第81話:湯気の向こうの夜
食堂は、いつも以上の活気に包まれていた。
湯気が立ちこめ、照明の光が白く滲む。金属の鍋がカン、と鳴るたび、食器の音と笑い声が混じり合い、まるで小さな祝祭のようだった。
「たくさんあるからね!みんな遠慮しちゃだめだよ!」
涼子の威勢のいい声を発端に、皆が手を合わせた。その声に誘われるように、箸が一斉に動く。
「いただきま~す!」
食堂に、元気な声が響き合った。壁が微かに振動し、湯気の向こうで誰かの笑い声が弾ける。
しゃぶしゃぶを始める者もいれば、牡丹鍋に丁寧に肉と野菜を入れる者、両方同時に入れる者――。
テーブルごとに違う香りが立ちのぼり、出汁の音、肉が煮える小さな泡の弾ける音が絶え間なく続いていた。
それぞれの食欲が、今まさに弾けようとしている。
「うっまぁ~い!」
最初の一口を頬張ったカナレが、思わず声を上げた。
その声を合図に、次々と「うまい!」「最高!」と歓声が続く。全員がイノシシ料理を堪能している。
「これ!マジやばい!」
望月は、目を丸くしながら口の中で何度も噛みしめる。脂の甘みと野性味のある香りが舌に広がり、思わず頬が緩んだ。
彼女は初めて本物の命ある肉を食べて、興奮を抑えることができずにいた。
島村に至っては、何もしゃべることなく、黙々と牡丹鍋を味わっている。鍋から立ち上る湯気が彼女の頬を赤く染め、目だけが真剣に出汁の中を追っていた。
「なんだこのゴマダレ?うますぎるだろ!?」
如月はしゃぶしゃぶを味わいながら、涼子の味に驚愕の声を上げた。
白ごまの香りと柚子のほのかな酸味、そしてだしの旨味が絶妙に絡み合う。肉をくぐらせるたびに立ちのぼる湯気の向こう、涼子が満足げに腕を組んでいた。
「これもうめぇっちゃうめぇけどよ、じいちゃんと食う牡丹鍋にゃ敵わねぇっぺ!」
十見子が牡丹肉にかぶりつきながら語った言葉に、北関東の香りが食堂にただよった。
いつもの無理な言葉使いはなかった。
噛みしめる瞬間、彼女の中からぽろりと“素”がこぼれ落ちたのだ。
普段は丁寧な「ですわ」口調で通している十見子だが、その響きには、どこか懐かしい故郷の土の匂いが混じっていた。
ほんの一瞬、鍋の湯気の中に、育った土地の方言がふっと浮かび上がる――そんな温かな瞬間だった。
湯気の向こうで、彼女の頬には脂の光が反射している。
噛みしめるたびに、肉汁がほとばしり、ほっぺたが落ちそうな顔で「うめぇ」を繰り返す。
近くにいた選手たちが「えっ?」と反応すると、我に返り十見子は箸を止め、顔を真っ赤にして慌てるように言葉を言い直した。
「そ……それにしても、初春のイノシシなのに脂がのってますわね?」
場の空気を整えるように微笑みながらも、方言の名残がまだ抜けていない。
照れ隠しにお椀を口元へ運ぶ仕草が、どこか可笑しく、周囲から小さな笑いが漏れた。
その言葉に、研美が嬉しそうに答えた。
「うちの山は森盧の麓に近いから。あそこの動物は普段色々食べてるからね。年がら年中丸々太ってんだよ」
研美の声は穏やかで、どこか誇らしげだった。野山をよく知る者の語り口に、食堂のざわめきが少し落ち着く。
うんうんと頷きながら、箸とお椀を片手に咀嚼するカナレの姿を見て、研美がにこりと笑う。
カナレの頬は幸せそうにふくらみ、白いご飯の粒が唇の端につく。それを袖で拭う仕草さえ、どこか子どものようだった。
そして、白米を勢いよく食べると、少し離れたところで美味しそうにしゃぶしゃぶを食べ、ご満悦の十見子をからかった。
「おいゾビ子!そんなにがっつくと太るぞ!今度山に行ったらお前が狩られるかもな!」
カナレの言葉に、十見子の眉がピクリと跳ねる。今にも立ち上がりそうな勢いだったが、隣にいた正美が片手で制した。
