第86話:静穏の底
午前10時。いつもなら地獄のような練習の中で、ほんの少しだけ息をつける休憩時間。
だが、今日は週に一度の休日である月曜日。Queen Beeの面々は、いつもの張り詰めた空気とは打って変わり、ロビーに集まって思い思いに雑談をしていた。
空調の微かな唸りと、紙コップの氷が溶ける音。トレーニングウェアの擦れる気配、そして笑い声。そのすべてが、いつもより柔らかく響いている。
練習メニューのことや立ち回りについて、真剣に意見を交わす選手たちもいれば、ただ取りとめのない話で時間を潰す者たちもいる。張り詰めた日常の隙間に、束の間の“人間らしさ”が滲んでいた。
如月たち、いつものメンバーも、どこか肩の力を抜いた表情で座っている。
マットの上とは違う空気の中で、無防備に見せる笑顔――それが少しだけ、皆を年相応に戻していた。
そんな中、SAKEBIが大きなあくびをした。その口を手で隠しながら「眠いッスねぇ」と呟くと、隣のカナレもつられるように口を開ける。
まるで連鎖反応のようなその仕草に、周囲から小さな笑いが漏れた。
如月は、そんな光景を見ながら小さく笑みをこぼす。手に持ったペットボトルを傾け、喉を潤す。
水の冷たさが舌を伝って胸の奥へ落ちていくと、ふと――心の奥に沈めていた言葉が零れた。
「でも、よかったのかな。翼さんを差し置いて、俺が……」
声は小さく、誰に向けたものでもなかった。
しかしその一言が、まるで空調の音まで吸い込んでしまうように、場の空気をわずかに静めた。
それは、BHCシングルの挑戦権のことだった。
現チャンピオン・研美との一戦が決まり、Queen Beeの象徴ともいえる皇を差し置いて、自分が挑戦権を得た――その事実に対する、ためらいにも似た感情。
ただのチャンピオン選手権ではない。この勝者が、KDPとの対抗戦に出場する。つまり、この一戦が団体の命運を決める。
負ければ、Queen Beeの看板が地に落ちる。
それだけではない――本田の話では、お互いのシングルのベルトを賭けた争奪戦だという。
ロビーのざわめきが遠のいていくようだった。
頭の奥で誰かの笑い声が響いているのに、耳の奥にはもう届かない。その責任の重さは、如月の胸の奥にじっとりと貼りついて離れなかった。
喉の奥に、飲み込んだはずの水がまだ残っているような、鈍く重たい息苦しさがあった。
――Queen Beeのシングルベルト。
それは、ただのタイトルではない。仲間たちの誇りであり、汗と涙と声援が染みついた“居場所”そのものだった。
それを失うかもしれないという想像が、胸の奥で微かに軋む。
「でも、全員納得してるからいいんじゃない?」
望月が、長く伸びたポニーテールの枝毛を気にしながら、何気ない態度で言った。指先で毛先をつまみ、光に透かしながらの一言。
その口調には慰めるような柔らかさも、現実を受け入れる達観も入り混じっている。すると、島村もそれに反応するように答えた。
「私も如月さんが適任だと思います」
彼女の声は落ち着いていた。それは世辞ではなく、まるで現実を整理するような口ぶりだった。
空気が少しだけ引き締まる。
皇は、Queen Beeの象徴であり、現Queen’s Crownの女王。
万が一負けてしまっては取り返しのつかない事態になる――それは運営側、そしてスポンサー側の意見だろうと、島村は淡々と語った。その冷静さの裏に、団体を背負う者としての覚悟が滲んでいた。
如月は複雑な表情を浮かべた。
その責任の重さが、まるで目に見える形を持って迫ってくるような感覚。胃の奥に小石を詰め込まれたようで、最近は食が細かった。
それはプレッシャーなどという上品な言葉では括れない。
久遠寺カヲル――話に聞かされているだけでも規格外。彼女の名を思い浮かべるだけで、背筋の奥がぞわりと粟立つ。考えるほどに体温が奪われていくような、得体の知れない冷たさ。
だが、その感覚を恐怖と呼ぶのも違う。
それは防衛本能というより、戦いの中でしか生きる価値を見出せなかった“英二”の人間性が醸し出す――“好奇心”と呼ぶほうが、よほど正確だった。
未知の強者に対して、逃げたいと思う一方で、どうしようもなく惹かれてしまう。その矛盾こそが、如月の中の闘争本能を静かに燃やしていた。
