第85話:六年目の宣戦布告
斎藤の説明が淡々と続いている。
壇上に立つ斎藤の声は、抑揚の少ない低音でミーティングルームの壁に反響していた。
無機質な蛍光灯の光が、資料の白紙面を照らし、整然と並ぶ選手たちの顔をやや平板に見せている。
BHCシングル試合は十三日後、翌々週の日曜日。タッグ戦は、先ごろから連戦が続く楓・正美ペアを考慮して、その翌週の日曜日となった。
報告に合わせて、スクリーンに映し出されている数字が淡く切り替わる。室内にはわずかに選手たちの咳払いや、エアコンの送風が鳴るだけ。
このところ、楓と正美両名の押しの強いマッチメイキングの意見を聞いていたことが主に響いているようで、二人の体調を考慮しての決定だった。
斎藤の声には、どこか事務的な温度がありながらも、長年の現場勘からくる慎重さがにじむ。
しかし、楓と正美は不満そうに愚痴をこぼす。
「別に私たちはいつでもいいんだけど?体調も万全だし。ねぇ、如月」
楓が肘を机につき、組んだ両手の上に顎をのせる。
まるで挑発するように、唇の端をゆるやかに上げながら、細めた瞳で如月を見上げた。その目は柔らかくも艶を帯び、会議室の冷えた空気をわずかに揺らす。
視線を受けた如月は一瞬たじろぎ、まぶたを伏せる。
返す言葉もなく、指先で机の上に置かれていた資料の端をつまむようにして、居心地の悪さを紛らわせた。
如月の施術が功を奏したのか、短時間で身体をリフレッシュすることができたようで、二人の調子はすこぶる良いといった様子だった。
肩のラインに張りが戻り、肌の色艶も整い、まるで新しいエネルギーをまとったような軽さがあった。
蓄積された疲労をわずか数時間で取り戻す――如月の施術受けたものは口々に“魔法”と呼んでいた。
対戦相手の山崎と藤堂は、チャンピオンである二人の異様なほど溌剌とした姿を見て、「何が起こっているのか理解できない」といった表情を浮かべる。
山崎は腕を組んだまま、眉をひそめて視線を交わし、藤堂は無意識に口角を引き結んだ。その様子は、まるで自分たちだけが異なる時間軸に取り残されたかのようだった。
――冷たい蛍光灯の下、静かなミーティングルームに、わずかな緊張と火花が散り始めていた。
そんな時、今度は研美が茶々を入れる。
「楓~、言っておくけど如月は私の専属なんだからね」
軽く身体を傾け、髪を耳にかけながら放たれる声は、いつもの艶っぽい笑みをまとっていた。
唇の端に宿る余裕の笑みは、からかいとも独占欲ともつかない色を帯びている。その場の空気を柔らかくしながらも、言葉の裏には“確かな牽制”の熱があった。
如月は対処に困るように目線を合わせることなく、机の上で手を組みながら下を向いたまま、返すことができないでいる。
指先は小さく動き、掌の中で震えるように重なった。
周囲の笑い声に混じることもできず、ただ視界の隅に揺れる蛍光灯の光をぼんやりと見つめている。
カナレも負けじと言い返す。
「如月っちは私のパートナーだ!」
勢いのある声が部屋に響き、空気が一瞬だけ明るく弾む。
言葉の終わりに合わせて、カナレは拳を胸の前でぐっと握りしめ、まるで勝ち誇ったようなポーズを取った。その顔には無邪気さと、ほんの少しの独占欲が同居している。
「んっ、ん!」
その小さな音が、如月の喉の奥から漏れる。
困ったような笑いなのか、否定なのか。場の空気は、次第にミーティングというよりは雑談めいた温度へと変わっていく。
ミーティングとは関係のない会話が続く中、斎藤のどすの効いた咳払いがミーティングルームに響く。
――ゴホン。
その音は、空気を鋭く断ち切った。音が反響して壁を跳ね返り、静まり返るまでの一瞬の間が異様に長く感じられた。
斎藤の顔はまるで「黙れ」と言わんばかりの強烈なプレッシャーを放ち、一同は一瞬で静まり返った。
笑みを浮かべていた楓やカナレも息をのむ。空調の低い唸りだけが室内に残る。如月は下を向いたまま、視線だけで斎藤の表情を伺った。
静かになったタイミングを見計らい、斎藤は次の議題へと移る。声色は変わらない。