静かな仕草なのに、その手には確かな圧がある。
十見子は口を尖らせたまま、ふいに視線を落とした。
そして、かすかで細いのに不思議とよく通る声で、全員に応えるように言った。
「……いっぱい食べても、ちゃんとトレーニングすれば問題ない……」
その言葉のあと、一瞬だけ、場が静まり返った。
しゃぶしゃぶ鍋の小さな泡の弾ける音だけが、かすかに耳に残る。
けれど次の瞬間には、誰かの笑い声と共に、また湯気の向こうのざわめきが戻ってくる。
温かい空気が広がり、食堂の灯りが揺らめく湯気に反射して、まるで小さな焚き火のようだった。
十見子の頬にはほんのり紅がさし、しゃぶしゃぶの湯気がそれを包み込んでいた。恥ずかしさを隠すように箸を動かす手が、少しだけ早い。
正美の取り皿には、肉と野菜が見事な配置で盛られている。赤、白、緑、黄金色。
――彩りはまるで意匠のようで、整いすぎているほどだった。
その配置はまるで、一流料亭の板前が計算しつくした盛り方のようだったが、量が尋常ではなかった。
取り皿も、どちらかというと大皿。まるで自分に言い聞かせるような言葉でもあった。
“食べても平気”――その言葉を、ほんの少し信じたいのだ。
そんな正美の顔を正面で見ている皇と、その横の楓が苦笑いを浮かべるが、二人の取り皿にも通常より多く盛られている。
笑みの奥にある“分かってるよ”という優しさが、柔らかな灯の中に滲んでいた。
牡丹鍋の出しを吸った黄金色に染まるネギを愛おしげにつまみ、口に運ぶ研美が言った。白い湯気が彼女の髪をゆらし、ゆるやかに笑みを描く。
「あぁ……こんなの食べちゃうと、やっぱりお酒が欲しいねぇ……」
その言葉に如月たちが反応した。
取り皿を口元まで持っていきながら、同時に背筋をぴんと伸ばし、細い目で研美を見つめる。
「……駄目ですよ、先輩……」
如月がたしなめるが、研美の顔はどこか不満げであった。笑みを浮かべながら、しかし目の奥はほんの少し名残惜しそうに揺れている。
香り立つ湯気の中で、アルコールの幻を追うように――。
そのとき、調理場の方から涼子の声が響く。
金属の蓋を置く音と、出汁の煮立つ低い音の合間を縫って、張りのある声が通った。
「研美、結構量があるから、山北のおとっつあんにも上げていいかい?」
湯気の向こうで、研美が顔を上げる。頬には少し火照りが残り、箸の先から湯気がゆるやかに立ち上っていた。
解説の山北はジム経営のほか、近くで居酒屋も営んでいる。
居酒屋・人間爆弾。
カウンターには木の年輪が浮かび、壁には地酒のラベルがずらりと並ぶ。
旬の幸と地酒が豊富で、地元に愛される憩いの場でもあり、Queen Beeベテラン勢御用達の店。
夜な夜なレスラーたちと地域住民の笑い声が響くその店の名を聞いただけで、何人かが顔をほころばせた。
涼子や研美もお世話になっている店でもあり、研美は断るはずもなく、「どうぞ!」と微笑みながら答えた。
「よし!それじゃ、久しぶりに飲みに行こうかな~。行きたい人!」
涼子の声に反応して、研美を含めたベテラン勢が全員手を上げる。食堂の空気が一気に明るくなり、笑い声が弾けた。
すると、なぜかカナレも反射的にぴょこんと手を上げていた。
「おいおい、カナレ~。あんたなんか連れてったら斎藤さんに殺されちまうよ」
涼子が茶化すように言うと、周囲からどっと笑いが起こった。
カナレは訳も分からず条件反射で手を上げただけで、頭をかきながら苦笑いしている。その表情がまた、みんなの笑いを誘う。
笑い声と食器の音が重なり、食堂は柔らかな熱気に包まれていた。
外では初春の風が吹く。
窓の外の竹がさらさらと揺れ、夜の空気がほのかに冷たい。
