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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第80話:火のあとに残るもの

「どわはは!や……やめろ~!」


 リングから降りた後も、如月の笑い声が本道場に響き渡る。


 笑い声は高天井の梁に反射し、金属製のロープポストを微かに震わせた。まだ熱を帯びた空気の中に、稽古後の湿った汗と樹脂の匂いが混じって漂う。


 カナレが如月の背中を摩りながら、脇のあたりをくすぐっている。


 掌がスウェット地のシャツ越しに滑り、指先が何度も柔らかな皮膚の感触をとらえる。くすぐったさに如月が身体をよじるたび、床の上に靴底がキュッと鳴った。


「なるほど~、お客さんここですか~?」


 カナレがからかう様な声で、容赦なくくすぐる。


 その口調には、まるでカイロプラクティックでもしているかのような調子の軽さがあった。笑いながら逃げようとする如月の腰を、しなやかな腕が容赦なく追う。


「やめろ~~!」


 その悲鳴と笑いの入り混じった声が、本道場の壁に弾ける。


 次の瞬間――。


 ――ゴンッ!


 乾いた衝撃音が場内に響き、空気が一瞬止まった。


 斎藤の鉄拳が、二人の頭に正確に炸裂したのだ。拳の重みが頭蓋を叩き、二人の髪がふわりと舞い上がる。


「貴様ら!いつまでじゃれ合っている!さっさと次の準備を始めんか!」


 怒号が天井にまで突き抜けた。


 斎藤の声は低く太く、訓練された軍人のそれのように響く。


 その迫力に、如月やカナレもピタリと動きを止め、痛む頭を押さえながらそろって背筋を伸ばした。


 場の空気が急速に引き締まり、先ほどまでの笑い声が嘘のように静寂が戻る。


 ロープがわずかに揺れ、その金属音が叱責の余韻を吸い込むように鳴り続けていた。


 湿った道場の空気が張りつめ、天井の蛍光灯の白光が冷たく二人の影を落とす。


 カナレは頭を摩りながら、涙目で斎藤を見上げていた。


 頬にはうっすらと手の跡が残り、口を尖らせたまま「ひどいなぁ」とでも言いたげに眉をひそめている。


 その姿を見た斎藤は、鋭くにらみ腕を組んだまま動かない。空気がぴたりと止まり、息を呑む音すら響くほどだった。


 如月も頭を押さえ、痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がる。わずかに膝をついていた指先には、まだマットのざらつきが残っていた。


