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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第90話:湾岸交差

 午後8時、如月とカナレの部屋。


 外の廊下から漏れ込むわずかな空調音が、閉ざされた静寂の中で薄く震えている。


 薄暗い天井灯の明かりが、ふたつ並んだベッドの輪郭をわずかに照らしていた。


 光は柔らかく広がりながらも、どこか冷えた印象を与え、室内の温度を実際よりも低く感じさせた。


 その静かな光の中で、部屋には如月一人ベットの上で足を組みながら静かに横になっている。


 ベッドのスプリングが、体重のわずかな移動に合わせて微かに沈み込み、落ち着かない夜の気配だけが漂っていた。


 部屋には如月一人、隣のカナレのベッドは主の不在だけの空気を残し、ひっそりと掛け布団が整えられたまま置かれている。


 整いすぎた掛け布団の曲線は、持ち主の気配を完全に奪われたまま、どこか冷たく沈黙していた。


 普段からカナレが使用している小物、ポーチ、タオル、日記帳――それらが一切見当たらないだけで、空気がこんなにも乾いて見えるのか、と感じるほどだった。


 部屋に帰るとき、ドアの前で望月が待っていた。話は。カナレのことで今SAKEBIの部屋に居候させてもらっているという要件だった。


 望月の顔はどこか慎重で、言葉を選んでいたのだろう。彼女の足元には、落ち着きなく動いた気配だけが廊下の静けさに残っていた。


 如月は「わかった」と望月に言っただけで、望月の方が何言いたげではあったが、振り払うように部屋に入った。


 その気配の余韻だけが廊下に取り残され、閉じたドアの向こうからも微かに漂ってくるようだった。


 望月の「言わなかった言葉」が、しばらく耳にまとわりつき残る。


 いつものようなにぎやかな雰囲気は息をひそめているような空間。


 カナレの笑い声も、荷物を投げる音も、無邪気な足音も――何ひとつ残っていない。


 空気は妙に澄んでいて、沈黙が部屋の隅に積もっていく。


 まるで空調すら遠慮して息を潜めているような、薄膜のような静けさだった。


 冷えた天井灯の光が、微動だにしない家具を淡く照らし、その影がより部屋の静寂を深く見せていた。


 押し返すような気配のない静けさが、逆に心の奥をじわりと圧迫していくようだった。


 その重さは重厚で、ただ存在し続ける“無音”の塊のように胸の中へ落ちていく。


 まるで強要されているような静音の侵略が、鼓膜に聞きなれない騒音を感じながら如月は天井を見つめ考えていた。


 聞こえるはずのない微かな物音――床材の伸縮、誰かの気配の残滓、それらがすべて錯覚として耳に押し寄せてくる。


 静かさの中で、逆に心がざわめき、雑音が生まれる不思議な時間だった。


(……嫌われちまったな……)


 その小さな独白が、胸の底に重たく沈む。


 言葉にした瞬間、痛みが形を持ち、そこから逃げられなくなっていくような感覚があった。


 資料室の件が引き金になったのか、カナレとの間に一筋の亀裂が生じた。思い返すほどに、あの瞬間の温度や空気の張りつきを、やけに鮮明に思い出してしまう。


 元々一人でいることを好んでいた英二。IWAに所属していた時も、所属選手であるにも関わらず、正規軍やヒールユニットとは徒党を組むことなく、独自の観点だけで自由気ままに動いていた。