これから本格的に始まるシリーズに向けて、皆、食事を楽しみながら英気を養い、本番に備えていた。
その空気は、まるで嵐の前の静けさのように、どこか張りつめた温度を帯びていた。
食事も終わり、研美や涼子に感謝した若手が代わりに後片付けを率先してやっている。
数名の若手は、食堂の机を一生懸命拭いていた。木目の表面を布巾が滑るたび、ほのかな出汁と肉の香りがまだ残っている。
遠くで換気扇が低く唸り、夜の食堂に「日常」が戻りつつあった。
そんな中、カナレと十見子がまた言い合いを始める。
皿の音や布巾の擦れる音の中に、二人の甲高い声が混ざり、どこか漫才のようなテンポで響いた。
若手の何人かが、あきれながら作業を続けている。
その声を聞きながら、洗い場では如月と望月が皿を洗っていた。
蛇口から流れる温水の音と、食器が触れ合い、軽い音の静かなリズムを刻んでいる。
「またか……」
呟く如月は、横目でSAKEBIを見る。
SAKEBIは湯気の立つ皿を器用に受け取り、布で拭き上げながら、手際よく所定の棚に次々としまっていく。
動きには迷いがなく、まるでレストランの一員のようだった。
「手慣れてるな」
如月の言葉に、SAKEBIが軽い調子で答えた。その声は水音の中でもよく通る、明るい音色だった。
「僕の家、客船でディナーショーとかするんで、よくお姉ちゃんとバイトで皿洗いしてたッス」
SAKEBIの父親は、Queen Beeを支える四翼会のひとつ――太平洋連合の代表取締役・東城季吉。
れっきとした財閥令嬢でありながら、そんな彼女が“バイト”という言葉を軽やかに口にする。
言葉と同時に、彼女の指が皿の縁をすべらせ、鏡のように磨き上げる。湯気に光が反射し、磨き上げられた陶器の面がふわりと白く光った。
その手際の良さに、如月は思わず見とれてしまう。皿を拭く動作が美しく、無駄がなかった。
如月は若いのに感心しながら、うんうんとうなずき皿を丁寧に洗う。流れる水が指を打ち、泡が弾ける。
油の膜が剥がれる瞬間の、微かなぬるりとした感触――その一つひとつを、如月は確かめるようにこなしていた。
如月の後ろでは数名の涼子の補佐をする調理人たちが、床掃除を淡々とこなしていた。
厨房服から清掃用の作業着に着替え、防水エプロンを身にまといながら、ごしごしと力強く床を磨く。
ブラシと床の摩擦音が規則的に響き、作業のリズムが心地よく空間を満たしている。
その体からは、調理人ではまず得ることのできない“完成された肉体”が、作業着越しでもはっきりとわかった。
動くたびに肩が波打ち、腕の筋が浮かぶ。
光沢を帯びた床の上に、その影がゆっくりと伸びていく。
磨かれた床はまるで水面のようで、動くたびに微かに反射した光が天井を揺らしていた。
――元・Queen Bee所属の選手。
今は〈ハニーハンド〉として、選手たちの健康を食事で支えている。モップを握る手には、かつてロープを掴んだ選手特有の硬さと記憶が残っている。
その背には、筋肉ではなく“生き方”で築いた厚みがあった。
レスラー時代はどんな選手だったのかと如月が考えていると、ふと一人の調理人が頭を上げた。
お互いの目が合い、マスク越しで表情はわからないが、眼だけでにこりと如月に微笑む。
その一瞬、空気がふっと張りつめる。
微笑みの奥――目の奥には、リングで鍛え上げた者だけが持つ、研ぎ澄まされた“間”の気配があった。
如月はその微笑みの奥にある目から、ただならぬ気配を感じながら、黙々と皿を洗った。
水流の音が静かに響き、皿を滑らせる手の感覚に神経を集中させる。鏡のような皿の表面に、マスクの影と自分の顔が一瞬重なった。
(……さすがは涼子さんの部下だけあるな。そういえば涼子さんも元レスラーなのかな?)
