第84話:静寂の経路
如月はいつも以上に疲労した表情で廊下を歩きながら、ミーティングルームへと向かっている。
足取りは重く、靴底が床を擦るたびに乾いた音が静かな廊下に響いた。
長い一日の終わり、照明の光が白く滲んで見えるほど、身体の芯まで疲れが染み込んでいた。
練習後、ベテラン勢8名のほか、皇、楓、正美。
そして、いつものメンバーである望月、島村、SAKEBI――計14名の施術を行った。
冷えたタオルの湿り気と、肌に残る色香が、今も指先にこびりついて離れない。
「時間がないから、私の部屋にみんな集まろうか」
皇の一言で、皆が部屋に集まった。
皇の部屋には、接骨院などで見るような業務用の立派な施術台が用意されていた。白いタオルが整然と畳まれ、ライトが一点を照らす。
その光の下で、如月はいつものように淡々と準備を始めた。
限られた時間の中、一人10分。
如月は意識を集中し、平常心を保ちながら施術を行っていく。
押す、伸ばす、ほぐす――といった単純な動きと並行して、体から感じる経絡の道を開いて行く。
筋肉の微かな震えと、息づかいのリズムを感じ取りながら、如月の手は迷いなく動く。
プロのリングで鍛え抜かれた身体たちを前にしても、如月の指先は正確に、必要な場所を探り当てていった。
皆、恥じらいもなく、その場で上半身をためらいなく脱ぎ始めた。タオルが滑り落ちる音、肌が空気に触れて生まれる微かな音。その自然すぎる動作に、如月は思わず目をそらしそうになる。
皇と楓に至っては、その場で全裸になろうとしたため、如月は慌てて止め「施術が始まるまではそのままで」と念を押した。
彼女たちの笑い声が室内に弾け、緊張が一瞬だけ和らぐ。
合計140分。重労働というほどではないが、気苦労のほうが多かった。
肩を回すたびに関節が鳴る。呼吸を整えながら、如月は施術台の上のタオルを静かに畳んだ。
施術を終えた望月たちが、如月に懇願するような表情で訴えてくる。
「これ、毎日してほしい……」
「ムチャクチャ気持ちよかったッス……」
その声音は、半分本気で、半分甘えのようだった。
如月は「暇な時ならな」と軽くあしらうが、本人たちは明らかに不満そう。少し離れたところでは、皇たちもどこか物足りない様子で如月を誘う。
「これから私と一緒にここで住むかい?」
皇の言葉は、笑いながらもどこか艶っぽく、悪戯のように響いた。冗談とも本気とも取れるその一言に、如月は絶句したまま、その場を去った。
廊下に出ると、ようやく深く息を吐く。
扉の向こうからは、まだ笑い声が漏れ聞こえてくる。その明るさを背中に受けながら、如月は静かに呟いた。
(……一生分の裸を見たような気がする……)
心の中で苦笑しながらも、胸の奥では微かな達成感と、説明のつかない疲労が渦を巻いていた。
――時間が過ぎたというのに、指先がまだじんわりと熱い。
如月の歩く先、ミーティングルームへと続く廊下の照明が、淡く、遠くに滲んでいた。
昼の熱気はすっかり消え、冷えた空気が頬を撫でる。その中で、わずかに残る体温だけが現実の名残のように感じられた。
その足取りはどこか重かった。
いつものメンバーのざわめきは聞こえない。足音がひとつ、またひとつと響いては、壁に吸い込まれていく。
如月は簡単に夕食を済ませた後、「少し仮眠をしたいから、先に行ってもらってもかまわない」と告げていた。
カナレも気を使って、ミーティングの時間まで望月たちの部屋で待機していた。
(……これはこれで、なんか寂しいもんだな)
いつもなら、カナレやSAKEBIが口喧嘩を始め、望月や島村が世話を焼きにくる。小さな騒がしさが、生活の呼吸のようにそばにあった。
だが今は、何もない。