「なぁ、なんで如月っちはカヲルの対戦動画、見ないんだ?」
カナレの質問に対して、如月は淡々とした声で答えた。
「さあな。多分、見ちまったら怖くなって逃げ出しちまうからかもな」
軽く笑いながら言ったその声は、どこか乾いていた。
笑い声の裏側には、冗談めかした響きとは別に、うっすらと張り詰めた糸のような緊張が隠れている。
如月の口元はわずかに歪み、笑っているのに目は笑っていなかった。
その表情は、未知なる恐怖を――いや、未知との遭遇そのものを楽しむような、危うい笑顔だった。
カナレは、如月の言動や行動が心配になっていた。目の奥のどこかが常に遠くを見ているようで、話しかけても、時折返事が一拍遅れる。
特に対策をするわけでもなく、練習量も普段と変わらない。楓達との対戦前のように特別なことはしない。スパーリング回数も普段の半分以下。
如月のことだから何か意味がある行動なんだろう――そう納得しようとしているカナレだったが、どうも腑に落ちないという表情で如月を見ていた。
その視線を感じ取ったのか、如月は立ち上がり、カナレの方へ歩み寄る。そして、ふわりと手を伸ばすと、カナレの頭をワシワシと数回なでた。
乾いた手のひらが髪をかき混ぜ、カナレは「なんだよ……」と小さく抗議の声を上げる。如月はそんな反応に軽く口角を上げると、その場で背伸びをして言った。
「それよりも今は、研美先輩に対しての対策をしなきゃいけないからな」
その声は明るく響いたが、どこかで自分自身を奮い立たせるような響きも混じっていた。
研美は今、Queen Beeの施設にはいない。如月との対戦が決まった翌日、斎藤と本田に断りを入れて、個人練習をしたいと帰省している。
誰かに気を使ったわけではなかった。本気で勝負したいという意気込みの中、自分が慣れ親しんだ場所で調整したいという意向を、斎藤、そして本田も了承した。
そんな話を如月は聞いていたが、果たして本当にそうなのだろうかと疑っていた。
研美は自分のすべてをさらけ出すほど裏表のない性格であり、いくら初対戦の相手であっても、そこまで気を使うほど入念な準備をするような選手ではない。
実家に帰ったのは、別の要件だ――如月はそう感じていたが、それが何なのかは全くわからなかった。
考えても仕方がないと思い、皆に「資料室に行く」と言ってロビーから離れようとすると、カナレが「私も行く!」と勢いよく言い出した。
その声に釣られるように、周囲の空気がざわつく。そして、誰ともなく立ち上がる椅子の音が重なり、気づけばいつものメンバーが一緒について行く。
周りにいる先輩たちがクスクスと笑っている。
いつも共に行動している――その中心には必ず如月がいる。それを示唆しながら楽しんでいるような笑いだった。その笑いには、からかいよりも、仲間への親愛のような柔らかさがあった。
如月はため息をついて、資料室へと歩いて行った。その背中を追いながら、カナレは小さく呟いた。
――やっぱり、何か考えてるんだ。
心の中に生まれた小さな不安を押し隠すように、彼女もまた、静かに歩き出した。
資料室には、古今東西の映像や資料が山のようにアーカイブされている。整然と並ぶ棚の列はまるで図書館のようだが、漂う空気はもっと濃密だった。
古びた紙の乾いた香り、そして電源を落とした機器が放つ金属の残り香。
小さな照明が低く灯り、そこに積み上げられた箱やファイルの影が、まるで積年の執念のように壁に滲んでいる。
そのほとんどが、トレーナーの矢取雅代が長年の趣味で集めたものだと聞いた時、如月はあきれた。
その資料の数は、膨大な量であった。“趣味”という言葉では収まりきらない。もはやこれは、個人的情念の痕跡だった。
如月は以前、元の世界で老舗の編集部にインタビューで訪れた際に見せてもらった資料室の量を、はるかに超えていた。
壁一面を覆うファイルの列。どの背表紙にも丁寧に手書きのラベルが貼られており、その几帳面さに思わず背筋が伸びる。
趣味というのは時折、プロを超えるアマがいるというが――これは行き過ぎではないかと思いながらも、ありがたく専用端末の映像を見ようとしたとき、背後から声をかけられた。
「如月君じゃないか」
