第89話:禊
涼子専用のトレーニングルームで、二人の息遣いが聞こえる。
ストイックに肉体を追い込んだ息遣いと、ストイックに生き過ぎた者の息遣いが、空気の層の中でゆっくりと交差していた。
金属とゴムの混じったような匂いが薄く漂う。
壁際には整然と並んだダンベルと、汗の跡が染みついたマット。
その中央で、如月は涼子が買ってきてくれた缶コーヒーのプルトップを開けぬまま、両手で握りしめていた。
指先から、わずかにコーヒーの暖かさが伝わる。
まるで、何かに冷め切ってしまった体を、掌の中でゆっくりと温めようとしているようだった。
「なんだい、飲まないのかい?」
そんな如月をたしなめるように、涼子は片手に持っていたシェイカーを床にそっと置いた。
プラスチックがマットをわずかに弾ませ、乾いた音を立てる。
何でもない涼子のその動きが、今の如月には、自分を静かに否定しているように見えた。
胸の奥が小さく軋む。言葉にしなければ、空気の重さに押し潰されそうで、如月は口を開いた。
「……涼子さんは今日、休みですよね?なんでわざわざこんなところを作ってまで鍛えてるんですか?」
その声音には、冗談とも本音ともつかない硬さが混じっていた。如月の世間話に、涼子は小さく息を吐き、少しため息まじりに答える。
「休みの日でも、私は仕込みとか食材のチェックとかしなきゃいけないからね。ここならそのままトレーニングできるだろ」
言葉の途中で、涼子の視線は如月から離れ、向かいの壁の奥――何もない空間を見ていた。
その横顔には、どこか遠くを見つめるような、寂しさの影が差していた。
「で、誰と喧嘩したんだい?カナレ?それともモッチーかい?」
唐突に放たれた涼子の問い。
だが、それは見透かしているというよりも、気づかって差し出された救いの糸のようだった。
涼子は普段、望月のことを“モッチー”という愛称で呼んでいる。いつの間にかその呼び名はQueen Beeの選手やスタッフたちの間にも浸透し、すっかり定着していた。
如月の胸の奥に、少しだけ安堵が灯る。
だが、それでも顔は上げられない。缶コーヒーの銀色の天面に、蛍光灯の光が揺れていた。複雑そうな顔で如月は何も言わず、顔を横に振るだけで答えなかった。
その動作は、拒絶というよりも、言葉を選びきれない迷いのようでもあった。
缶コーヒーを握る手の力が、わずかに強くなる。アルミが小さく軋み、沈黙が部屋の空気に沈殿していく。
涼子は特にその態度をとがめることもなく、ただ黙って如月の横に座っているだけだった。
膝の上に置いた両手が動かない。呼吸だけが穏やかに上下し、二人の間に流れる空気を揺らしていた。
――答えたくないなら、答えなくていい。
ただ、言いたくなったら、いつでもいいんだよ。
そんな言葉が如月の頭の中に浮かんだ。
涼子がそう言ったわけではない。けれど、今の彼女の沈黙そのものが、まるでそう語りかけているように思えた。
如月は、静かに今、自分の中で葛藤していることを涼子に話そうとした。胸の奥に溜まった熱が、ゆっくりと喉を通って言葉へと変わっていく。
涼子は黙って別の方向を見ながら、如月が言いやすいような雰囲気を自然と演出していた。
何も見ない。何も聞こうとしない。
ただ、待っている。
その沈黙は、相手の心の奥を引き出すための、熟練の職人のような静けさだった。
「……実は意見の相違というか、俺の独りよがりで、みんなを苦しめてしまって……」
その声はかすかに震えていた。言葉にした瞬間、胸の奥で圧縮されていた後悔や焦燥が、音になって零れ出る。
資料室の一件を細かく話すわけではなく、断片的に、そして如月なりに皆を配慮したような言葉で、涼子に伝えた。
その一つひとつの言葉は、不器用で、まっすぐで、どこか禊のようでもあった。
涼子はうなずくこともせず、ただ黙って如月の言葉に耳を傾けているだけで、何もしない。
視線は少しだけ下を向き、呼吸のリズムだけが穏やかに刻まれていた。それが返答のかわりだった。
すべて受け止めるという貫禄のような頼もしい空気が、部屋に満ちていた。その静けさは、重くもあり、温かくもあった。まるで大海に沈むように、如月の心が少しずつ落ち着いていく。
如月も、言いたいことを要約してせず、正直に、自分の思った通りの言葉を述べ始めた。
――バイアスなどかけずストレートに。
飾らず、逃げず、ただ素のままで。
それが涼子という人間の前でだけ見せられる、自分の最も正直な形だった。
すべてを言い終えた如月は、両手を組んで強く握りしめている。その手の甲に浮かぶ血管が、薄い汗に光っていた。
