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QUEEN BEE  作者: 鰐淵 荒鷹
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第78話:嵐の前の静けさ

 昼食も終わり、息を整える小休止後、選手たちは本道場のリング下に集まっていた。


 木の床にはところどころ汗が染み込み、まだ昼の熱気がこもっている。空調の低い唸りと、ロープがわずかに軋む音が静かな空間に溶けていた。


 3つあるうちの中央のリングに如月たちが集まり、床に座りながらストレッチで体をほぐす。


 関節を鳴らす小さな音、筋肉を伸ばすたびに洩れる息づかい。それぞれの身体が次の闘いに向けて、ゆっくりと温度を取り戻していく。


「よし、如月やるかい?」


 背後から、明るくも底に芯のある声が響いた。研美だ。


 タンクトップに半ズボン、そして髪はゆるめの三つ編み。動くたびにボリュームのある艶やかな黒髪が揺れ、汗を含んだ光を帯びる。ラフな格好なのに、どこか張りつめた空気をまとっていた。


「お願いします!」


 いつになくやる気漲る如月の声が本道場に響く。


 その声には、緊張よりも昂ぶりのほうが勝っていた。乾いた空気を震わせ、天井の照明がかすかに揺れる。


 その瞬間、ほかの選手たちの動きが止まる。


 誰かが水筒を置く音がコトリと響き、全員の視線が中央のリングへと向けられた。


 張り詰めた静けさの中、ロープの金具がわずかに鳴り、次に始まるスパーリングの予感が場を支配していった。


 如月はリング下から青コーナー側へ歩いて行くと、ロープを掴んでそのままよじ登った。


 掌に伝わるロープの硬い感触と染み込んだ汗の匂いが、過去のスパーの記憶を呼び起こす。


 天井の照明がロープの金具を反射し、白い光の粒がちらついた。


 普段ならスパーの時でも難なくエプロンに飛び乗って豪快にリングインする如月の動きに、皆は違和感を覚えた。


 今日の如月は慎重だった。勢いよりも、何かを確かめるような、静かな動き。足をかけるたびにロープが低く鳴り、その音が道場全体に広がっていく。


 カナレも少し心配そうな表情で、リング下から体をほぐしながら如月の動きを見ている。


 その手の動きもどこかぎこちなく、目線が一瞬も如月から離れなかった。


 ロープを潜る如月がリングインすると、研美も赤コーナー側へと行き、如月と同じようにゆっくりとリングインした。


 ロープが軋むたび、二人の影がマットに長く伸び、交差する。足裏がマットをとらえる音が、低く、落ち着いた呼吸のように響いた。


「それじゃ、よろしく!」


 研美が笑顔で答えて右手を如月に差し出すと、それに習って如月は両手を差し出して固く握り返した。


 掌と掌がぶつかる瞬間、互いの体温と鼓動が一瞬だけ伝わる。研美の手は驚くほど温かく、そして力強い。


 その握手は単なる開始の合図ではなく、覚悟を確かめ合う儀式のようだった。


 周囲の空気が、ふっと静まる。


 選手たちの息づかいすら止まり、本道場の空気がわずかに震えた。闘いの幕が、ゆっくりと上がろうとしていた。


 少し離れたリングでは楓と皇がスパーの真っ最中だったが、如月たちのことが気になるのか、時折グラウンドになって極める力を弱めながら横目で観察している。


 マットに擦れる肌の音、浅く吐かれる呼吸の合間に、金具が軋む中央リングの音が耳に届く。


 二人の間でぶつかり合う気配よりも、遠くの緊張感のほうが強く感じられた。


 普段ならそんなやる気のないスパーリングを斎藤や安西は許すはずがないが、その二人でさえ如月と研美のスパーが気になるのか、腕を組んで見ている。


 いつもなら叱咤が飛ぶはずの道場に、今日はその声がない。張りつめた空気の中で、視線だけが無言の檻のように中央リングを囲んでいた。


 如月が手を離すと研美はそのまま赤コーナーの前に行き、ポストを中心に伸びる対角線上のセカンドロープを両手で掴むと、軽く屈伸運動をしてゆっくりと如月の方を向いた。


 ロープがわずかに鳴り、金具の振動がリング全体に伝わる。彼女の肩が上下するたび、三つ編みがゆるやかに揺れ、照明の光を帯びて流れた。


 対照的に如月は青コーナー側で背筋を伸ばして直立不動で立っている。