 水筒を片手に、数人のベテラン勢の選手たちと談笑している研美の姿が目に入る。肩で笑い、タオルで首筋を拭うその姿――まるでいつもの研美と変わらない。


 ――けれど、何かが違う。


 如月の胸の奥で、小さな棘のような違和感がひっかかっていた。


 先ほどリングで対峙したとき、研美からにじみ出ていた“あの気配”。


 それは、肌の表面を撫でるような緊張感ではない。背骨の奥――生き物としての防衛本能を震わせる、得体の知れない圧だった。


 なでしこ角力協会――研美の父・一之進が所有する稽古場での研美は、神々しく、この世の理そのものが押し寄せてくるような感覚をまとっていた。


 あの場での彼女は、秩序そのものだった。静謐で、厳かで、強靭な“正しさ”の象徴。


 しかし、リングで対峙した研美から感じたのは、まったく別のものだった。


 それは明らかな“殺気”。血の匂いを孕んだ、研ぎ澄まされた闘志。


 人を生かすためのものではない。人を殺傷する行為に等しい、禍々しい闘気。その刃は、相手だけでなく、自分すら焼き尽くしかねないほど鋭かった。


 今、数メートル先で仲間と談笑している研美からは、その気配がみじんも感じ取れない。


 あれほどまでに圧を放っていた人物が、まるで何事もなかったように水を飲み、他愛ない会話をしている。その落差こそが、如月の中にざらついた不安を残していた。


 如月は感じている。――あれは研美という人間からにじみ出た殺気ではなく、もっと奥底から湧き上がる、得体のしれない“なにか”。


 水の底、闇の淵に巣くう、認識不能の存在。


 それは研美の“ギフト”に巣くうものなのか……。


 あの瞬間、研美の身体を媒介にして、別の“意思”が顔を覗かせていたような――そんな錯覚すらあった。


 思い返すほどに、背筋に薄い冷気が這い上がる。


 如月が思索に沈んでいると、遠くから研美が声をかけた。


「お~い、如月、こっちおいで!」


 響く声は明るく、少し湿った本道場の空気を軽やかに震わせた。


 そのトーンは、つい先ほどまでの殺気を想起させるものではなく、あくまで親しみのこもった“日常”の響きだった。


 如月はわずかに息をつき、心の張りをほぐしながら声の方へ歩き出す。


 呼ばれた方へ歩いていく如月。その後を追うように、カナレが半歩遅れてついてくる。足音がマットに吸い込まれ、柔らかな弾力が返ってくる。


 そのリズムが妙に心地よく、先ほどまでの冷たい緊張が遠のいていくのが分かった。


「なんだいカナレ、あんたまでついてきて。仲良しさんだねぇ」


 研美はカナレの頭を優しくなでた。


 その手つきは母親のように穏やかで、掌の温もりが髪越しに伝わっていく。


 くすぐったそうに目を細めるカナレの表情に、ほんの一瞬だけ、本道場の空気が和らいだ。


 如月は「いつもの研美だ」と確認するが、その視線は何かを探るようで、その目にはかすかな不安があった。


 笑みを浮かべながらも、無意識に研美の呼吸のリズムや瞳の揺らぎを観察してしまう。


 何か“異質なもの”が、まだそこに潜んでいないかを確かめるように。


 それを察したのか、研美が如月に告げた。


「どうしたんだい?そんなに怖い顔して。――私のギフトが気になるのかい?」


 如月の背筋がわずかに強張った。


 心の内を見透かされたような一言に、言葉を失う。


 研美の声には、からかいのような柔らかさと、底の見えない静けさが同居していた。


 研美は、水筒の水を少しだけ口に含み、ゆっくりと飲み下してから語り始めた。喉の鳴る小さな音が、やけに鮮明に響く。


 その仕草は何気ないものなのに、どこか“儀式”的な厳かさを帯びていた。


「私のギフトは《一騎当千》。リングにいる間、徐々に力が強くなっていく“強化系”のギフトだよ」


 その瞬間、場の空気が一度だけ止まった。


 研美の言葉に、如月とカナレは息を飲んだ。軽やかな声でありながら、言葉そのものが重く響く。道場の灯りが、三人の輪郭を静かに照らしていた。


 普段なら、選手間で自分のギフトの詳細を語ることは、Queen Beeでは固く禁じられている。


 それは組織の不文律――力の均衡を保ち、互いの闘いに“未知”を残すための絶対条件だった。


 それを破るということは、戦いの神秘を手放すに等しい。


 カナレの喉が、ごくりと鳴った。


 カナレが少し離れたところにいる斎藤の方に目をやる。


 金属製のホイッスルが胸元でわずかに揺れ、照明の光を受けて鈍く光っていた。斎藤は腕を組んだまま、厳めしい表情で誰かに指示を出している。


 その背中を見ただけで、カナレの脳裏には同じ映像が何度もフラッシュバックする。


(……また怒られる……)


