第82話:五月の静かな修羅場
ビーッ!ビーッ!――。
金属的な電子音が、薄闇を切り裂くように響いた。
寮の一室。
まだ夜の名残を残す朝五時、窓の外は群青から橙へとわずかに移ろい始めている。その境目を縫うように、目覚まし時計のLEDが赤々と点滅していた。
いつも電子音で起こされるのは如月の方だ。
「う~ん……たまには自分で止めろよな……」
寝ぼけ声でぼやきながら、枕元に手を伸ばす。
だが音は止まらない。むしろ壁や床を震わせ、耳の奥にまで刺さるようだ。
今、部屋でけたたましく鳴り響いているのはカナレの目覚まし時計。
市販されている中でも“最強の音量と音質で必ず起こす”という触れ込みの代物。まるで工業用サイレンが部屋に放り込まれたような騒音だ。
如月は顔をしかめ、眉間を押さえながら上体を起こそうとした。その瞬間、胸のあたりに重みを感じる。
柔らかく、しかし確かな重み。
人の体温。呼吸のリズム。
――何かが、抱きついている。
「……またカナレか?」
寝ぼけ眼のまま、腕に絡みつく“何か”をそっと外す。だがその腕は予想以上にしなやかで、肌の感触が違った。
微かに酒の香りが鼻先をかすめる。
――如月の脳裏に、瞬時に“違和感”の赤ランプが灯った。
布団を勢いよくめくる。
「なんだ!?」
その言葉が喉の奥で凍りついた。
――そこにいたのは、研美だった。
白いシーツの上、微かな朝の光を受けて、研美の髪が金糸のように広がっている。
静かな寝息を立てながら、頬にはほんのり紅が差し、唇がかすかに開いていた。如月の胸元に伸ばした腕は、まだ温もりを残している。
あまりに現実離れした光景に、如月は言葉を失い、ただ固まった。外では鳥の声が鳴き始めている――が、その音さえも遠く霞んで聞こえた。
「と……研美先輩っ!?」
喉の奥で引っかかるような声が漏れた。
如月のベッドの上で、研美は眠っていた。何も身に着けず、白いシーツの波の中に、裸身を沈めて。
肩口から滑り落ちた布団の隙間から、淡い肌がのぞく。長い髪が頬にかかり、寝息のたびにわずかに揺れる。
その呼吸がシーツの上の影を静かに膨らませ、引いていく。
――まるで、現実が数秒遅れてやってくるようだった。
「……っ!」
如月は慌てて身を翻し、視線を逸らすと、勢いよく布団を引き上げて研美にかけ目覚ましを止めた。
バサリ、と音がして、布団の端がふくらみの形をぼんやりと映す。耳の裏まで一瞬で熱くなる。
「う……う~ん……」
布団の中から、寝言とも色香ともつかない声が漏れた。その柔らかな響きが耳朶をくすぐり、如月は思わず固まる。
外ではまだ朝の風が冷たく、カーテンの隙間から差し込む光が部屋の中に一本の筋を描いていた。
それが、布団のふくらみに淡くかかっている。
「……なんだぁ……」
そのとき、隣のベッドで寝ていたカナレが、如月の声に反応してもぞもぞと起き上がった。寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃと掻きながら、眠たげに目をこする。
そして――目の前に立ち尽くす如月と、その背後にある“異様な光景”に気づいた瞬間、まばたきを止めた。
「……何だ?この布団のモッコリは……」
カナレは布団を引きずるようにしてベッドから抜け出し、如月の方へ数歩近づいて、顔をのぞき込む。
如月の頬は、トマトのように真っ赤だ。
さらに視線をベッドへ移す。
「ありゃ?トガミ先輩だ。なんで?」
そのあまりにも平然とした口調に、如月のこめかみがぴくりと動いた。
「俺が聞きたいよ……!」
声が裏返る。
羞恥と混乱と、どうしようもない現実感の薄さ。カナレの呑気な反応が、それらすべてを逆撫でするようだった。
部屋の空気が一瞬で目覚める。電子音の残響がまだ耳の奥で鳴っている気がした。
カナレは、まだ寝癖の残る髪をかき上げながら、のそのそと玄関の方へ歩いていった。
足の裏がフローリングをペタペタと打つ音が、静まり返った朝の空気に小さく響く。
「おい、如月っち!こっちに服が脱ぎ捨ててあるぞ!」
如月は思わず顔を上げた。
玄関の先には――まるで風に吹かれたように、研美の服や下着が無造作に散乱していた。
シャツ、ジーンズ、そして見慣れぬレースのランジェリー。どれも昨夜の出来事の証拠のように、淡い朝光を受けて床に落ちている。