顔は床の木目を見ているかのように下に向け、それ以上喋らなかった。
沈黙が、再び二人を包み込んだ。
空調の低い唸りと、壁に跳ね返るわずかな呼吸音だけが、空間の存在をかろうじて証明している。
その静寂は痛いほどに透明で、まるで言葉を発すれば壊れてしまう硝子のようだった。
ひと時の沈黙の後、涼子が答えた。
「……そうかい」
その一言だった。
あまりにもそっけない一言に、如月は顔を上げ、涼子を直視する。反射的に、何かを求めるような視線だった。
しかし、涼子の顔はまるで母親が娘を見るような慈愛で満ち溢れた溢れた顔に見えた。
ただ、長い時間を生きてきた者だけが持つ静かな理解と、包み込むような温度があった。
笑顔でも、いつくしむわけでもない。
ただ見守るだけの、何か悟りの境地にも似た荘厳な雰囲気を醸し出していた。光の加減で、涼子の瞳が一瞬、柔らかく揺れたように見えた。
そして涼子は立ち上がると、背伸びをして如月の顔を見ながら、淡々と語った。
立ち上がるその動作には、鍛え上げられた筋肉のしなやかな力と、確かな重みがあった。
「あんた達が今ぶつかっているのは、すべての格闘家が越えなきゃならない壁だよ」
その声は、空調の振動音にかき消されることなく、はっきりと響いた。言葉ではなく、想いそのものが空気を震わせているようだった。
涼子は床に置いたシェイカーを手に取ると、そのまま部屋の出口へと歩いていく。スニーカーの底がマットを軽く擦るたびに、リズムのような音が残る。
「あんた達のやっていることは、矛盾した行為なのかもしれない……でも、そこからつかみ取れるものは必ずある」
その言葉が落ちるたび、空気が一度膨らみ、また静寂に戻る。
如月には、涼子の言葉がまるで師であるアルフォンスの金言のように聞こえた。重いのに、不思議と心の奥で温かく灯りをともすような言葉だった。
そしてドアを開け、部屋を出ていこうとする去り際。涼子はまるで、自分の思いのたけを吐き出すように、振り返らず言葉を投げかけた。
「手加減なんかしたら、それこそ相手に恨まれるよ!だから、自分が正解と思うスタンスで臨めばいいんだ!」
その声は凛として、少しだけ明るかった。まるで、最後に残る苦味を笑いで中和するように。
そう言って、涼子は部屋を後にした。
ドアが静かに閉まる。空気が一瞬止まり、そしてゆっくりと動き出す。涼子の残り香と熱だけが、まだそこに漂っていた。
部屋には如月一人が取り残された。
空調の音が、やけに急かせるようにメカノイズを響かせている。
ファンが回るたび、空気がわずかに震え、床に置かれた缶コーヒーの銀面が淡く光を返した。
誰もいない部屋に、さっきまであった体温の名残だけが静かに漂っている。
少しだけ如月は何かを考えるように眉間にシワを寄せ、小さくつぶやいた。
その声は、言葉にならない思考の断片。
冷たい金属の音と混じり合い、空気の奥に吸い込まれていく。
言葉なのか、ただの独り言なのか――聞き取れない声が、少しだけ部屋を小さく支配する。
その響きは、まるで誰かに祈るようでもあり、自分自身を叱咤するようでもあった。
そんな時、出口のドアがガチャリと勢いよく開いた。
乾いた音が、静寂を軽やかに切り裂く。廊下から涼子がひょっこりと顔を出して、いつものような悪戯っぽい顔で言った。
「ちゃんと電気と空調の電源は切っておいてよ!斎藤さん、結構うるさいんだ。じゃね!」
その声には、先ほどの重たい空気を一瞬で吹き飛ばすような明るさがあった。まるで、沈みかけた船の甲板に差し込む一条の光のように。
そう言ってまたドアがバタンと閉まると、廊下に涼子が歩いて行くシューズの音が小気味よく響いて、やがて遠ざかっていった。
軽快なリズムが徐々に薄れ、やがて静寂が戻る。
だがその静寂は、もう先ほどまでの重さを持ってはいなかった。
如月は立ち上がると、何かを決心したかのように深く深呼吸し、肩を一度大きく回した。
肺の奥に残る濁りをすべて吐き出すように、長く息を吐く。
そして、いつも通りの――何もかも射貫くような目で、すべてを受け止める決意を固めた。
照明の光が、その瞳に鋭い反射を宿す。静寂の中、ひとりの戦士が再び立ち上がる音だけが、確かにそこにあった。
――そして、場面は変わる。
白魔洞窟内部。
外とは違い、暗く湿っぽい風が、奥の方からゆっくりと流れてくる。
岩の隙間から漏れる微かな水音と、滴の落ちる間隔が、時間の感覚を曖昧にしていた。
光源は手にしたランタンのみ。その橙の灯りが、不規則に揺れながら岩肌を照らし、歪な影を生み出す。まるで、洞窟そのものが脈を打ち、息づいているかのようだった。