 その頃は、それで何の問題もなかった。自分の世界、リング、鍛錬、闘い――それだけあれば十分だった。


 孤独になれてはいたが、こちらの世界に来て新しい仲間と共に過ごすうちに、その日常がない今、肌を刺激する。


 “寂しさ”という感情が、久しぶりに輪郭を持ち始める。かつて捨て去った感覚が、静かに胸をなぞっていく。


 だが、如月の頭の中にあるモノ、それはBHCシングル王座、鈴木研美の対戦しかなかった。


 その一戦は、日常すら飲み込むほどの重みと緊張を帯びて迫っている。


 それは、これまで生きてきた中で一番の試合と同時に、最も身を削る試合だと長年の経験で感じていた。


 近づけば近づくほど、精神の表面が剥がれていくような、そんな張りつめた予感が体を満たす。


 だからこそ、心の隙間のようなものがやけに疼いてしまう。


 勝負が近づくほど、人との距離が遠くなる――そんな自分の癖すら、今はやけに身にしみた。


 そんな緊張感が今のこの部屋の状況を演出しているのではないかと如月は考えたが、すぐ試合のことで頭がいっぱいになる。


 研美の姿、動き、気配――想像するだけで胸の内側がざらつき、呼吸のリズムさえ乱される。


 いったん試合の思考の波が押し寄せれば、他の感情はすべてその波の下に沈んでしまう。


 少し腹が減る。考えてみると今日はOFF日。食堂も休みで、この日に限って選手たちは個人で食事をとるのが日課。


 外食か、自分で作って好きな物を食べるしかない。


 そのどちらも、今の如月には選択するだけでエネルギーを使う。


 食べたいものを思い浮かべようとしても、次の瞬間には研美の姿が割り込んでくる。腹の減りより、精神の張り詰めが勝っていた。


 部屋の外では轟々と風が鳴り響いている。普段以上、耳につく音が空きっ腹に妙にひびく。如月はベットから立ち上がると、少し間を置いてからスリッパを履き部屋から出た。


 スリッパを履く瞬間のわずかな擦れる音ですら、静まり返ったフロアにはやけに大きく響いた。


 ドアノブに触れた指先から感じる冷たさが、これから向かう夜の空気を予告しているようだった。


「あっ!」


 ドアが開いた瞬間、まさに開口一番、聞きなれた声が外の方から聞こえた。驚きと戸惑いが同時に混ざったような、妙に柔らかい声色だった。


 ドアから少し離れた位置でカナレが立っていた。


 ツインテールをほどいた長く整えられた金髪が照明で煌びやかに映える。


 カナレは何か言いかけて固まっている。手の位置も視線の揺らぎも、まるでその場に置き忘れられた感情を拾い上げようと迷っているようだった。


 呆然とするカナレをよそに如月は普段通りに声をかける。


「よう」


 するとカナレも同じように「うん……」と返事を返すがどこか元気がなさそうだった。


 その声の湿り気が、逆に胸をざわつかせる。


 ほんの少し言い淀む間が、二人の間に生まれた見えない距離をはっきりと物語っていた。


 如月はそのままロビーの方へ降りる階段に向かって歩いて行くがカナレが付いてくる気配はなかった。


 背中に視線のようなものを感じるが、振り返ることはなかった。


