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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第83話:静かなる序曲(プレリュード)

 昼食を終えたカナレは、いつも以上に元気だった。


 食堂の隅で椅子から立ち上がると、ストレッチでも始めるように腕をぐるりと回し、気合いの入った声で「ごちそうさま!」と笑う。


 その張りのある声が、湯気の残る食堂に軽やかに響いた。


 一方で、昼食の後片づけをしていた涼子の顔は、少しだけ元気がなかったように見える。


 皿を重ねる手つきがどこか慎重すぎて、笑顔の奥に疲れがにじんでいた。


 カナレのはしゃぐ姿を横目に、彼女はため息をひとつつき、次の鍋を洗い場へ運んでいく。彼女も二日酔いのようだった。


 カナレはというと、ジビエカレーとバター焼き――両方のメニューを平らげて、午後の原動力をしっかりとチャージしていた。


 皿を空にした後もなお、口の端に満足げな笑みを浮かべ、スプーンの柄で皿を軽く叩いていた。


 ――それから全選手本道場へ向かい自主練習に励んでいる。


 奥の方では、ベテラン勢が体内をめぐるアルコールを抜ききるといった表情で、ストイックにスクワットに精を出していた。


 額からは小さな汗がぽとぽとと床に落ち、呼吸が合わさるたびに「ハッ、ハッ」と短い音が響く。


 誰も言葉を交わさないが、彼女たちの顔には、前夜の酒の余韻と闘うような険しさが浮かんでいる。


 そんな中――研美だけは、まるでひとりだけ別の時間を生きているようだった。動きに淀みがなく、筋肉の収縮が音を立てるほどに冴えている。


 ストレッチ、プッシュアップ、ブリッジ、締めの連続スパー。


 ――すべてがスピーディーで、まるで前夜のアルコールなど存在しなかったかのようだ。


 汗の粒が光を反射し、額から頬を伝って落ちるたび、彼女の表情には達成感すら宿っていた。


 その様子を見ていたベテラン勢のひとりが、呆れ半分の顔で口を開く。


「あれだけ飲んだのに、なんで?……」


 息を整えながら、別のひとりが続けた。


「……ねぇ、研美、なんでそんなに元気なの?」


 その問いに、研美は一拍だけ動きを止め、髪をかき上げてから、すがすがしい笑顔で振り返った。


「如月のマッサージのおかげなんだよ!体の澱が全部出ちゃった感じで、食欲増進!ごはん三杯もお替りしちゃったよ!」


 その言葉に、ベテラン勢の表情がぱっと明るくなる。


 興味津々といった顔で顔を見合わせ、スクワットのリズムが微妙に乱れながらも、息を切らせつつ質問を続けていた。


 「え、そんなに効くの?」


 質問が飛び交うたびに、研美は笑いながら肩をすくめて、照れたようにタオルで首筋の汗を拭った。


 本道場の中には、再び明るい声と笑いが戻り始めていた。


 天井の高い空間に、床の軋む音と掛け声が反響し、熱気と汗の匂いが入り混じる。


 窓の外では午後の日差しがわずかに傾き、白いカーテンを透かして木漏れ日のように床に落ちていた。


 如月は、自分が話題に上がっているとは露知らず、黙々といつもの日課をこなしている。


 道場の壁際に立って、背筋を真っすぐに伸ばし、一定のリズムでスクワットを続けていた。


 足裏が床を踏むたび、微かな衝撃が脚から腰へ、そして背中へと伝わり、筋肉の震えが汗の粒を押し出していく。


 今日は火曜日。トレーニングは午後だけで、また20時には選手とスタッフを交えたシリーズ開幕戦に続くマッチメイクの発表が予定されている。


 そのミーティングでは、メインイベントの候補者や、BHC王者への挑戦権をかけた選手の選抜が行われる――。


 誰もがその事実を意識しており、道場の空気はどこか緊張をはらんでいた。


 ストレッチをする者、プッシュアップを繰り返す者、それぞれが黙々と自分の戦いに備えている。


 選手たちの短い呼吸が重なり合い、汗の香りがかすかに漂う。


 その中で如月は、他の誰よりも静かに、まるで心の奥まで沈み込むような集中を見せていた。


「本当にすごいんだって!テクニシャンだよ!」


 遠巻きに、研美の明るい声が響いた。笑い混じりのそのトーンが、張り詰めた空気に一瞬だけ波紋を広げる。


 如月はその声を耳にしながらも、顔を上げることなくスクワットの姿勢を崩さない。


 膝を曲げ、腰を落とし、ゆっくりと立ち上がる――その一連の動作の中に、如月の呼吸と心拍が見事に同期していた。


 久しぶりに訪れたこの“孤独な時間”を、如月はどこか楽しむように味わっている。


 汗が首筋を伝い、胸の奥にかすかな圧迫感が広がる。


 その感覚が、なぜか心地よい。集中の深みに沈むたび、世界の輪郭が薄れていく。


 心なしか、いつもより体の反動速度も速いような気がする。動きに無駄がなく、筋肉の動作がひとつひとつ研ぎ澄まされていた。


 こういう時は、できる限り体を消耗させた方がいい――。


 長年の経験でそれを知っている如月は、呼吸を整え、汗を振り払うようにさらにペースを上げた。


 マットを踏む音が強く響き、反復する動作がまるで鼓動のように本道場の空気を震わせていた。


「あんなの初めてだったよ……」


 研美の声が、遠くで聞こえる掛け声に混じって微かに響く。


 その一言が耳に触れるたび、如月は無心で課題をこなしながらも、自然と心の中でその声を反芻していた。


(……あんなの、初めて……)


 スクワットの上下運動に合わせて、心の中の声が波のように広がっていく。


 呼吸と鼓動がひとつになり、現実と記憶の境が曖昧になっていく。


「私、如月なしじゃ生きていけないかも……」


(……如月なしじゃ、生きていけない……)