「ちょ、ちょっと待て!――」
制止の声よりも早く、カナレはしゃがみ込み、ひょいとブラジャーをつまみ上げた。
指先でカップの形を確かめながら、フムフムと納得したように頷く。
「ほぇー……私より大きいぞ」
その無邪気な一言に、如月は頭を抱えた。この状況のどこに冷静な分析が必要だというのか。
とにかく今は――“このケイオスから脱出する”こと、それが最優先だった。
「……もういい!とりあえず外に出よう!」
焦り気味に立ち上がる如月。
しかし、先にドアへ向かったのはカナレだった。彼女はレバーを握りながら、不思議そうに首をかしげる。
「どうやって入ってきたんだ?」
レバーを下げると、軽い音を立ててドアが開いた。冷たい廊下の空気が、部屋のぬるい温度を押しのけるように流れ込む。
如月は外に出るなり、大きく息を吸い込んで深呼吸をした。肺の奥まで冷気が入り、頭のぼんやりが一瞬だけ晴れる。
「あっ!?」
そのタイミングで、カナレが突然のけぞるように声を上げた。
「ゴホッ、ゴホッ!……な、なんだよ急に」
咽る如月が振り返ると、カナレはドアの錠前部分を指さしている。その表情は、いつもののんきさとは違い、少し真剣だった。
「鍵の……ぴょこっとしたのが出てこない」
如月も身を寄せて覗き込む。
金属のデッドボルトが、引っ込んだまま微動だにしない。カナレが軽くドアを押すと、内部のラッチがカチャリと鳴った。
「……おかしいな」
如月は試しにレバーを回してみる。内側だけでなく、外側からも――スムーズに動く。
「外からもレバーが回る……」
二人は無言で顔を見合わせた。
――部屋の鍵が壊れていた。
ドアの隙間から、微かに吹き込む朝風が、床に散らばる研美の衣服をひらりと揺らした。
その光景を見て、如月の胸の中で“嫌な予感”だけが、じわじわと膨らんでいった。
喉の奥が重くなり、息を呑むたびに冷たい空気が肺の奥で鈍く広がる。
――何かが噛み合っていない。
そんなとき、カナレがぽんと手を打った。
「そういえば昨日、カードキーを近づけた時、“ピッ”て音はしたけど、鍵が開く音しなかったな……」
その言葉を聞いた瞬間、如月の顔から血の気が引いた。思考より先に、膝が勝手に折れていた。その場にしゃがみ込み、口を開けたまま、声にならない息を漏らす。
カナレはようやく自分の失態に気づいたらしく、申し訳なさそうに眉を下げ、「……ごめん」と蚊の鳴くような声で言った。
沈黙。
廊下のどこかで、誰かの目覚ましが遠く鳴っている。朝がゆっくりと建物全体にしみ込んでいくようだった。
――とにかく、この状況をどうにかしないと。
如月は深呼吸をひとつして、顔を上げた。膝の上で握った拳に少しだけ力を込め、立ち上がる。
再び部屋へと戻る背中に、カナレが気まずそうに続いた。
扉を開けると、部屋の空気はまだ夜の余韻を残していた。カーテンの隙間から差す光が、薄く埃を照らし、その真ん中――如月のベッドでは、研美がすやすやと眠っている。
長い脚が布団からはみ出し、かかとが冷えた空気を切っていた。その姿は、まるでこの混乱を象徴しているようでもある。
「研美先輩……起きてください」
如月がおそるおそる声をかけると、布団の中から低い寝息が返ってきた。次の瞬間、研美が「ん……」と小さく唸りながら、ゆっくりと上半身を起こす。
半ば寝ぼけたまま髪をかき上げ――白い肩が朝の光を受けて滑らかに光った。
その動きにつられて、布団がずれ、柔らかな起伏があらわになった。
「せ、先輩っ!ストップ!」
如月は反射的にカナレのベッドから布団を引きはがし、勢いのまま研美にかけた。
布団の山がもぞもぞと動き、研美の声がその中から漏れる。
「……あれ?あんた達、なんで私の部屋にいるの?……」
研美の声はまだ眠りの余韻を引きずっている。焦点の合わない目で如月たちを見上げ、そのまま首を傾げた。
如月とカナレは、なんとも言えない顔で見つめ合う。沈黙のあと、如月が小さくため息をつき、絞り出すように答えた。
「ここ……俺たちの部屋ですよ……」
「……え?」
研美はぼんやりと視線をさまよわせ、部屋を見渡した。机の上のカナレのぬいぐるみ、窓際のトレーニング用ゴムバンド、そして散乱した自分の服。