 振り返る勇気がなかったのか、それとも振り返ってしまえば何かが決壊してしまいそうだったのか――自分でも判断がつかない。


 忘れ物でもして、部屋に入りづらくて外で迷っていたのかもしれない――如月はそう受け取り、しばらく自分が部屋を空けたほうがいいと判断して正面玄関へと向かった。


 ほんの小さな気遣いのつもりだったが、胸の奥で響く鈍い痛みが、その“つもり”が自分自身への逃避でもあることを薄々気づかせていた。


 歩き出した瞬間、足取りが微かに重くなる。その重さは疲労ではなく、心のどこかに引っかかった小骨のような感覚だった。


 ベテラン勢以外は門限が午後9時と決まっているので、時間厳守の行動をとらなくてはいけない。時間を過ぎるとカードキーが反応しなくなり、施設への入場はできなくなる。


 その規律の厳しさが、この施設の“修練の場”としての顔を思い出させる。まるで外界と内側をはっきり隔てる境界線のように感じられた。


 施設から離れた場所にある中央ゲートの方へ歩いて行く。


 頭上の外灯が等間隔に薄緑の光を落とし、足音だけがむしろ強調されるように響く。


 昼間とはまったく違う表情を見せる施設の外周に、如月は一瞬、自分が別世界の境界を歩いているような錯覚を覚えた。


 外の風は中から感じるよりも強く、そして厳しかった。叩きつけるように吹きつけ、肌に触れた瞬間、温度と湿気の違いがはっきりとわかる。


 気候の影響か、妙に生暖かく体にこたえる。


 空気がぬるりとまとわりつき、息を吸うだけで胸の奥にじんわりと重さが溜まっていくようだった。


 前から押されたり、後ろから押し返される断続的で強く、まるで意思を持っているかのような風が如月の神経を逆なでる。


 あまりにも不規則な風に、歩調がわずかに乱れ、そのたびに心のざわめきが呼び起こされる。


 中央ゲートの手前で、詰所に灯るオレンジ色の光が揺れる。


 その温かな色だけが、闇夜に支配された世界で唯一の“人の気配”を感じさせる灯火に見えた。近づくにつれ、詰所の中にいる守衛がこちらに気づき、椅子を引く音がした。


 如月が軽く会釈すると、守衛は慌てたように立ち上がり、直立不動で返礼した。


「ど、どうも……!え、えっと……お疲れさまです!」


 ぎこちなく裏返りそうな声。


 喉の乾きすら聞こえてきそうなほどの緊張感。その反応に、如月の足はほんのわずか止まりそうになった。


 この施設で如月を知らぬ者はいない。怪物級の練習量、圧倒的な成果、そして次期挑戦者。


 守衛は明らかに浮足立っていたが、如月は何も言わず、ただ軽く会釈をするだけで静かに通り過ぎた。


 ――こういう反応にも、まだ慣れない。


 自分が近づくたびに人の態度が変わる。


 それが“実力の証”であると理解していても、どこか気まずさのようなものが残ってしまう。


 ゲートを抜けた瞬間、夜気の熱が体にまとわりつく。


 施設内の空調とはまったく違う、荒っぽい温度の塊が全身に貼りつくようだった。自然と深いため息が漏れた。


(……自分の足で外に出るの、初めてだな)