 リズムを刻む脚が止まる。


 胸の奥で自分の名前が響いた瞬間、まるで誰かに肩を叩かれたような錯覚が走った。


 今まで一定だった動作のテンポが崩れ、息がわずかに乱れる。


「……ん?」


 思わず声が漏れ、如月は顔を上げた。


 汗が首筋を伝い落ち、頬の輪郭をなぞる。


 目を向けた先――ベテラン勢が集まる一角で、研美がこちらを探すように辺りを見回していた。


 ふと目が合う。


「お〜い、如月〜!ちょっとおいでよ〜!」


 研美の明るい声が本道場全体に響き渡る。その声が壁やロープポストに反射して広がり、張り詰めていた空気が一気に緩む。


 周囲の選手たちも、プッシュアップやストレッチの姿勢のまま顔を上げたりして、二人を交互に見始めた。


 視線が集まり、空間がざわめき始める。


 如月はスクワットをやめ、軽く息を整えてから小走りで研美の方へ向かった。床を踏むたび、足音が乾いたリズムを刻む。


 ――と、その背後で微かな気配が動いた。


 振り向くと、カナレのほかに望月、島村、そしてSAKEBIまでが、列をなすようにぞろぞろとついてきている。


 四人とも、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「なんだ?お前ら……」


 如月が眉を寄せて問うと、四人は顔を見合わせて「ニシシッ……」と含み笑いを漏らす。


 その笑いが、湿った空気の中で小さく弾けた。


 通りすがりに、十見子がリングサイドで藤堂に話しかけているのが目に入る。


 「ここでの立ち位置、もう少し内に入った方がよろしいのですか?」


 そんな真剣な声。


 藤堂は正美と同じく寡黙な性格だが、言葉を選びながら丁寧に説明していた。


 両手を軽く動かし、体の角度を示すようにジェスチャーを交え、口調にはわずかに熱がこもっている。


 普段は静かな藤堂が、指導のときだけ見せる“責任感の火”。その光景に、十見子も真剣な顔で頷いていた。


 その姿を横目に見ながら、如月は思わず小さく笑みをこぼす。


 そして再び顔を上げ、研美の待つベテラン勢の輪へと歩を進める。


 道場の中では、先ほどまでの静寂と熱気が混ざり合い、午後の光がゆるやかに傾き始めていた。


 窓から射す光が、マットの上に淡い橙の帯を作り、選手たちの肌の汗をきらりと光らせる。


 空気はまだ熱を含んでいて、遠くで誰かの息遣いとロープの軋みが重なって聞こえた。


 そんな様子を横目に、如月が研美のもとへたどり着くと、ベテラン勢はまるで何か待ち望んでいるかのように、期待に満ちた笑顔を浮かべていた。


 その視線を一斉に浴び、如月は一瞬だけ足を止める。


「あんた達、本当に仲良しさんだねぇ。なんだかやきもち焼いちゃいそうだよ」


 研美がからかい半分でカナレ達に告げると、周りのベテラン勢がクスクスと笑い出した。笑い声が輪を包み込み、少し甘いような、汗の匂いを含んだ空気に溶けていく。


 如月以外のメンバーは、頬をほんのり染め、照れ笑いを浮かべながら互いに目を合わせている。


「研美先輩。どうしました?」


 如月が少し首を傾げて尋ねる。研美はその声に応じるように一歩近づき、静かに如月の手首を取った。


 掌の温もりが肌に触れる瞬間、周囲の空気が一段と静まる。


 そして、研美はベテラン勢に向けて誇らしげに言った。


「みんな、これが神の手だよ」


 一拍の沈黙。


 次の瞬間、まるでその言葉を待ち構えていたかのように――。


 「おぉ〜!」


 歓声が一斉に弾けた。


 驚きと羨望、そしてどこか乙女めいた憧れの混じった声が、本道場の高い天井へと舞い上がる。