そんなことを考えながら、鍋を洗う如月。
鍋底にこびりついたコゲをこすり落とす音が、まるで遠くでなるゴングのように、静かに響いていた。
後片付けも終わり、ロビーでひと段落すると、望月たちは先に自分たちの部屋へ帰っていった。
SAKEBIは斎藤に呼ばれて、書類作成のソフトの動きがおかしいと見に行った。
「また動かなくなったんだよ。なんとかしてくれ」
「……たぶんメモリのキャッシュが詰まってるだけッスね。ちょっと再起動すれば治るッス」
軽口を交わしながら、二人は並んで事務所の方へ消えていった。
食器の音も、鍋の湯気も消え、広いロビーには静けさが満ちている。窓の外では夜風が吹き、遠くの木々を揺らす音がわずかに響いた。
照明は落とされ、蛍光灯の白ではなく、柔らかな間接照明だけが残っている。その光に照らされながら、誰もが穏やかな表情で一日の余韻を噛みしめていた。
調理場のスタッフも仕事を終えると、涼子が待つ山北の店へ向かうのか――その足取りはどこか軽やかに感じられた。
長靴の底が廊下に「コツ、コツ」と規則正しく響き、その音が遠ざかるにつれ、一日の幕が下りていくようだった。
「ふぁ~、今日もいっぱい体動かしたし、いっぱい食べたから、なんだか眠くなってきた……」
カナレは大きなあくびをしながら、ロビーにあるテレビのチャンネルをザッピングしている。
画面の光が彼女の顔を照らし、リモコンの操作音が小気味よく鳴る。
昼間あれほど元気だったのに、今は目の端がとろんと下がり、どこか無防備な表情をしていた。
「そんじゃ俺たちも部屋に帰って、風呂入って寝るか」
如月の言葉に、カナレも小さく頷き、二人は自分たちの部屋へ帰っていった。廊下に足音がふたつ、ゆっくりと遠ざかっていく。
静まり返ったロビーには、テレビの音だけがぽつんと残り、やがてそれも消えた。
如月は普段、カナレが入浴中の時は廊下に出て、師匠から教わった歩法を端から端まで使って歩く。
裸足で重厚なカーペットを踏むたび、足裏がわずかに沈み、柔らかな感触が夜気に溶けていく。
静かな建物の中に、自分の呼吸だけがかすかに響く――それは、彼女にとって一日の締めくくりの儀式でもあった。
『足腰の鍛錬はすべての武術に共通する』
英二にとって師匠アルフォンスの考えはすべて理にかなっていた。
普段のスクワットもその一環であり、暇さえあれば如月は廊下に出て、その歩法で鍛錬している。
背筋を伸ばし、膝の角度を一定に保ち、静かに重心を送る。それは歩くというより、ひとつの型――精神を整える動作だった。
端から端まで約三分。三往復で約十八分。
そのころには、カナレは風呂から上がり、部屋で髪を乾かしている。
ドライヤーの音が壁越しにかすかに聞こえ、湿った湯気の匂いが廊下の奥まで流れてきた。
それを合図のように、如月は静かに歩みを止め、深く息を吐いた。
以前はパンツ一丁でベッドの上で胡坐をかきながら髪を乾かしていたが、最近は如月の命令でTシャツを着ている。
しかし下はパンツのまま。いくら言っても聞かないので、如月もあきらめていた。
如月も入浴を済ませ、先にカナレが寝たのを確認して明かりを落とし、ベッドに潜り込む。
部屋の灯が消えると、外の街灯の淡い光がカーテンの隙間から細く差し込み、天井に静かな影を描いた。
シーツのひんやりとした感触が、肌の熱をやわらげる。
最近はカナレの寝つきがいいので、いびきに悩まされる心配も少なくなったが、時折大いびきで夜中に起こされることもある。
その寝息が穏やかに変わる瞬間を聞くたび、如月はどこか安心していた。
如月も最近は慣れてきたようで、熟睡できているため、特に気にしていなかった。呼吸の波がゆっくりと整い、胸の上下が一定のリズムを刻む。
(……やっぱりあれが効いてるのかな)
――“あれ”とは、如月がカナレに施す整体。
ほんの十分程度のマッサージだが、その効果は抜群だった。
掌を当てるたびに、筋肉の奥を流れる熱が微かに震え、血の巡りが整っていくのがわかる。
その柔らかな感覚を思い出すたび、如月の指先には師匠の教えが今も残っていた。
天地合戦術・矢戸散り(やとちり)。
相手の経路を操作して任意に神経を徐々に破壊する〈破〉と、経路の流れを感じ取り、乱れを整えて癒す〈休〉がある。
〈破〉は闘いの技、〈休〉は再生の理。
その両極を知る者だけが、本当の“調和”を掴む――そう師匠は語っていた。
如月は〈休〉の方しか師匠から習っていなかったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
指先の感覚が、まだ手のひらに残っているような気がする。
(……随分と乱れてたもんな。いびきもそのせいかな……)
如月は考えながら、だんだんとまぶたが重くなり、そのまま眠りについた。窓の外では、風が枝を揺らす音がかすかに聞こえる。
穏やかな夜――静かな呼吸が、二人の間にゆるやかに溶けていった。
――深夜。
ギィー……。
如月たちの部屋のドアが、静かに開いた。
僅かにがきしむ蝶番の音が、闇の中で異様に長く伸びる。
外から流れ込む冷えた空気が、室内のぬるい空気と混じり合い、カーテンの裾をわずかに揺らした。
忍び寄る影が、熟睡している如月を見下ろしていた。
微かな月明かりが窓の隙間から差し込み、寝顔の輪郭を淡く照らす。その光を遮るように、黒い影がゆらりと動いた。
吐息も、衣擦れの音さえもない。
ただ、暗闇が音を吸い込み、時だけが静かに流れていく。
――夜の底で、何かが始まろうとしていた。