その声は、独特の柔らかさと熱を帯びていた。如月が後ろを振り向くと、そこにはこの資料室の主ともいえる矢取が立っていた。
白衣の裾を軽く翻しながら、まるで自分の聖域を歩く研究者のような足取り。暇なときはよくここで趣味の資料整理をしている、筋金入りのプロレスマニア。
その矢取の常軌を逸したマニア魂のおかげで、Queen Beeの選手はデータ収集に困ることはない。
まさに影の立役者と言っていい人物が、スクラップブック片手で如月に話しかけた。
「今日は何を調べに来たんだい?」
三つ編みの髪に、膝のあたりまである丈の白衣をまとい、コントでしか見たことがない瓶底のようなメガネをトレードマークにした彼女は、如月に興味津々だった。
分厚いレンズの奥で、瞳が理科室の蛍光灯のようにぎらりと光る。
普段、試合後のマッサージで施術を受けることが多く、如月は彼女とは顔なじみだった。
腕は確かだが、若手の選手は彼女の“食い気味な距離感”が苦手で、今もカナレ以外のメンバーがたじろいでいる。
資料室の空気が一瞬、ひんやりとした緊張に変わった。
矢取は如月の近くに来ると、徐に腕をつかみ、触り始めた。その手つきはまるで遠慮というものがなく、如月のしなやかな筋肉を愛おしげに撫でる。
指先は職人のように正確で、それでいて妙に熱っぽい。まるで研究対象であると同時に、芸術作品に触れているかのようだった。
「流石だね!これぞ“THE筋肉”という素晴らしいポテンシャルだ!」
矢取の触診は止まらない。その声はもはや興奮を隠しきれておらず、メガネの奥の目が、久々に本物の“サンプル”に出会った科学者のように輝いていた。
如月は苦笑しながらも、反論できずに立ち尽くすしかなかった。
背後で見ていたSAKEBIたちは、恐る恐る顔を見合わせ――誰からともなく、小さく息を呑んだ。
「君たち、筋肉というのはただ堅く大きければいいというものじゃない。わかるかね、カナレ君!」
唐突に呼ばれて、カナレはあっけにとられ、口をぱくぱくと動かすが、言葉が出てこない。眉を上げたまま固まるその様子に、周囲の空気が一瞬だけ止まった。
すると如月が、助け舟を出すように矢取に言った。
「トレーナー、そろそろいいですか……?」
如月の言葉に反応して、「すまない!」と短く謝りながらも、矢取は一切悪びれた様子もなく体勢を整え、今度は視線をSAKEBIたちの方へ向けた。
「君たちは一度も私のところに来たことがないね?体のケアは大事だよ」
その声音には叱責というより、心底もったいないという熱がこもっていた。彼女にとって筋肉や関節も、もはや芸術であり、貴重な若手がその手入れを怠るのは罪に近いのだ。
そう言われると、SAKEBIたちは苦笑いを浮かべながら相槌を打った。
「そうっスね……」
「今度行きます……」
などと小声でごまかす彼女たちに、矢取はさらに眉を吊り上げ、「行動に移すのが大事なんだよ!」とでも言い出しそうな勢いで身を乗り出す。
クドクドと施術の大切さを説いていた矢取は、ふと何かを思い出したように、パッと表情を切り替え、如月に声をかけた。
「そういえば如月君。楓君に聞いたが、君はなかなかのテクニシャンのようだね」
話は、如月が行う施術のことについてだった。その名を出した瞬間、矢取の瞳の奥に、研究者特有の輝きが宿る。
「私も古今東西、いろいろな治療方法や解剖学に精通しているつもりなのだが、君の“矢戸散り(やとちり)”だったかな?そんなもの、聞いたことなかったよ」
レンズの向こうで、眼光が細く研ぎ澄まされる。その目つきはもはや“質問”ではなく、“解析対象”を前にした科学者のそれだった。
この世界には存在しない――元の世界でもほとんど知られず、時代の中で静かに消えていった流派の技。
矢取は興味津々で如月に迫る。距離がまたじりじりと詰まっていく。
如月も、矢取の好奇心旺盛な部分は若干苦手だった。
悪い人ではないし、最近は対応の仕方も分かってきたので苦笑を浮かべながらも、自然と半歩下がって間合いをとる。
「それよりもトレーナー。研美先輩の資料は持ってないですか?」
その言葉に、矢取は「ほう」と短く息を漏らした。
先ほどまでの熱気が一瞬で静まり返り、部屋の空気がほんの少しだけ冷たくなった。
