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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第79話:残り香の闇

 別のリングで対峙する皇と楓が、ロックアップの状態で力を競り合っている。


 腕と腕が絡み、筋肉がきしむたびに空気が震えた。手のひら越しに伝わる体温と汗の感触。肉と肉が擦れ合い、骨が軋み、呼吸の音すらぶつかり合う。


 ――まるで、沈黙の中で互いの覚悟を探るようだった。


 そんな中、皇は対峙する楓の顔を見て言った。


「楓……」


 押し合う力が均衡する。その一言に、わずかに楓の腕が震えた。


 皇が重い表情でつぶやくと、楓もある程度理解しているような顔だった。その瞳は真っ直ぐで、言葉にせずとも“何を言いたいのか”を悟っている。


「大丈夫だとは思うけど……もしもの時は……」


 皇の息がかすかに震え、握る手にわずかな力が込められる。


 その言葉に、楓は無言でうなずいた。互いの額が触れそうな距離。そのうなずきひとつ、長年の信頼が宿っていた。


 ロックアップは、ただの技術の応酬ではない。


 二人にとって、それは――闘う者同士の絆の確認でもあった。


 ――中央のリングでは、如月と研美が対峙している。


 リングの上に、静かな熱が満ちていた。


 若手、ベテラン勢が見守る空間に、二人の呼吸と足裏の擦れる音だけが響く。まるで時が止まったかのような緊張が、空気の粒を震わせていた。


 ――タンッ!


 マットに足を叩きつけて如月が華麗に身を翻した後、ニールキックを繰り出す。しなやかな脚が弧を描き、風を裂く音が響いた。


 だが研美は避けることもせず、正面からそれを受け止めた。その衝撃で髪がわずかに揺れ、足元のリングが低く唸る。


 キャッチされる寸前に、如月は腕を突き出して後方に飛び、距離を取る。息を吐きながら膝を沈め、着地の瞬間にはすでに次の展開を計算していた。


 対する研美は、相撲の仕切りのように集中して腰を落とし、如月が着地して体勢を立て直すと同時にタックルを仕掛けた。


 その一歩には、迷いや隙もない。


 ――バシッ!


