸の奥に広がる不安を隠しきれていなかった。
如月とカナレの部屋。
ついさっきまで食堂にあったざらついた空気とは対照的に、この部屋は静かだった。日中の薄い光がカーテン越しに差し込み、空気の温度までひんやりと感じられる。
人の気配が途絶えた空間は、時間の流れさえ緩やかにしてしまう。
如月は簡単に食事を済ませてベットで横になっている。枕元に置かれた空のパック飲料が、一人で過ごした時間の長さを物語っていた。
横たわった背中には、身体の疲れよりも心の重さがのしかかっていた。
この三日間、カナレのいない部屋で今後のことを考えていた。自分の今後のことや、体の持ち主である如月のこと。
そして、対戦相手である研美のこと。
今までにも試合に臨む前のプレッシャーは数えきれないほど浴びてきた。
しかし、今回ばかりは少し勝手が違っていた。資料室で見た研美の凄惨な試合内容が頭から離れなかった。
映像を再生したときの冷たい光、その中で揺れる研美の異様な動きが、まぶたの裏側で何度も勝手に蘇る。
首の後ろがぞくりとするほど、あの“狂気すれすれの眼差し”が鮮明に記憶を押し返す。
ただ見ただけのはずなのに、その眼差しが自分の内側まで侵入してくるような感覚があり、思考の芯を揺らされる。まるで、獲物として値踏みされている錯覚さえ覚えるほどだった。
恐怖ではなかった。それよりも高揚感が強くなっていることに如月は気が付いていた。
闘争本能がこれほど刺激されたのは何年振りか、思い返しても古い記憶でその映像は霧がかかっている。
記憶の奥に沈んだ、鋭く冷たい感触だけがわずかに残り、今、その霞んだ輪郭がゆっくりと蘇ろうとしていた。
胸の奥でざわつく熱は、感情というより本能に近く、身体の奥底からせり上がってくるようだった。
呼吸をひとつするたびに、熱が血流に乗って全身を巡るような錯覚さえ覚える。自分で制御できるのか、その境界線が曖昧になっていく。
拳を握れば、そこから火花が散りそうなほどの緊張感が走る。意識とは別の場所で筋肉が鳴り、臨戦態勢へと勝手に向かっていく。理性の手綱が、じわりと緩んでいくのがわかった。
もし恐怖を感じるとするなら、自分のタガが外れ、研美と同じ領域での試合とは言えないただの殺し合いとなるのではないかと。
そして、その領域での闘争をカナレに見られることが一番の恐怖だと如月は考えていた。
人としての境界を越えた瞬間、カナレの瞳に自分はどう映るのか──その想像だけで、胃の奥がゆっくりと冷えていく。
暴れ出すかもしれない自分より、それを目撃して怯えるカナレの顔を想像する方が何倍も怖い。胸が締め付けられるように痛む。
カナレの大きな瞳が揺れ、後ずさる姿。それが頭に浮かぶたび、胸の内側に鋭い痛みが走った。
その痛みは一瞬ではなく、波のように遅れてじわりと広がり、心臓の奥を掴まれるようだった。
自分はこれからどうすればいいのか。毎日自問自答する日々。答えのない思考を反芻するだけで、前に進むことはできない。
問いを投げても返ってくるのは自分の声だけで、次第にその声すら霞んでいく。
モノクロの天井を見上げても、返ってくるのは沈黙ばかり。部屋の静けさが、思考の袋小路をさらに深くしていくようだった。
静寂は優しさではなく、逃げ場のない現実を突きつける冷たい壁のように感じられた。
天井の模様をただ追ってみても、思考はぐるりと同じ場所に戻ってきてしまう。行き場のない焦燥だけが体内に蓄積されていく。
胸の奥でざわつくその焦燥は、息と一緒に外へ吐き出そうとしても逃げてくれず、むしろ呼吸のたびに濃くなっていく。
だが、体はその闘争の血なまぐさい匂いを察知しているかのように張りがあり、そしていつも以上に答えの出ない問題を消化するかの如く練習メニューを淡々と繰り返す。
まるで身体だけが「進め」と命じ、心がそれに引きずられているようだった。筋肉の奥で、獣のような熱がわずかにうごめく。
しかし、なぜかカナレの悲しい表情が頭の中から離れずにいる自分が情けなかった。
あの下がった眉、震えるようなまなざし――思い返すたび胸の奥に、鋭くも細い棘が刺さったまま動けなくなる。
どれほど強くなろうと、結局心の中心にいるのはあの寂しげな視線。それを思い出すだけで、熱が急に冷めていく自分がいた。
闘争の炎がどれだけ燃え上がろうと、彼女の表情ひとつで簡単に鎮火してしまう。その事実が悔しくて、苦しくて、どうしようもないほど自分を締めつけた。
(……とりあえず、今できることだけをやろう)
その小さな決意が胸のどこかで形になると、如月はベットからゆっくりと身を起こし、立ち上がった。
そして、部屋を出てどこかへと出かけて行った。
足取りは重いはずなのに、どこか焦燥に押されるように早かった。部屋のドアが静かに閉まる音だけが、残された空気をさらに静寂へと沈めていく。
かすかな揺れすら消え、誰もいない部屋には、彼女の未消化の感情だけが薄く滞留しているようだった。