 普段、外の景色を見るのは、施設の周囲をランニングするときだけ。生活のすべては施設内で完結していた。


 食事、練習、治療、睡眠、移動のほとんどが屋内。外の世界に“出る”という行為そのものを、忘れてしまいそうな日々だった。


 その“忘れかけていた感覚”が、今は妙に新鮮で、どこか心細かった。


 だから――外の空気は、どこか、まだ見ぬ街角の香りがした。


 湿気と潮気が入り混じり、夜の熱で押しつぶされそうになる独特の匂い。肌の上にまとわりつくその空気が、如月には“自分の場所ではない”と告げているように思えた。


 風は容赦なく背中を押し、次の瞬間には急に引き戻される。意思を持つかのような力強さが、如月の神経を苛立たせる。


 そのたびにシャツの背が吸い付くように張り付いて、不快な汗の感覚を運んできた。


 周囲に広がるのは、関東湾岸エリア特有の、巨大な影のような倉庫街と、点在する工場の赤い警告灯。


 その無機質な構造物の隙間に、従業員用と思われる企業ビルがいくつか並び、明かりのついた窓がぽつりぽつりと浮かんでいた。


 煌々と光るわけではないが、エアコンの低い唸りが、ビルの内部にまだ“人の活動の尾”が残っていることを示している。


 倉庫の屋根は夜空に溶け込み、赤い点滅灯だけが規則正しい呼吸のように光っている。


 その奥には、作業員が深夜シフトで出入りする小さな休憩所があり、蛍光灯の白い明かりがぼんやりと路面に漏れ出していた。


 どこまでも平坦な道が薄く湿った夜風に溶け、遠くにはクレーンのシルエットが黒々と浮かぶ。


 その手前には、湾岸エリアらしく商店街は存在しないものの、ところどころにコンビニや小規模なチェーン店の看板が散っている。


 赤・青・緑のネオンが風に揺らぎ、ビルの谷間で微かな人影が動くたびに、その光が体温のように脈打った。


 深夜特有の人間の気配――少なくとも“完全な無人”ではない気配――が、湿った空気の中、かすかに混じっていた。


 遠くで誰かが自販機を操作する金属音が鳴り、その音が風に流されてすぐに消えていった。


 コンビニの扉が開閉する電子音も、ここからでは微かにしか聞こえない。それでも、この巨大な湾岸地域に“誰か”が確かに生きているという証のように思えた。


 街の音はほとんどない。


 ただ、風だけが鳴り続けている。高い場所を吹き抜ける風が低く唸り、足元では砂埃が擦れる小さな音を立てていた。


 潮気を含んだ夜風は、倉庫の壁をなでるたびに微妙な反響を返し、静けさの奥でわずかな振動として残った。


 見慣れているようで、まったく知らない景色だった。


 昼間ランニングの際に軽く見かけた光景とは違い、夜の湾岸エリアは別の顔をしていた。


 それは“日常の延長”ではなく、ただ外界に取り残されたような空虚な空間だった。


 道路の舗装が妙に黒く光り、街灯の明かりがその上に薄膜のように滲んでいる。時折、配送トラックが遠くを横切るが、そのエンジン音でさえ、すぐに風に飲まれていく。


 憂鬱なのか、ただ気が立っているのか、自分でも判断がつかない表情のまま歩き続けると、道路の向こうに明かりのついた建物が見えてきた。


 暗闇の中でその建物だけが、まるで灯台のようにぼんやりと浮かび上がっている。


 ――山北のジム。


 “キングオブスポーツジム”の看板が夜に浮かび、その横の窓からは力強い金属がひしめき合う音と影が揺れている。


 重たいバーベルのぶつかり合う音、アップテンポのEDMミュージックが、ひとつの生き物のようにジムの中で脈打っていた。


 規則的に動く影は、闘う者の呼吸と同調するように振れ、そのたびに室内の蛍光灯の光が外へ漏れていた。


 その光がアスファルトに揺らぎ、まるで見えない火花が散っているように映る。


 ジムの自動ドアが開き、中から数人の女性が出てきた。髪を束ね、トレーニングウェアのまま笑いながら談笑している。


 息がまだ上がっている選手もいれば、タオルで汗を拭いながら肩を寄せ合って歩く者もいる。


 その笑顔の明るさが、夜の湾岸の湿った空気の中で逆に鋭く際立って見えた。まるで、暗がりの中で唯一“色”を持っている存在のようだった。


 彼女たちは――Queen Beeの選手たちだった。


 OFFに日はほかの選手を気遣い、山北のジムで汗を流す選手も多いと望月から聞いていた。


 本道場で見慣れた顔。


 しかし、何故かその時は妙な距離感を感じた。


 それは彼女たちの明るさが遠かったからか、それとも自分の心が冷たい水面のように沈んでいるせいなのか――判別できなかった。


 その瞬間、如月は無意識に足を止め、視界の端の街路樹の陰に身体を寄せた。


 その場にいてはいけないというような感情が、胸の奥を鋭くざわつかせる。


 自分はQueen Beeの選手だ。名簿にも、公式にも、誰がどう見てもそう扱われている。


 ――なのに。


 ジムから笑いながら出てくる選手たちを見ていると――そこに、自分が立っている光景だけがどうしても想像できなかった。


 話す輪の中に入れる気がしない。同じ方向へ歩いていく姿も思い浮かばない。


 さっきのカナレの気まずい間も、望月の言いたげな表情も、胸の中でじわじわと重さを増していく。


(やっぱり……俺は“ここ”の人間じゃねぇのか……)


 海風が吹き抜け、湿気を含んだ熱が首筋にまとわりついた。その熱が皮膚のすみずみから逃げ場を塞ぐように広がる。


 それでも如月は、ただ黙って道路脇に立ち尽くすしかなかった。自分の居場所を一瞬で見失った者特有の、足元が揺らぐような感覚だけがそこに残った。


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