理解が追いつかないといった顔で、再び如月を見る。寝起きのぼんやりとした瞳に、かすかな焦りと戸惑いが浮かんだ。
だが――それ以上に混乱していたのは、この部屋の正当な持ち主である如月とカナレの方だった。
ただ一つ確かなのは、この不可解な朝が、すでに「普通の一日」ではなくなっているということだった。
その後、研美はシャワーを借りた。
浴室の扉の向こうから、シャワーの音が一定のリズムで響いてくる。タイルを打つ水音が、まだ冷えた朝の空気に反射して心地よく聞こえた。
やがてドライヤーの風の音。
数分後、濡れた髪をタオルで押さえながら、研美が戻ってきた。
脱ぎ捨てられていた服や下着は、きちんと畳まれてリュックの中にしまわれている。
研美はそのリュックから取り出したジャージに身を包み、どこか気まずそうに肩をすくめて立っていた。
「……ほんと、ごめんね」
申し訳なさそうに、二人へ深く頭を下げる。その声はかすかにしゃがれ、昨夜のアルコールの余韻をまだ引きずっていた。
聞けば――昨日、涼子と一緒に山北の店「人間爆弾」で、ベテラン勢や涼子の部下たちと飲み明かしたらしい。
山北がイノシシのお礼として、秘蔵の日本酒コレクションからお気に入りを数本、太っ腹に振る舞ってくれたらしい。
さらに涼子が持参した高級ワインを開け、“日本酒とワインのハイブリッド地獄”が完成したとのこと。
「……最初はね、みんなで『ちょっとだけ』って言ってたんだよ。気づいたらボトルが何本も転がって……」
苦笑まじりにそう語る研美の目は、どこか遠くを見ていた。夜中の2時まで飲んでいたのは覚えているが、その後どうやって寮まで戻ったのか、記憶がまるでないらしい。
「いやぁ……久々にやらかしたな、私……」
そう言って、床に正座したまま再び頭を下げる。
如月は思わず肩をすくめて笑い、苦笑いを交えながら手を振った。
「いや、気にしてませんよ。怪我もなかったみたいですし」
その声には、本心からの安堵が混じっていた。あの状況で誰も大きなトラブルにならなかったこと――それだけで十分だった。
如月の促しで、研美はようやく正座を崩し、椅子に腰を下ろす。その瞬間、彼女の肩が小さく揺れた。体内で何かがまだ揺れているようだった。
「頭がくらくらするよ……」
額に手を当て、目を細める研美。顔色は悪く、唇の端がわずかに乾いている。アルコールの残り香が、まだ肌の奥から立ちのぼるようだった。
幸い、今日の練習は午後からだ。今から休めば酒も抜けるだろう――と如月は研美に答えた。
だが、そう言うそばから研美の顔色はどんどん青ざめていく。
「トガミ先輩、大丈夫か?」
カナレが声をかけると、研美は小さく頷きながら、無理に笑顔を作った。
その笑みは、いつもの朗らかさとは違い、どこか力の抜けた――頼りない笑みだった。
「ん、大丈夫……ちょっと、世界が回ってるだけ」
軽く言いながらも、その声の端がかすかに揺れている。椅子の背にもたれた研美の指先が、テーブルの縁を探るように、ゆっくりと動いた。
爪が木の表面をかすめ、小さく擦れる音が、妙に部屋に響く。
その姿を見つめる如月の胸に、不安が広がっていく。
――明らかに、タチの悪い二日酔い。
沈黙を破ったのは、唐突なカナレの声だった。
「そうだ!如月っち!あのマッサージだ!あれやったら治るんじゃないか?」
思いついたように手を打つカナレ。彼女の声の明るさが、場の空気をほんの少しだけ動かした。
天地合戦術――「矢戸散り(やとちり)」
本来は、相手の経路を操作して、呼吸や血流、神経の動きを狂わせて絶命させるという秘術。その理合いは活殺自在とされるが――。
まさか二日酔いの治療に使う日が来るとは思わなかった。
如月は半信半疑のまま、研美を自分のベッドへと誘導した。研美は素直に従い、ふらつきながらもベッドに腰を下ろす。
そのまま仰向けになろうとして、ふと手を止めた。
「邪魔そうだから、上脱ぐよ」
「えっ、ちょ――」
言葉が終わるより早く、研美はジャージを迷いなく脱ぎ捨て、うつ伏せになると、腕を枕にしてすうっと息を吐いた。
その動作があまりにも自然で、如月は逆に動けなくなる。
部屋の空気が一瞬で静まり返る。空調の低い唸りだけが、遠くでくぐもって聞こえた。