 頭の中で、斎藤に叱られるシーンが何度もリピートしている。そのたびに、胃のあたりがきゅっと縮む。


 眉をひそめた斎藤の顔、低い声、拳骨。想像の中の怒鳴り声が、耳の奥でこだまする。


 しかしカナレの不安をよそに、斎藤や安西も特に気にすることなく、次のスパーリングの相談をしていた。


 まるで「また研美のやることか」と言わんばかりの穏やかさ。


 彼女たちは研美の性格を知ったうえで、あえて注意しない――そんな空気があった。


 師弟の間に流れる独特の信頼。それはルールよりも、彼女自身の“律”を信じているからこそ成り立つ沈黙だった。


 研美はカナレの顔を見て笑みを浮かべながら、自分のギフトの詳細を語っていく。その笑みは、秘密を共有する親しさにも似て、どこか無邪気なものだった。


 だが、その口元の奥には、誰にも見せぬ決意の影がちらりと覗いた。


 研美の目覚めたギフト――。


 四文字ギフト――《一騎当千》。


 その能力は、戦における「蓄力」と「昂揚」。


 リングという限定された空間内にいる限り、時間の経過とともに身体能力・反応速度・攻撃力など、あらゆる戦闘能力が少しずつ上昇していく。


 まるで戦意そのものが肉体に火を灯すかのように、研美は闘うほどに強くなる。


 しかしその効果は、あくまで“リングの中”に限られる。


 一歩でもロープを越えれば、その力は霧散し、積み上げたすべての蓄力は白紙に戻る。外の世界では、彼女はただの人間――いかなる残滓も残らない。


 また、能力の上昇は直線的でなく、闘志・観客の熱量・対戦相手の強さなど、“場の闘気”によって左右される。


 激情と覚悟が交錯するほどに力は加速し、終盤にはまるで暴走するかのような爆発的な力を発揮することもある。


 だが同時に、それは刃のように危うい。上昇し続ける力に肉体が追いつかず、筋繊維や関節に過負荷がかかることもある。


 リングに立ち続け、闘いの中でこそ極まる力。


 その身ひとつで千軍万馬に匹敵する――それが、「一騎当千」の本質である。


 カナレは研美のギフトの詳細を聞き、うんうんと頷きながら言った。


 その顔には、単純な理解と純粋な尊敬が混ざっている。目を輝かせながら、まるで子どものように身を乗り出した。


「そうか!だからトガミ先輩って、最初はローギアなんだな!」


 研美は笑顔でカナレに抱きつきながら言った。


 その動きは唐突で、勢いそのままにカナレの肩をがっしりと掴み、頬を擦り寄せる。


 汗の匂いとシャンプーの香りが混ざり、近すぎる距離にカナレが悲鳴を上げた。


「そうだよ~。だから私は、ダンプカーみたいなもんだ!」


 研美の声には、どこか誇らしさと茶目っ気が同居している。リング上の神々しさなど微塵もなく、今はただの陽気な姉貴分の顔だった。


 抱きつかれたカナレはジタバタしながら叫ぶ。


「ちょっと!トガミ先輩!また飲んでるの!?」


 周囲のベテラン勢がクスクスと笑い出す。笑い声が道場の板張りに反響し、温かい空気が場を包む。練習後の疲労も忘れ、笑い合うその輪の中に、仲間としての結びつきが見えた。


 しかし、そのベテランたちの後ろで佇む皇の顔は、明らかに曇っていた。


 その笑い声の中で、ただひとりだけ表情が動かない。視線は研美に注がれたまま、まぶたの奥にある“記憶”を見ていた。


(……研美先輩のギフトの怖さは別にある……それに気づかないと……)


 皇は唇をかすかに噛み、心の奥で呟いた。笑う彼女を見つめる目は、どこか痛みを帯びている。


 皇は研美に対して一目置いていた。


 すべてに気が回り、自分では対応しきれないソフト面での雑務を手際よく手助けしてくれる。


 いつも冗談を言いながらも、要所では的確に場を締める。優しくて頼もしい先輩。


 ――それが皇の率直な印象だ。


 だが、皇は知っている。


 研美のギフト《一騎当千》のデメリットと、その危うさを。


 闘志の高ぶりが極限に達すると、自我よりも“闘争本能”が前面に出る。その瞬間、研美という人格は“闘いの権化”となり、止める術を失う。


 研美自身が、制御不能の狂戦士へと変貌してしまう。


 血輝儀宇受女チテルギノウズメの加護を持つギフターの宿命――。


 それは、力と代償を抱いて生きる者だけが背負う十字架。皇はその意味を、誰よりも知っていた。


 だからこそ、研美の笑顔が怖かった。その無邪気さが、時に死神の微笑みに見えることを、彼女だけは知っている。


 皇は静かに背を向け、研美たちから離れていく。


 足音を殺しながら、ゆっくりと。その瞳はどこか、寂しげだった。


 ――本日のトレーニング終了を告げるチャイムが鳴る。


 乾いた電子音が天井のスピーカーからこぼれ、静まり返った本道場に響き渡った。途端に張り詰めていた空気がふっと緩み、ロープの金具が小さく軋んだ。


 選手たちは床に腰を落とし、今日の練習がすべて終わった安堵で、身に力が入らない。


 誰もが額の汗をぬぐい、呼吸を整えながら、しばし無言で天井を見上げていた。


 リングの下では、水筒の蓋が開く音や、タオルが汗を吸う擦過音がぽつりぽつりと響く。


 外から差し込む夕暮れの光が、窓枠を越えて床の汗の跡を橙色に照らした。


 遠巻きで見ている斎藤や安西は、「なってないな」というような目をしていたが、それでも確実に仕上がりつつある若手選手たちの熱意を感じていた。


 厳しさと誇りの入り混じった視線。その眼差しの先で、若い選手たちの肩が、疲労と満足を同時に語っている。


(……明日はもっと厳しくいくか……)