 笑い声と手拍子が交錯し、空気が一気に華やぐ。


 如月は、照れたように頬をかきながら「いやいや」と両手を振った。


 だが研美はその手を離さない。


 掌の温もりを確かめるように、ほんの少し力を込めて握ると、まるで“お墨付き”を与えるように高く掲げてみせた。


 光が射し込み、二人の輪郭が淡く浮かび上がる。


 汗に濡れた腕の筋がきらりと光り、その一瞬、本道場の空気が静止したように見えた。


 次いで、場の端から「ふっふ〜ん」と意気揚々だった。


 カナレが腕を組み、鼻高々に口角を上げていた。


 その様子は、まるで自分が“神の手”の師匠であるかのように誇らしげで、腰を少し反らせて仁王立ちしている。


「なんでカナレが誇らしげなんスか……」


 すかさずSAKEBIの鋭いツッコミが飛んだ。彼女の眉が跳ね上がり、口元には笑いをこらえたような癖のある笑み。


「えっ?ちょっと!」


 如月は気づけば、ベテラン勢にぐるりと囲まれていた。圧を感じて半歩下がるが、退路はすでにふさがれている。


 笑顔の中に混じる、妙な期待の光――。


 皆の視線が集まる中で、如月の頬にじんわりと熱が上がった。


 その様子を見ていた研美が、少し身をかがめ、中腰のまま覗き込むように言う。瞳の奥に、どこか子どものような頼もしさと甘えが混ざっていた。


「ねぇ、お願い……ミーティング前にちょっとでいいからさ、あのマッサージ頼むよ……」


 その声音は、命令ではなく、素直な懇願。ベテラン勢の何人かが息を呑み、顔を見合わせて小声で囁く。


「いいなぁ研美……」


「私もやってほしいなぁ……」


 そのさざめきが、まるで熱の伝播のように広がっていく。


 如月は、目の前の研美を見つめたまま、息を小さく吐いた。逃げ場を失ったような、けれどどこか笑いを含んだため息だった。


 ベテラン勢は、研美から如月の“矢戸散り(やとちり)”のことを聞いていたのか、手を合わせるようにして「お願い」と声をそろえた。


 その光景はどこか祭りのようで、本道場の一角だけが笑いと期待の渦に包まれていた。


 よく見ると、ベテラン勢の顔色はそろって悪い。額には薄く汗が浮かび、動作のたびにどこか重たげな息を吐いている。


 二日酔いの影響が抜け切らないのだろう。目の下にはうっすらとした影があり、笑いながらも頬の筋肉が微妙にこわばっていた。


 如月はそんな様子を見て、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。そして、気の毒に思ったのか、小さく息を吐いて言った。


「……練習後で良ければ、やりますよ」


 その瞬間、弾けるように歓喜の声が上がった。


「やったー!」


「助かる〜!」


「さすがハニー!」


 喜びの声が入り乱れ、手を叩く音が本道場に響く。


 如月はその喧噪の中で軽く頭を下げ、苦笑いを浮かべる。


「じゃ、あんまり喋ってると斎藤コーチに怒られるんで、戻りますね」


 その言葉に、ベテラン勢は慌てて口を押さえ、「あ、そうだそうだ!」と笑いながら手を振った。


 如月は彼女たちの見送りを受けながら、足早にもとの場所へと戻っていく。


 背後では、なおも楽しげな声が続いていた。研美の笑い声に混じって、カナレの甲高い声や、望月の軽口が響く。


 しかし、如月の耳には、それがだんだんと遠ざかっていくように感じられた。


 ふと立ち止まり、振り返る。


 そこには輪になって談笑するベテラン勢――だが、どこか違和感があった。


(……人数、増えてなかったか?)