如月は、素肌に直接触れるのはさすがにまずいと判断し、押し入れからタオルケットを取り出す。
軽く振って空気を含ませてから、そっと研美の背にかけた。布が肌に触れる瞬間、わずかに息が揺れる。
「……それじゃ、始めますね」
如月の声は、どこか慎重で、どこか覚悟めいていた。指先に意識を集中させ、呼吸を整える。
目の前では、研美が静かに目を閉じ、そのまま委ねるように体の力を抜いていた。
如月の言葉に応えるように、研美はうつ伏せのまま小さく頷いた。
そして――施術が始まった。
部屋の空気がゆっくりと変わる。窓の外からは、朝の風がカーテンをわずかに揺らす音。
空調の低い唸りが、一定のリズムで響いている。その中で、指先が研美の背をなぞるたび、タオルの下から小さな呼吸の音が漏れた。
カナレは特にやることもなく、自分のベッドに腰を下ろし、歯ブラシをくわえたままその様子を眺めている。
研美の長い髪がシーツの上にこぼれ、それがゆっくりと動くたび、光の筋がやわらかく揺れた。
「う……う~ん……」
かすかな吐息が、タオルの下から洩れる。その声が思いのほか色っぽく、如月の手がぴたりと止まった。
「だ、大丈夫ですか?痛いです?」
慌てて尋ねる如月。
しかし研美は、かすかに首を振り、続けてほしいとでも言うように、背中をわずかに沈めた。
(……平常心、平常心……)
心を落ち着けようとするが、鼓動は正直だった。 指先に伝わる体温と、肌越しの呼吸。
そして、再び漏れ出る声。
「あ……あぁ……すごい……ソコ、イイ……」
その声が、静かな部屋でやけに響いた。
知らない人が聞いたら完全に誤解される――そう思いながらも、如月は手を止めることができない。
研美の呼吸が少しずつ深くなり、タオルの下で背中がゆるやかに波を打つ。如月は必死に技の手順を思い出しながら、指の角度を調整した。
そんな緊張をよそに、カナレは洗面所へ向かう。歯ブラシをくわえたまま、足音をパタパタと鳴らして如月の背後を通り過ぎ、蛇口をひねる音がして、コップの中で水が軽く跳ねた。
口をゆすぐ音と、研美の吐息が重なり合う。静かで、妙に騒がしい朝だった。研美の声はさらに激しくなる。
「あっ、あっ!気持ちいぃ!それ、気持ちいぃよぉ!」
部屋の空気が、一瞬にして張りつめた。息の切れたような声が響き、如月の指先が固まる。喉の奥がカラカラに乾き、思わず動きを止めた。
「……っ」
鼓動の音だけが耳の奥で響く。指先に残る体温と呼吸の余韻が、生々しく掌に焼きついていた。
たまらず、如月は手を離した。
布団の中で、研美がゆっくりと顔を上げる。半分眠たげな瞳で、まっすぐ如月を見つめながら言った。
「どうしたんだい?もう終わり?」
柔らかな声。その表情は、どこか物足りなさそうだった。対照的に、如月の胸中はぐちゃぐちゃだ。
(……こんなの、生殺しじゃねえか……)
深く息を吐く。理性をなんとかつなぎとめ、再び姿勢を正す。仕方なく、施術を再開することにした。
そのとき、洗面所から水音が止み、カナレが軽い足取りで戻ってきた。如月の背後に立ち、何かを思い出したように口を開く。
「SAKEBIの忘れ物」
その言葉とともに、カナレが手を伸ばし、如月の耳にそっと何かを差し込んだ。
小さな柔らかな感触――耳栓だ。
カナレの手元を見ると、透明なケースが握られていて、英語のロゴが刻まれている。どうやらカナレと同室だった頃、SAKEBIがいびき対策用に買った海外製の強力な耳栓らしい。
外の音が一瞬で遠のいた。世界が水の中に沈んだような静寂。
ただ、自分の呼吸と鼓動だけが鮮明に響く。
如月は振り返り、カナレに「ありがとう……」と頭を下げた。カナレは親指を立ててにこりと笑い、そのままテレビのリモコンを手に取る。
リモコンを押す音がやけに乾いて部屋に響いた。テレビの画面が青白く光り、朝のニュースが流れ始める。日常の音が、場の空気を少しだけ現実に引き戻した。
カナレは自分のベッドに腰を下ろし、足を組みながら他人事のように言った。
「これで集中できるって……あ、聞こえてないか」
カナレの声が遠くかすんで消える。
如月は小さく苦笑を浮かべた。
耳栓の奥では、自分の鼓動だけがはっきりと響いている。まるで太鼓の音のように、静かなリズムを刻んでいた。