 斎藤が心の中で思案すると、まるでそれを察知したかのように、安西はにやりと不気味な笑みを浮かべた。


 その笑みは、嵐の前触れを告げる風のようで、柔らかく、それでいて恐ろしく確信めいている。


 その気配を察した選手たちの背筋に、緊張と寒気が走る。「やば……」と誰かが小さく呟き、空気が微妙にざわめいた。


 張り詰めた静寂の中で、遠くの換気扇が低く唸り続けている。


 ――夕食。


 楽しみにしていた研美が持ってきたイノシシ肉が、綺麗に切りそろえられ、すべてのテーブルに鎮座している。


 包丁の刃跡がきらりと残るほど丁寧に引かれた肉片は、白い皿の上で淡い桜色を帯び、照明に照らされてほんのり艶めいていた。


 獣の匂いはほとんどなく、代わりに出汁と野菜の甘い香りが鼻をくすぐる。


 それぞれにふたつの小鍋が用意され、湯気が上がっていた。


 湯気の向こうで、選手たちの顔がぼんやりと霞み、笑い声と箸の音が混じり始める。


 ひとつはしゃぶしゃぶ用、そしてもうひとつは牡丹鍋。


 しゃぶしゃぶの鍋はフツフツと静かに沸騰している。中に入っているのは、研美が一緒に持ってきた白魔洞窟の湧水。


 軟水の柔らかで雑味のない水に、涼子特製の調味液を少しだけ加えたものだ。湯気とともに立ち上がる香りは、清らかで、それでいてどこか野趣を孕んでいた。


 日本酒が主体のその調味液は、Queen Bee秘伝の隠し味。特に鍋料理に加えると、そのうまみは倍化する。


 そして、涼子特製のごまだれで食べると野趣あふれる牡丹肉の味を極限まで押し上げて、余分な野性味を抑え込む。


 一方の牡丹鍋は、すでに味付けされたスープが程よい温度で湯気を立てている。


 イノシシの骨から取った旨味を加えた、これも涼子オリジナルのスープ。


 山の恵みと命の尊さを無駄にしない――涼子の料理人としての心根が形になったその味は、白みそをメインにした柔らかな仕立て。


 やんわりと桜色になった牡丹肉が、ゆっくりと火が通っていく。


 長く鍋の中で泳いでも、肉は固くならず、旨味だけを舌に届ける。火にかけられた土鍋の底がかすかに鳴り、室内の空気がほのかに甘く変わっていく。


 湯気が立ち上るたび、練習後の疲労がやわらいでいくようだった。


 白い蒸気が天井近くでゆらりと揺れ、照明の光を柔らかく散らす。


 熱を帯びた空気の中に、肉と味噌と出汁の香りが溶け合い、嗅ぐだけで胃が鳴る幸福な匂いで満ちていた。


 誰もが箸を手に取り、鍋の中をのぞき込む。湯の表面で揺らめく肉の切れ端が、ゆっくりと桜色を深めていく。


「うわー、すっげー!」


 カナレの声が衝動のように響くと、ほかの選手たちからも歓喜の声が乱舞した。


 その声は鍋の湯気と一緒に天井へ昇り、笑い声が次々と弾ける。椅子が軋み、箸が触れ合い、誰かの笑いがまた別の笑いを誘う。


 まるで全員がひとつの呼吸を共有しているようだった。


 カナレは身を乗り出して、湯気越しに鍋を覗き込む。頬はほんのり赤く染まり、額の汗が光っていた。


 その横で如月が呆れたように笑い、研美は「焦らなくても逃げないよ」と言いながら菜箸で肉をすくい上げる。


 湯から上がった薄紅の肉が、灯りを受けて艶やかに光った。


 香ばしい香りがもう一度立ち上り、空腹を刺激する。


 その匂いに、練習で張り詰めていた心身がふっと緩む。


 笑いと湯気が絡み合う本道場の食卓――そこには戦う者たちだけの、短くも確かな“平和”があった。


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