だが、言葉の間に異様な緊張が混じる。
斎藤が壇上から降りると、代わりに本田が立ち上がり、入れ替わるように壇上の前へと進む。
その動きはゆっくりで、誰もが自然と視線を追っていた。椅子の軋む音すら、重く響く。
――一瞬の静寂。
皆に緊張が走る。息をひそめる音が聞こえるほど、空気はぴんと張りつめた。
本田がマイクに向かって話し始めた。
「今回のマッチメイクについては、斎藤コーチからお話しいただいた通りです」
声は低く、慎重に言葉を選ぶようだった。ミーティングルームの明かりが、彼女を淡く照らす。
そして本田は一呼吸置くと、今回のミーティングの核心を語り始めた。
内容は――KDPとの対抗戦の話だった。
その瞬間、空気がわずかに震えた。
誰かが息を吸い込む音。椅子の背にもたれる音。机の上のペンが転がり、コツンと乾いた音を立てた。
無言のまま、全員がその言葉の重みを感じ取っていた。
話が切り出された瞬間、選手たちの空気が一斉に引き締まった。室内の温度が一度下がったように感じる。その変化を、誰もが肌で感じていた。
すでにほとんどの選手が噂でKDPとの対抗戦が行われることを知ってはいたが、本田の口から正式に語られることで、話は現実味を帯び、「確信」へと変わっていく。
曖昧な期待や不安のかけらが、今、言葉として輪郭を得た。それはただの報告ではない。戦いの鐘――その第一打に他ならなかった。
Queen Beeのベルトを賭けた一戦――それが本田の語った本筋だった。
その言葉が放たれた瞬間、ミーティングルームの照明がやけに白く感じられる。紙の上に映る影が濃くなり、誰もが表情を硬くしたまま動けない。
団体のシングル王座を懸けた一戦。それを呼び水として、KDPに宣戦布告をすることが目的だった。
話は単純明快。団体の威信を懸けた勝負となるこの一戦は、間違いなく歴史に刻まれる。
本田の声は淡々としていたが、その裏にある決意の硬さは誰の耳にも伝わっていた。
そして、その相手が久遠寺カヲルであることは、もはや必然だった。
その名が発せられた瞬間、空気がさらに重く沈んだ。誰かが小さく息を呑み、金属椅子の脚が床を擦る音が響く。
その音さえ、やけに遠くに感じられた。
皆が息を飲む。
それは同時に、覚悟を飲み込む音でもあった。無言のまま、彼女たちは――嵐の始まりを悟っていた。
空調の風がわずかに唸り、資料の角がひらりと揺れた。重く張りつめた沈黙の中で、誰もが言葉を探しあぐねている。
そして、ある程度理解した上で、カナレが本田に質問した。
「社長。うちからは研美先輩が出るんですか?」
静寂を切り裂くように放たれたその声は、少し震えていた。
だがその目には、まっすぐな光が宿っている。
誰よりも早く前へ踏み出す、そのカナレらしい率直さが、空気をほんの少しだけ動かした。
カナレの質問に対し、本田は答える。
「現在、鈴木研美選手がBHCシングルベルトを保持しています」
本田はどこか緊張した面持ちで続けた。彼女の喉が小さく鳴る。マイク越しに拾われるその呼吸音が、妙にリアルに聞こえた。
「ですが、私は今回行われるBHCシングル戦の勝者こそが、KDPとの対抗戦にふさわしい選手だと考えています」
その言葉が終わると同時に、ミーティングルームに、何とも言えない空気が漂う。
誰もが息をすることすら忘れたように動かない。まるで目に見えぬ霧が一斉に立ちこめたかのような静寂だった。
喉が渇くのか、ペットボトルの水を飲み込む選手。キャップが「カチリ」と鳴る音が、やけに大きく響く。
異様に瞬きの回数が多くなるスタッフ。ペンの先がわずかに机を叩き、緊張のリズムを刻んでいる。
明らかに、今回の本田の発言がQueen Beeの根底を揺るがす事態だと察していた。チャンピオンの座は、そのまま団体の象徴。その位置を、戦いの結果によって“他者に譲る”可能性が提示されたのだ。
そして――皆の心は、ひとつの名に集約された。
如月麗。
彼女が起爆剤となって、KDPの久遠寺カヲルと一騎打ちをすることになるのではないかと。