無機質な壁と、ミーティングルームへ続く廊下が、やけに圧迫感を帯びている。
白く反射する床、均等に並んだ照明。
そこに漂うの雰囲気に静寂はなく、薄い孤独の膜だった。
蛍光灯の明かりも、いつもなら気にならないのに、なぜか狂おしく――そして、切なく感じられた。
如月の中にいる英二は、今まで感じたことのなかった疎外感を、全身で受け止めている。
それは、仮眠中に見た夢が尾を引いているのかもしれない――と肌で感じていた。
夢の中で、本当の如月の記憶を回想する。
この世界に来て最初のころはよく見ていた夢で、いつの間にか見なくなっていたもの。
特に気にすることもなく、いつしか脈絡のない、いつも通りの夢ばかりになっていた。
だが、久しぶりにあの感覚が戻ってきて、如月はわずかに動揺する。
夢の内容は覚えていなかった。
けれど――なぜか寂しかった。
一人で、どこまでも続く長い廊下を歩いている。
足音だけが響き、誰もいない。
時折、何かが背後から迫ってくるような虚無感が胸を撫で、それがどこか新鮮で、しかし、快感でもあった。
夢の空気には、削りたての焼けた鉄のような――あまり好ましくない匂いが漂っていたが、何故か懐かしく感じた。
目が覚めた今も、その残り香が鼻の奥にこびりついて離れない気がする。
如月は無意識に小さく息を吐いた。
その白い息が、照明の光に溶けて、ゆるやかに消えていく。
静かな廊下を進むたび、靴底が床を擦る乾いた音が響き、心のどこかが少しずつ遠のいていくようだった。
――この静けさが、どこか現実ではないように感じる。
そんなことを考えながら歩いていると、いつものにぎやかな若い娘たちの姦しい声が、遠くのほうからゆっくりと如月の耳にフェードインしてきた。
はじめは微かに、やがて笑い声や軽い口調が明確に形を持って届いてくる。
先ほどまでまとわりついていた妙な虚無感もあって、その声の賑やかさが、どこか懐かしく、そして少しホッとするような気がした。
ふとミーティングルームの入り口を見ると、カナレたちが入口付近で世間話をしていた。
その輪の中に灯りが当たり、明るい笑顔がいくつも浮かんで見える。すると、カナレが如月に気づいたのか、嬉しそうな顔で片手を大げさに振り「お~い!」と元気な声で呼んだ。
廊下に響いたその一声が、さっきまでの静寂を一瞬で打ち消す。如月の足が自然に止まり、胸の奥に温かなものが滲んでいく。
普段なら特に気にすることのない日常の一幕――。
なのに、その時だけは、カナレたちがいつも以上にかけがえのない仲間と思えた。まるで、遠い場所から帰ってきたような安堵があった。
「どうしたんだお前達?」
如月は、自分の中の妙な感情を押し殺してカナレたちに問いかける。その声には、わずかに照れと優しさが混じっていた。
望月が、やや呆れたように笑いながら答えた。
「先に入ってたら、あんたの席が確保できないでしょ?だから待ってたんだよ」
その言葉に、皆が如月の顔を見ながら柔らかく微笑む。
目と目が合うたびに、さっきまでの冷たい廊下が、少しずつ温度を取り戻していくようだった。
そして彼女たちは、自然な流れで一緒にミーティングルームへ入っていった。
「……なんか、いいもんだな」
如月が無意識につぶやいた言葉は、ほとんど息のように小さかった。
それでもカナレが「え?」と聞き返す。如月はばつの悪そうな顔で「なんでもない」とそっけなく答え、少し照れくさそうに空いている席へと腰を下ろした。
その背後で、カナレたちの笑い声が再び広がり、いつもの空気が戻ってくる。
ほんの数分前まで感じていた孤独は、まるで夢の中の出来事だったかのように、静かに溶けていった。
如月たちが席に着くと、壇上の端のパイプ椅子に腰かける本田の姿が見えた。いつもと違い、少し緊張した面持ちで目を閉じ、背筋を正して座っている。