 閃光のような鋭い当たりが如月の体を貫き、ズルズルと後退する。研美の肩が突き刺さった箇所から、衝撃が波紋のように広がる。


 しかし如月は上体を研美へと預けるようにして、腰へのロックを切った。わずかな呼吸のずれを読み取り、体重移動だけで研美の圧力を殺す。


 本番さながらの二人のスパーに、リング下の選手たちは息をのむ。誰もが無意識に背筋を伸ばし、目を逸らすことができなかった。


 研美はタックルを解いて後方へ飛ぶと、足に全神経を集中させた。脚の筋肉が絞り込まれ、床を押す音が低く響く。


 その様子を如月は見逃さなかった。


 空気のわずかな揺らぎ、研美の足の筋肉が締まる瞬間――その“予兆”を、全身の感覚で捉えていた。


 鋭い視線が、獲物の動きを読む捕食者のように研美の足の動きを追う。瞳の奥で、光が研ぎ澄まされていく。呼吸が浅くなり、音が遠のいた。


 ――次の瞬間に何が起こるか。


 互いに理解しているからこそ、二人の沈黙は誰よりも雄弁だった。


 わずかな姿勢の変化が、言葉以上に多くを物語る。


 これ以上ないほどの静寂の中で、リングが軋む微かな音だけが現実を繋ぎとめていた。


 如月の頭に、以前、師匠から教わった言葉がよぎる。


 『力士が下半身に力を込めたときは、距離を取らず、上体を崩し先に投げろ』


 その声が、まるで耳元で囁かれたかのように鮮明だった。


 アルフォンスの指導は常に理詰めで、理不尽な力に立ち向かう術を教えてくれた。情熱ではなく、理性で挑め。


 師の教えの根幹が、その短い一文に凝縮されていた。


 力士の下半身の力は、並のアスリートを凌駕する。地を押す脚、沈み込む腰、そして微動だにしない重心。


 その重さは、単なる筋力ではなく「根の深さ」そのものだった。正面からぶつかり合えば、その瞬間に勝負は決する。


 だからこそ――正面ではなく、角度で崩す。


 攻めではなく、導く。


 相手の力の流れを見極め、それをほんの一寸ずらす。それが如月にとっての“投げる”という行為だった。


 相撲にはない「流れ」と「重心のずらし」それが、プロレスラーとしての如月の戦い方。


 正面からぶつかり合わず、相撲にはないプロレスの利点を使って対処すること――それを、師アルフォンスから学んでいた。


 如月は研美が力を下半身に集中したその瞬間を見計らい、スライディングで研美の股下をすり抜けた。


 ネックスプリングの地を叩く音と同時に、空気が爆ぜすぐさま立ち上がる。


 視界の端で、研美の腰がわずかに沈む――その一瞬を逃さなかった。


 目に映るのは、わずかに開いた重心の隙――そこしかない。 狙いを定める間もなく、体が勝手に動いていた。


 滑るように床を蹴り、リングマットが軋む。瞬間、空気が切り裂かれる。時間がわずかに伸び、如月の呼吸と鼓動だけが世界の音になる。


 そのまま研美の腰をロックし、全身の力を振り絞って持ち上げようとする。


 如月の研美に対する力の駆け引きは、研美の体を触った瞬間に始まっていた。


 触れた瞬間、皮膚越しに伝わる圧と温度、筋肉の締まり、力の流れ――そのすべてが数値のように頭の中で弾き出される。


 如月は本能的に、自分と相手の力の差を瞬時に割り出し、次の一手を計算した。


 (……いける)


 そう確信した瞬間、全身の血が逆流するように熱を帯びる。腕の筋肉が悲鳴を上げ、背中の腱が引き絞られる。


 脚の裏で感じるマットの反発が、全身を貫いた。呼吸が爆ぜ喉の奥で鳴る。


 如月の息が、低く唸りのように漏れた。


 ――これが、師の言葉の意味。


 力と技の狭間で、如月は確かにそれを感じていた。相手を制するのではなく、流れを導く。


 支配ではなく、共鳴。


 研美の力を、研美の力で封じる――。


 それが、如月の中で形になった“答え”だった。


 ――しかし。


 研美の体は、まるで足が地面に杭のように突き刺さっているかのように微動だにしなかった。


 地面の奥底に、見えない根を張っているかのような安定。


 押しても、引いても、まるで世界そのものを動かそうとしているかのような錯覚に陥る。


 如月が研美の底力を見誤った。


 ほんの一瞬の計算違い――それが命取りになる。


 (……ありえない!)


 心の中で叫びながらも、体は止まらない。それどころか、徐々に研美の腰が下がっていく。


 如月の腕に伝わるのは、地の利が押し返すような得体のしれない抵抗感。皮膚の下で、研美の筋肉が軋み、圧が倍増していくのがわかる。


 まるで、大地そのものが“押し返して”きている。


 自分が動かそうとしているのは、人ではなく、地そのもの――そう錯覚するほどの質量だった。


「マジかよ!」


 驚愕の声を上げた如月に、研美が答える。


「如月、“元”力士の足腰なめちゃだめだよ!」


 その声には、余裕と誇りが混ざっていた。研美の足元からは、床を伝って低い振動音が響く。


 その安定感は“地面と一体化している”と言っても過言ではなかった。


 研美は如月にロックされた腕の中で体を180度回転させ、右手を如月の股下にくぐらせると――。


 何の抵抗もなく、そのまま抱え上げた。


 宙に浮く一瞬、如月の視界が反転する。天井のライトが流星のように横切り、重力の感覚が消える。


 如月は抱え上げられた状態から振り払おうとするが、研美は微動だにしない。


 その姿は、まるで鉄の柱に抱き上げられたかのようだった。全ての力を込めても、びくともしない。


 「人外」という言葉が、頭の中を過った。


 呼吸を整えた研美は、静かに、そして乱雑に如月の体をマットへと叩きつけた。


 ――ドガッ!