灯を照らされた岩肌には、苔や虫、そして天井からは鍾乳石がだらりと溶け落ち、蝋のように不気味に垂れ下がっている。
その光景だけで、この白魔洞窟の積み重ねた年月――、祈りと血の歴史を物語っていた。
地下水の音が軽やかに流れている。
だが、その音色にはどこか言葉のような調べがあり、歩く二人に呼び掛けているようでもあった。
肌寒さを誘うその響きの中、二人の足取りは“生きる者”の生気にあふれ、静かな力強さを放っていた。
やがて、長く続く鍾乳洞の曲道を抜けると、湿気がふっと途切れ、わずかに乾いた空気が頬を撫でた。
その先に、二人のお目当ての場所が見えてくる。
「……やっとついたか」
息を切らせながら、額の汗を首にかけたタオルで拭うのは一之進だった。
ランタンの光が彼の肩に反射し、長年の鍛錬で刻まれた筋肉の稜線を際立たせる。彼の呼吸は荒いが、目には確かな目的が宿っている。
「あった……」
その横で、娘の研美が小声でつぶやく。あたりを散策しながら、探していたものを見つけたようであった。
だが、その声色は普段のような活力に満ちた張りのある声ではなかった。どこか、過去と未来の狭間で揺れているような、曖昧な響きだった。
何かを待ち望んでいるのに、それを拒否するような――矛盾めいた思考が声になって形を成している。
一之進もまた、その気配を敏感に感じ取っているのか、いつもの豪放磊落な声を潜めていた。言葉少なに歩を止め、ただ同じ空気を吸っている。
研美の目の前には、小さな祠があった。
岩壁を掘って作られた石窟の祠。
その表面は苔むし、長い年月に磨かれた岩肌が所々で鈍く光を返す。地上の神社とは違う――生き物のような、湿った神域。
岩陰で小さな生き物が、身じろぐような気配がした。岩肌をかすめて尻尾らしきものが揺れ、すぐ足元で石片がコトリと転がった。
しかし、二人はまるでそれを自然の一部として受け入れるかのように、微動だにしなかった。
その視線の先――。
闇の奥に鎮座する祠は、まるで研美を待っていたかのように、ひっそりと息をしていた。
二人は祠の前に正座する。
堅い岩肌の上に、躊躇なく膝をつき、背筋を伸ばして手を合わせる。
冷たい岩の感触が衣の布越しに伝わるが、二人の身体からは一切の迷いが消えていた。
一之進が、何かの経のようなものを唱え始める。
「……唱え奉れば……荒人の……」
その声は、岩壁に反響しながら奥へと吸い込まれていく。
透き通るようで力強く、どこか色気を帯びた声。
だがそれは決して艶やかではなく、むしろ洞窟そのものを鎮めるような、静謐な響きだった。
隣に正座する研美も、背筋を伸ばしたまま目をつぶり、一之進の声に合わせるように小さく唱えている。
その唇は、震えもせず、まるで古い記憶を辿るように、ひとつひとつの言葉を慎重に結んでいた。
灯りの揺らめきが彼女の頬を照らし、汗とも涙ともつかぬ一筋の光が滑り落ちる。
そして、一之進は合わせた手のひらを大きく開き、両腕を広げるような動作を見せた。
岩肌をなぞるようにその影が伸び、まるで古代の神の姿を映し出しているかのようだった。
まるで土俵入りのような神秘性を帯びた力強さと、すべての邪気を払うかのように胸の前で柏手を打つ。
パシーンッ――!
乾いた音が、洞窟の奥底まで貫いた。
それは音というより、光の閃きのようだった。張りのある鋭い響きが岩壁を巡り、天井の鍾乳石を震わせる。
まるで場の空気そのものが清められたかのように、二人の場所が結界のようにあたりを支配している。
「……研美、いいんだな?」
一之進が研美の顔を見ながら静かに問いかけた。
その眼差しは鋭く、厳しく、そしてどこか哀しみを帯びていた。声には一分の迷いもないが、その奥には長年の父としての葛藤が潜んでいる。
研美は何も言わず、ただ頷くだけだった。
その頷きには、幼さを脱ぎ捨てた者の覚悟と、父への絶対的な信頼が同時に宿っていた。
そして、石でできた祠の御扉をゆっくりと開ける。その動作は慎重で、儀式の一部のように滑らかだった。
――その瞬間。
あたりの空気が一変する。
先ほどまで神域のように清められていた空間が、今や力の根源のような――禍々しく荒々しい気配に満ちた。
冷たい風が下から吹き上がり、灯りの炎を揺らす。空気が低く唸り、祠の奥から何かが目覚めたような気配が広がる。
しかし、研美はそのようなことなど気にすることなく、祠の中を射抜くように睨んでいた。
その眼差しは、恐怖をも意志の力で押し潰す鋼の光。父の背で学び、血で刻まれた「闘う者」の眼だった。