薄い光が彼女の頬を照らし、その輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
その横には皇が座っていた。如月たちが通り過ぎると、皇は軽く会釈し、ニコリと笑顔で返した。
その笑みには、どこか張り詰めたものが混じっているようにも見える。
「全員揃ったか?」
壇上中央に立つ斎藤の低く通る声が、ミーティングルーム全体を静めた。選手およびスタッフ全員が集まったことを確認すると、斎藤は手元の資料を軽く叩き、演台のマイクへ身を寄せた。
空気が一段と引き締まる。
誰もが前を向き、椅子の軋む音さえ慎重に抑えている。
そして、斎藤が今回のミーティング内容を説明し始める。
NEXT QUEEN’S GATEが中盤戦を迎え、リーグ戦獲得点数第一位がカナレ――。その言葉が発せられた瞬間、ミーティングルームのあちこちから小さなどよめきが起こった。
カナレは腕を組み、意気揚々とした様子で座っている。椅子に深く腰かけ、どこか余裕を含んだ笑みさえ浮かべていた。
その姿が気に入らないのか、真後ろの席から十見子がやや鼻にかかった声で茶々を入れる。
「カナレさん!もう少し自覚を持った行動をしてくださいな!第五期生の沽券に――」
その言葉が最後まで言い切られる前に、カナレが片手をひらひらと振りながら、気の抜けた声で返す。
「へいへ~い」
ミーティングルームの一角に笑いが漏れ、張りつめた空気が一瞬だけ緩んだ。如月は思わず小さくため息をつきながら、目の端で二人を見た。このやりとりが、いつもの風景であることにどこか救われる思いもあった。
そして話題は、Bee Hive Championshipの内容に移った。
タッグに関しては王座変動はなく、依然として楓・正美組がベルトを保持している。
如月・カナレ戦以降、二人の戦い方は明確に変化した。ギフトを“使う”戦法ではなく、“使いこなす”領域へと進化し、その完成度はもはや他の追随を許さない。
観る者すべてを圧倒する静かな凶暴さが、彼女たちの動きの奥に宿っていた。
そんな中、次回の対戦相手が発表される。
「次回、BHCタッグ選手権。挑戦者は――山崎、藤堂組があたることになった」
斎藤の声に合わせて、照明がわずかに明るさを増すように感じた。
山崎と藤堂が同時に立ち上がった。立ち姿は真っ直ぐで、迷いがなかった。二人からは、ベルトを奪取するという確固たる意志が全身から滲み出ていた。
その視線の先にいる楓と正美。
椅子に座ったままの二人は、静かに笑みを交わし、挑戦を当然のものとして受け止めるような王者の風格を漂わせている。
だが、山崎と藤堂もその気迫に飲まれることはなかった。冷静さを保ちながらも、瞳の奥に燃えるような闘志が宿っている。
その熱は、ミーティングルーム全体をわずかに震わせるほどだった。
張り詰めた空気の中、次の瞬間に始まる戦いの気配が誰の胸にも、確かな輪郭を持って浮かび上がっていた。
そして次に、斎藤の口からBHCシングル王座の挑戦者が発表される。
「BHCシングル王座の挑戦権を得た者は――リーグ戦獲得点数第一位タイ、如月麗!」
その名が告げられた瞬間、場内の空気がぴたりと止まった。誰もが一瞬だけ息を呑み、次いで小さなどよめきが波のように広がっていく。
名前を呼ばれた如月は、静かに立ち上がる。背筋はまっすぐに、表情はいつものように飄々としていた。
だが、そのわずかな動作だけで、空気が一瞬で引き締まった。光の角度さえ変わったように感じるほどの緊張。
――静寂。
その静けさの中で、誰もが頭の中で思い浮かべていた。この対戦が、ただの防衛戦では終わらないことを。