 空気が爆ぜるような音。


 リング全体がたわみ、金属の軋みが低く唸る。マットに叩きつけられる重音が響く。何度も見聞きしてきた選手たちでさえ、その衝撃音に思わず身を震わせた。


 如月はマットに大の字となり、肺の中の空気がすべて押し出されたような感覚に胸を締め付けられる。


 喉がひゅっと鳴り、世界が一瞬、白く滲んだ。


 ほんの一瞬、意識が遠のきかけたが、必死に踏みとどまり、研美の次の手をかわそうとした。


 しかし、すでに遅かった。


 研美の右足が垂直に伸びている。――次の攻撃が来る。その足は、まるで刃物のように真っすぐで、空気を切り裂く音が先に届いた。


 得体のしれない一撃。


 如月の頭の中では、研美の行動を解析しきれない。それは“技”ではなく“衝動”に近かった。人の形をした何かが、圧倒的な質量と速度で振り下ろされようとしている。


 ただひとつだけ理解していた。


 ――これをもらったら、確実に終わる。


 その瞬間、時間がわずかに伸びた。耳鳴りの向こうで、誰かの息を呑む音が聞こえる。如月の視界の端に、リングのロープがゆらりと揺れていた。


 二人のスパーを見守る選手たちも、プロレスの技とは異なる何かの気配に飲み込まれ、状況を理解できずにただ傍観するしかなかった。


 リング上で起きているのは、もはや“練習”ではなかった。空気がねじれ、照明の光がゆらめく。息を呑む音すら吸い込まれるような、異様な静寂。


 その瞬間――。


「研美先輩!」


 皇の声だった。


 張り裂けるような叫びが、沈黙を破った。いつの間にか、如月たちのいるリングの下に皇と楓が駆け寄っていた。皇の瞳は焦点を失い、反射的にロープへ手を伸ばしていた。


 だが、皇の声も空しく響くだけで、研美の攻撃は止まらなかった。


 まるで音が届いていないかのように、研美の表情は無である。その一挙一動が、機械のように正確で、恐ろしく美しかった。


 そして――研美の片足がための限界点に達した時、膝が鋭角に折れ、足刀が如月に容赦なく振り下ろされた。


 その動作は一瞬のようでいて、見守る者には永遠に続くように見えた。風を切る音が遅れて響き、時間そのものが歪む。


 すぐさまリングに駆け上がろうとする皇と楓。その足音がマットに触れるより早く、誰かの手が皇の腕を掴んだ。


 斎藤だった。


 何も言わず、首を横に振って皇を制止する。その動作ひとつが、すべてを語っていた。


 ――止めるな。これは“彼女たちの闘い”だと。


 皇の喉が震え、声にならない叫びが滲んだ。リングの上では、依然として光と影がぶつかり合っている。


 次の瞬間――。


「ぎゃははは!」


 リングから突き抜けるような笑い声がこだました。爆音のような一撃の余韻を断ち切る、突拍子もない明るさ。


 静寂を押し破った笑い声に呆気に取られる皇と楓。


 緊迫で張りつめていた空気が、バチンと弾けた。


 見ると、研美が自分の足先で如月の腹をくすぐっていた。


 あれほどの怪力を見せていた彼女が、今は子どものような無邪気な笑顔を浮かべている。


「ほ~ら……こちょこちょこちょ!」


 あっけにとられる皇と楓。


 数秒前まで殺気立っていたその場が、急に漫才の舞台のような空気へと変わっていく。


「あはは!ちょ……ちょっと!やめて!」


 リングの上で七転八倒する如月。


 しかしボディースラムの衝撃がまだ残っているのか、思うように体が動かない。痛みとくすぐったさが入り混じり、悲鳴とも笑いともつかぬ声がこだまする。


 そこを研美のくすぐりが容赦なく襲う。足先が猫のように器用な動きで、如月の腹を狙ってはすばやく引く。


「まだまだ!」


 リング下の選手たちも状況を理解できず、あっけにとられていた。