室内に、目に見えない火花が散る。誰もがその名を思い浮かべた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。期待と、恐れ、そして確かな誇り。
だが、その行く手を阻むのは、同じ団体で切磋琢磨してきた先輩――鈴木研美。
研美は本田の話を噛みしめるように聞いていた。瞳は静かに揺れている。
その表情にはどこか哀愁が漂っていたが、それは敗北の影ではない。次代へと託す者の、覚悟を湛えた陰影のようにも見えた。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。――それは、リングでしか語れない女の微笑だった。
そんな最中、渦中にいる如月が本田に質問する。
「社長、皇先輩とのタッグの話はどうなったんですか?」
低く落ち着いた声。しかしその声音の奥には、わずかな動揺が潜んでいた。
室内の全員がその言葉に反応する。わずかに紙の擦れる音、誰かの椅子が軋む音。その小さな気配さえ際立つほど、空気は張りつめていた。
もともとは久遠寺カヲルとの奉納タッグトーナメント戦を予想しての構想だった。
その際如月と皇のタッグと、カヲルも、おそらくKDP二枚看板の一人、祐天寺イサミをパートナーに出場することは予測できた。
一瞬カナレの顔に、緊張が走る。が、すぐさまいつもの調子で自信に満ちた笑顔で腕を組んでいる。
その戦いは、団体の象徴と象徴が衝突する夢のカードとして、すでに何人もの頭の中で組まれていた構図だった。
久遠寺カヲルの常軌を逸したすべての能力。そして、完全に相手を格下とみなすような、まるで自らに課した鎖のようなハンディキャップマッチ。
KDPが他団体との抗争を目論むのなら、それしかない。
そして、それを無視するかのような如月VS久遠寺カヲル。
これはQueen Beeとしての挑発か、あるいは支配の宣言か。誰もが息をひそめ、ただ次の一言を待っていた。
本田は静かに告げた。
「確かに、最初は私もあなたと皇翼の奉納タッグを見据えて構想を練っていました」
本田の声は穏やかだが、その奥底に微かな疲労が滲んでいた。
長年、リングの表や裏も知り尽くしてきた人間の声。そこには現場の現実と、経営者としての計算、その両方が重なっていた。
藤沢寛美という女は、いかに派手に、そしていかに自分の掌の上ですべてをコントロールするか――その性格を最も理解しているのは本田だった。
彼女の中で、藤沢は単なる他団体の社長ではない。飾り立てた虚飾の下で、常に「力の象徴」で在ろうとする、本能的な支配者。
本田の眼差しに、その認識の重みが宿っていた。
そして、今回、この流れに至った経緯を説明し始めた。
「先日、KDPの藤沢社長からQueen Bee上層部にコンタクトがありました」
本田の発せられた言葉に一同、絶句した。
まるで水と油――決して混じり合わぬ者同士。犬猿の仲と呼ぶにふさわしい、相容れぬ関係だった二人が相見えた。
この場にいる全員の頭の中で、二人の関係を象徴する言葉が何度も反芻される中、本田は淡々と語り続けた。
「藤沢社長は、現在Queen Beeが獲得している他団体のベルト。それを賭けた一大イベントを画策しているそうです」
言葉の一つひとつが硬く響き、空気に溶けず残る。壇上の本田を見上げる選手たちの視線が、一点に集中していた。
一同、その趣旨が掴めず、壇上の本田を見つめる。表情には、理解と不安とがないまぜになった複雑な影が差していた。
「鈴木研美選手が獲得したベルトの中に、KDP傘下の団体のものが含まれているそうです」
会議室の空気が、さらに冷たく引き締まる。数人が小さく息を呑み、誰かの指先が机を叩いた。その小さな音が、やけに耳に残った。
研美が対戦したKDP傘下の団体――喰い倒れプロレス、浪花衆からシングルベルトを奪取。そのため、両団体は現在、メインであるシングル戦を行えない状態にあるという。
そのことを危惧し、藤沢が話を持ちかけてきたのだと、本田は語った。その声音には、どこか皮肉にも似た響きが混じる。