――研究者の顔から、観察者の顔に戻る、その変化を如月は見逃さなかった。
「以前見た資料がすべてだが……気になるのかい?」
不敵な笑みを浮かべながら如月に問いただすその仕草は、何かを知っているような雰囲気だった。
分厚いレンズ越しの瞳が、研究者特有の“次の反応を待つ目”をしている。如月が無言でうなずくと、矢取は白衣のポケットの中から何かを取り出した。
小さく金属音が鳴る。それはリモコンのような形状で、所々に自作らしい配線の痕がむき出しになっていた。
矢取は何の躊躇もなくボタンを押す。
次の瞬間――。
如月が座っていた場所の天井が、わずかに軋みながらゆっくりと迫ってくる。低いモーター音が部屋の奥から響き、金属の振動が床を伝って足裏をくすぐった。
如月が慌ててその場を離れると、天井がそのまま下がり、それが巨大なモニターだとわかった。
黒いパネルが滑らかに角度を変え、最前部に静止する。蛍光灯の白光が液晶に反射して、一瞬だけ室内の全員の顔を照らした。
「私が研究用のために開発した量子結晶ディスプレイだ!」
矢取が鼻息荒く胸を張る。その声音には誇らしげな自信と、誰にも理解されないであろう孤高の熱が入り混じっていた。
彼女が手を広げると、白衣の袖がふわりと揺れ、まるで魔術師が召喚を終えたようだった。
矢取がそのディスプレイの構造や出力効率の説明を始めると、如月は頬に手を当て、適当な相槌を打ちながら、切りのいいところで止めて促した。
「……トレーナー、すみません。映像を見せてもらえますか」
矢取はまだ言いたげで不満そうな顔をしながらも、リモコンを操作し、PCの画面に切り替える。パネルの光が淡く変化し、モニター全体に冷たい青色の光が広がった。
その様子を見て、カナレたちは思った。
――如月は矢取の扱いに慣れている、と。
(止め方が手慣れてる……)
視線を交わした彼女たちの間に、かすかな笑いが生まれた。
そして矢取が、まるで命令するように言った。
「ARM、鈴木研美選手の試合映像を見繕ってくれ」
その言葉と同時に、PCの画面が切り替わる。スピーカーから短い電子音が鳴り、“ARM”という文字が浮かび上がった。フォントは妙にスタイリッシュで、矢取のセンスがそこはかとなく漂っている。
「これは私が開発した、自律型格闘リソース管理の音声認識パーソナルアシスタント、ARM(Autonomous Resource Martialist)だ!」
誇らしげな宣言。その語尾には「素晴らしいだろう?」という自画自賛の響きがあった。
しかし如月はその手前で軽く息を吐き、矢取の熱弁を遮らない程度に身を乗り出す。
話が長くなりそうだったので、如月はさっそくお目当ての動画の閲覧を始めた。
矢取の横顔が「説明、まだ終わってないんだけどな」と言いたげに動いたが、すぐに興味を映像の方へ向ける。
室内に、起動音とわずかな電子ノイズが響いた。LEDモニターの中で、試合映像のサムネイルが次々と立ち上がっていく。無数の小さな四角が光を放ち、壁に淡い反射を生んだ。
すると、端の方に「禍」と書かれたフォルダーを見つけた。
黒地のフォルダー名。ほかのデータとは明らかに異質だった。
如月の指先がわずかに震えた。
しかし、気になる。
理屈ではない――触れてはいけないと直感しても、見ずにはいられない。そこで矢取に頼み、そのファイルを閲覧させてほしいと説明した。
矢取のテンションが急にクールダウンし、表情は曇った。それまで弾んでいた声が、湿った空気を通して低く落ちる。
「そのフォルダーは……あまり見ても気持ちのいいもんじゃないよ。私も医術を志す身で、必要だから持っているだけだからね」
短い言葉の奥に、明らかに“何かを隠す音”があった。その言葉の重さは、如月が一番よく知っている。
しかし、見ないわけにはいかなかった。
懇願する如月に、根負けしたのか――矢取は小さくため息をつき、マウスを動かした。
クリック音が鳴る。室内の空気が、まるで真空に吸い込まれるように沈黙した。
フォルダーの中から、研美の映像が再生された。モニターの光が如月たちの顔を青白く照らす。
そして、そこに映っていたのは、自分たちが知っている研美とは到底思えない凄惨な試合内容の映像だった。