BHCシングル王者・鈴木研美はベルト獲得後、Queen Beeでの対戦が限られていた。
だが、その代わりに他団体へベルトを持って上がり、全戦全勝。
彼女がリングに立つたび、観客は圧倒され、記録は神話のように積み上がっていった。
他団体での通算戦績――30戦無敗。
その数字だけで、語るまでもない支配力。研美を知る者は言う。
彼女は“女神に愛されし者”だと。
研美は、斎藤からの発表を特に気にすることもなく、笑顔で頷くだけだった。唇の端がゆるやかに上がり、その瞳には淡い光が宿っている。
それは絶対的な自信の静けさだった。
その様子を、壇上の横で座る皇が少し不安そうな表情で見つめていた。照明の反射が皇の頬を白く照らし、ほんの一瞬、まばたきが遅れる。
(……これでいいのだろうか)
その胸中に浮かぶささやきは、如月への不安だった。
如月は並の選手ではないというのが皇の忖度のない評価。
デビュー戦後、BHCタッグベルトを逃したものの、すべては計算のうち。楓と正美を翻弄し、チャンピオンとの勝負を意図的に操作するような規格外の選手。
その後も、若手の登竜門NEXT QUEEN’S GATEでは、豊作と呼ばれた5期生たちを相手に圧倒的な実力を発揮し、カナレと並ぶ一位。
それだけではない。
今までの如月の試合内容は、若手の域を逸脱した完璧な構築で、つけ入る隙のない“完成された領域”にあった。
まるで、彼女自身が1つの方程式のように、勝利を設計しているかのようだった。
専門誌やニュースでは「超新星現る」と報じられ、如月の試合内容は常にトップニュースとなる。
業界全体が「如月を起点として、女子プロレス界に新たなムーブメントが巻き起こる」と沸き立っていた。
――だが、その光の眩しさが、誰かの心を少しずつざわつかせていく。
皇は黙って手を組み、目を伏せた。
拍手が起こる音の中に、自分だけが取り残されているような錯覚を覚えていた。
――ただ形式的に鳴り響く拍手が、どこか遠くに感じられる。
その音が消えるたび、胸の奥の不安が、ジワジワと輪郭を持ち始めていた。
皇の胸中では、逆に不安が膨らんでいた。
如月の強さが、研美の中に眠る“なにか”を呼び覚ましてしまうのではないか――と。
あの静かに笑う研美の奥底で、かすかに揺れる影のようなものを、皇だけが見た気がした。
それは光と表情の間に潜む、ごく微かな違和感。人のものではない、なにか別の存在の気配。
(……もしそうなってしまったら……それはもう試合なんかじゃ……)
喉の奥で言葉が溶ける。
脈が速くなり、指先がわずかに震えた。けれど、皇はそれを悟られぬよう、両手をきつく組み直した。
皇の不安をよそに、斎藤は淡々と説明を続けていく。
彼女の声だけが、ミーティングルームに規則正しく響いている。
重ねられる言葉のひとつひとつが、まるで遠雷のように低く、ゆっくりと響いては消えていった。
如月は特に気にすることもなく、静かに聞いていた。
だが、その視線は壇上の本田に注がれていた。
説明の内容よりも、そこに漂う空気――何かを押し殺すような緊張感に、意識が向いていた。
(……この雰囲気、何かの前触れのような感じがする……)
如月は息を殺しながら見守る。
静まり返った空間の中で、時計の秒針の音さえ遠くに聞こえた気がした。
誰もが沈黙を守るその瞬間、わずかな視線の動きや、呼吸の揺れまでもが、異様に際立って見える。
本田の次の行動が、Queen Bee、そして女子プロレス界全体を震撼させる――。
そんな予感が、胸の奥を冷たく撫でた。
空気が、ほんのわずかに変わる。それを感じ取ったのは、如月だけではなかった。
――嵐の前の静けさ。
その言葉が、誰の意識にも浮かばぬまま、確かに会場の空気に宿っていた。