 その場にいたのは確かに数人だったはず。


 けれど今見える輪の中に、見慣れた顔――皇、楓、正美――が混じっていたように感じたが、今はその姿は見えない。


 汗に揺らぐ光のせいか、それとも――。


 如月は眉をわずかにひそめたが、すぐに首を振って思考を断ち切った。


「……それにしても」


 息を整えながら、心の中でつぶやく。


 そもそも“矢戸散り”は、人を癒やすための技ではない。


 かつて、敵を静かに葬るため練り上げられ、今では忘れられた流派の技――。


 本来は「気を巡らせる」ではなく、「気を断つ」理。


 それを、二日酔いを治すために使うのかと――。


 如月は小さく苦笑を漏らし、肩を落とした。


 午後の光が、道場の床に長く影を伸ばしていた。その影の先に、これから始まる夜のミーティングと、思いもよらぬ“試練”の予兆が静かに横たわっていた。


 少しばかり疑問に感じながら歩いていると、望月たちが楽しそうに話している声が聞こえてきた。


「楽しみッスねぇ〜」


 弾むような声が本道場に響く。SAKEBIが、タオルを首にかけたまま満面の笑みを浮かべている。


「私、マッサージなんて受けたことないから緊張するよ」


 望月が少し頬を染めながら言うと、周りの空気が柔らかく笑いに包まれた。彼女の指先が無意識に髪をつまみ、期待と不安が混じった仕草を見せている。


「私もです……」


 島村が控えめに加わる。


 声は小さいが、耳の先まで赤くなっている。両手を胸の前で合わせてそわそわと揺れ、どこか乙女めいた雰囲気だ。


「滅茶苦茶気持ちいいぞ!私なんか寝つきが良くなったもん!」


 カナレが胸を張って断言した。


 腰に手を当て、やたらと誇らしげに言うその姿は、まるで自分が“施術師の師匠”であるかのよう。


 彼女達の声に道場の空気がまた明るく弾んだ。


 如月は、そんな賑やかな声を聞きながら、ふと現実に引き戻される。


「おい、まさかお前たちにもマッサージするのか?」


 顔を上げて言うと、四人は同時にこちらを見た。一瞬の間――それぞれが顔を見合わせ、口元に笑みを浮かべる。


 次の瞬間、息をぴたりと合わせたように、カナレ以外の三人が声を揃えた。


「お願いしま〜す!」


 響き渡る声。


 まるでコール&レスポンスのように、本道場の天井が少し震える。


 誰かが笑い声を上げ、隣のリングで練習していた選手が思わずこちらを振り返った。


 如月は額に手を当て、深いため息をつく。笑いながらも、その表情には“完全に観念した”色がにじんでいた。


 ――そして如月は、結局、全員の施術を行う羽目になった。


 その様子を見ていた研美が、遠くから「頼もしいねぇ、うちの救世主!」と笑い声を上げ、本道場の午後は、緊張の中にもどこか穏やかなぬくもりを取り戻していた。


 ――社長室。


 窓際のブラインド越しに、夕陽が斜めに差し込んでいる。


 橙に染まった光が、デスクの上の書類を柔らかく照らし、その影を長く伸ばしていた。


 時計の針が静かに時を刻み、部屋の中には低いエアコンの風の音だけが漂っている。


 本田が椅子に深く腰を下ろし、手元の資料を閉じた。数秒の沈黙のあと、彼女はゆっくりと顔を上げ、斎藤に告げた。


「――いよいよですね」


 短い一言だったが、その声音には確信と重みがあった。


 斎藤は腕を組んだまま、静かにうなずく。目の奥に宿る光が、一瞬だけ鋭く揺れた。


「これで……KDPも黙ってはいられないでしょう」


 言葉と同時に、斎藤は机に置いた拳をわずかに握りしめる。


 その仕草は抑えられた興奮と焦燥の入り混じったものだった。彼女の中で、すでに盤面は描かれつつある。


 下ろした手に力がこもる。


 拳の白い関節が光を受けて浮かび上がり、彼の横顔に深い影を作った。


 その表情は――勝負師の顔。


 躊躇ちゅうちょを捨て、結果だけを見据える者の、それだった。


「あとは……彼女次第ですね」


 本田が、ゆるやかに言葉を継いだ。目線を窓の方へ移し、立ち上がる。


 背後で椅子の脚が床を擦る音が、短く響いた。


 彼女は窓辺に立ち、ブラインドの隙間から外を見やる。


 夕陽はすでに山の端へと傾き、ビル群の輪郭を金色に縁取っていた。


 その光景を見つめながら、本田の胸には、これから始まる一大イベントの構想が浮かんでいた。


 ――すべての視線を惹きつけ、業界を揺るがす一夜。


 その中心に立つのは、あの少女。


 如月麗。


 その名を思い浮かべた瞬間、彼女の無垢な笑顔と、リング上での冷徹な眼差しが脳裏に交錯する。


 本田は、知らず知らずのうちに唇を引き結んでいた。


 まだ誰も知らない。


 この瞬間、運命の歯車が静かに動き出していることを――。


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