(……あんたが絵を描いたんだろ……)
如月の胸の内で呟かれた言葉。その瞳は一瞬だけ細められ、冷たい光を宿した。
ベテラン勢としての立場を利用した、他団体との対抗戦。如月には、その裏にある駆け引きが手に取るように見えていた。
Queen Beeでは「他団体とは関わらない」という純潔思想を守るために、ベテラン勢が多岐にわたり活動する。
そして、自分たちの力を外で誇示しながら、リングの中で頂点を目指す。リングに立つという行為自体が、誇りと責務の表明だった。
――まさに団体のロゴにも刻まれた一言。
「リングを支配する者たち」
その文字が、今ほど重く響いた瞬間はなかった。
光沢のある壁面に掛けられた団体の旗が、空調の風にわずかに揺れる。その影が、まるで戦いの幕開けを告げる合図のように、会議室の壁をゆっくりと滑っていった。
そして本田が語る。
「そして今回、二本のベルトと、両団体のシングルベルトを賭けた一対一の対抗戦が決定しました」
ミーティングルームに、耳が痛いほどの静寂が広がる。誰もが息を止め、言葉の重みを飲み込んだまま動けない。空調の風がゆるやかに吹き抜け、紙の端がわずかに揺れた。
自分の体内でざわめく何かの音が、圧倒的に大きく感じられる中、心音が刻むリズムは、すべてを物語る。
――これは藤沢の画策どおりのシナリオなのではないか、と。
不安がよぎる中、研美が言った。
「要は関西さん、皇や私、それと如月が邪魔で、気に入らないわけですか?」
本田は頷きもせず、ただ静かに沈黙を保つ。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
目を伏せ、わずかに唇を引き結ぶ。反論の代わりに、その沈黙がすべてを肯定しているように感じられた。
藤沢が言う関連団体のベルト奪取は、あくまで名目上。本来の目的は、カヲルに代わるスター選手がQueen Beeの中で着実に息づいていること――それが気に入らない。
量、質共に、自分の中ですべて完結しなければ気が済まない。そんな社長だと、研美の言葉が物語っているようだった。
本田は少し間を置いて、ゆっくりとマイクに語り掛ける。表情には疲労の影が見えたが、その声には再び芯が戻っている。
「……あとひとつ。今回の対抗戦を機に、他団体との交流戦を積極的に行っていきます」
室内にざわめきが走る。
若手たちの顔に、驚きと緊張、そしてどこかに希望の光が浮かぶ。ベテランたちは黙してそれを見守る。新しい時代が動き出す気配を確信したように。
本田は続ける。
「この六年間で、Queen Beeという団体――そして、選手一人ひとりの持つ神秘性は十分に形になりました」
彼女の声は柔らかかったが、その言葉の端々には確かな決意が宿っていた。長く守り抜いてきた“象徴”を、今度は外へと解き放つという宣言だった。
「リングの上で学べることは、団体の枠を越えて存在します。外で揉まれ、見て、感じて、掴み取れ――それが今後の方針です」
その言葉は、これまで守り抜いてきた“純血”という殻を静かに破るものだった。誰もがその意味を理解していた。
それは新たな戦いの始まりであり、Queen Beeが変わるという宣言でもある。
そして如月が締めるように語る。
「それじゃ、とりあえず皇さんとのタッグはお預けで、俺がぶっ潰せばOKってことで」
如月の少し雑な口調でありながら、どこか頼もしさを感じさせる言葉に、選手やスタッフは少しだけ安堵した。
緊張の糸が一瞬だけ緩み、場にわずかな笑いが戻る。
そんな中、カナレはまるで自分のことのように、腕を組みながら自慢げな表情を浮かべる。
「なんでカナレが自信満々なんッスか?」
カナレがSAKEBIの脳天に軽くツッコミのようなチョップを入れるさなか、研美が如月を見据えて言い放った。
「その前に、まずは私だろ?」
研美が不敵に笑う。それに応えるように、如月も笑顔で返す。
二人の間では、すでに――戦いのゴングが鳴らされていた。