 数人はぽかんと口を開け、誰かが「何これ?」と呟いた。


 ほんの数秒前まで“終わり”の気配が漂っていたはずのリングに、いまは笑い声が溢れている。


 ――だが、その笑いの裏に、誰もがまだ薄氷のような緊張を感じ取っていた。


 やがて斎藤が声を上げる。場内の空気を一気にまとめるような、低く通る声だった。


「よし!二人とも終了だ。リングから降りてこい!」


 その言葉が響いた瞬間、リング上に緩やかな静けさが戻る。荒い息づかいと汗の匂いだけが、熱の名残として漂っていた。


 研美は斎藤の顔を見てニコリと笑い、名残惜しそうに如月へと話しかけた。その笑顔は、ついさっきまでの激しさが嘘のように穏やかだった。


「まだとっておきの技があるんだけどね……どうだい?如月」


 如月は腹を押さえたまま、九の字になって震えながら頭を横に振ることしかできなかった。


 その仕草に、研美はくすりと笑い、ほんの一瞬だけ柔らかい眼差しを向けた。


 皇と楓の顔を見ながら、斎藤が説明する。その声音には、静かな笑みと戒めが同居していた。


「研美なりの愛のある“かわいがり”だ。何をそんなに心配している?」


 皇と楓は互いに顔を見合わせ、首をかしげた。


 だが、皇の顔にはまだ何かへの警戒心が残っていた。笑いの中にも、さっき見た“何か”の残像が焼き付いて離れない。


「ほ~ら、いつまでリングで寝そべってるんだい?またこちょこちょしてやろうか~?」


 研美の声に反応し、如月はグルグルと転がるように回転して器用にマットから降り、その場でうずくまった。


 マットの端に落ちる影が、まるで戦いの名残のよう静かに伸びていた。


 心配したカナレが駆け寄り、声をかける。その声には、ほんのわずかな震えが混じっていた。


「だ……大丈夫か?如月っち?」


 如月は言葉を発することができず、代わりに手でジェスチャーして「大丈夫」と伝えた。


 唇の端だけでかすかに笑い、震える指で丸を作る。けれど、その動きには力がなかった。


 とりあえずカナレが如月の背中を摩っていると、研美がリングから降りてきて、カナレの頭を数回ワシワシと撫でた。


 その手つきは乱暴に見えて、どこか優しかった。そして、何も言わずに背を向ける。汗に濡れた髪が肩で揺れ、歩くたびに静かに光を反射していた。


 去り際、皇の横を通りざまに研美が小さくつぶやいた。


「……何を心配してるんだい?」


 その声は、まるで皇の心の奥を見透かすような鋭さを帯びていた。穏やかな微笑みの裏で、どこか底の見えない何かが揺れている。


 皇は笑顔で答えたが、その顔はわずかに引きつっている。喉の奥で何かを飲み込むようにして、無理に平静を装った。


 ――皇の懸念は、消えていなかった。


 リングの上で感じた、言葉にならない違和感。あの瞬間、空気がひときわ重く沈み、音が遠のいた。目には見えない何かが、確かにそこに“いた”。


 ――そして、一部の者だけが知る研美の本当の恐ろしさを。


 笑みの奥に潜む、理屈では測れない領域。闘いの中で時折、その“本能”が顔を覗かせる。


 それを真正面から見た者は、二度と忘れることができない。


 研美の中にある、底知れぬ闇の部分が、ほんの一瞬だけ外へ漏れ出していた――。


 その気配を、皇は確かに察知していた。それは殺気ではなく、もっと深く、もっと静かなもの。


 人の形をしていながら、人ではない何かの“根”のような気配だった。


 その残り香のような闇が、汗と熱気の漂う空気の中に、確かにまだ滞っていた。照明の光が反射するマットの上に、わずかな影が伸びている。


 誰も気づかぬまま、それはゆっくりと形を失い、闇と溶け合っていった。


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