 まるで瞑想しているかのように微動だにせず、ただ呼吸だけが静かに胸を満たしていた。


 両者の姿勢のコントラストが、これから起こる衝突を予感させる。


「らしくないわねぇ……」


 グラウンドの攻防から立ち合いの組み合いへ移行したところで、楓が皇の腰に両腕をロックしたまま中央のリングに視線を向けて言うと、皇が注意を促した。


「らしくないのはどっちかな……」


 皇の言葉が終わると同時に楓の片足首を掴むと、そのまま持ち上げて楓はバランスを崩して倒れこむ。


 マットが小さく鳴り、楓の手のひらが空を切った。


「痛っ!」


 皇は体を腰を軸に回転して楓の背後に回ると、そのままスリーパーホールドに持ち込むが、楓は顎を引いて極めさせないようにブロックする。


 だが、そんな二人の目はやはり中央のリングを見ていた。動きは続いているのに、意識は一点に吸い寄せられている。


 本道場の空気が、音もなく、ひとつの闘いの予感に支配されていった。


 本道場に静謐が支配する。


 誰もが言葉を飲む。


 強要されたわけでもないのに身動き1つとらず、声も発することができないでいた。


 空気が、まるでひとつの生き物のように重たく凝っている。照明の光がわずかに揺らぎ、ロープの影がマットに伸びては沈む。


 息を吸えば、畳と汗と樹脂の混ざった匂いが胸を刺した。


 嵐の前の静けさ。


 これから交わる2つの気配が、ただのスパーでは終わらぬことを、場の空気が静かに知らせていた。


 目を逸らすことすら許されないような、得体の知れぬ圧が場を満たしている。


 その静寂な雰囲気を、カナレの声が打ち破った。


「如月っち!ぶちかませ!」


 突き抜けるような明るい声が天井に反響し、空気が一瞬だけ弾けた。沈黙が破られ、時間が再び動き出す。


 カナレの声に触発されるかのように、先に如月が構えた。


 オーソドックスな重心落とし、利き手足を前に構える。その動きには、緊張というよりも覚悟のような硬さがあった。


 靴底がマットを擦る音が、まるで剣が鞘を抜く音のように響く。


 研美もカナレの声に反応して笑顔になると、如月と同じように構えた。その笑顔は柔らかく見えながらも、どこか掴みどころのない冷たさを孕んでいた。


 全身の力を抜きながらも、中心だけが静かに研ぎ澄まされている。


 如月はそんな研美の構えを見て思った。


(……やっぱりおかしい……)


 如月はリングの上で対峙する研美と、先日、土俵の上で対峙した研美の雰囲気の違いに違和感を覚えた。


 資料室で見た研美と同じ、素人のような隙だらけの構え。


 土俵の上で感じた圧倒的な支配感を、このリングでは感じなかった。


 あのとき全身を押し潰した、見えない重圧がない。


 目の前にいるのは本当に同じ人間なのか――その思考が一瞬、如月の動きを鈍らせた。


(……考えても仕方がない)


 如月は、いつものような軽やかなフットワークではなく、すり足気味で研美との間合いを測る。


 マットの感触を確かめながら、慎重に距離を詰める。心臓の鼓動が、どこかでロープの軋む音と重なっていた。


 研美は笑顔のまま目線だけで如月を追いつつ、必要な時だけ体の向きを変える程度で、仕掛ける素振りはなかった。


 静止と動作の境目が曖昧な、奇妙な静けさ。


 その無防備さが、逆に不気味だった。


 リングの上では、もはや呼吸すら音になっていた。そして、如月は距離を測るようにローキックで研美の足を蹴った。


 パシッ!


 シューズと肉体がぶつかる独特の音が本道場に響く。


 乾いたその音が、まるで合図のように場の空気を震わせた。如月は上半身を低く構えて、一瞬で間合いを詰めた。


 研美の腹部と腰のあたりを狙ってタックル。重心を沈め、両腕で掻き抱くように突き上げる。


 ゴッ!


 肉体同士がぶつかる音と、骨の軋みが重なり合い、リング上を駆け巡る。空気が弾け、観客席のない本道場が一瞬だけ、本番のような熱を帯びた。


 研美は一瞬で腰を引いて如月に極めさせなかった。


 それどころか如月の両腕を差して、相撲で言うところのもろ差し。ダブルアームの体勢になる。


 腕が食い込み、力と力がせめぎ合う。研美の肩から腕にかけての筋肉が、蛇のように蠢いた。


 そして間髪入れずに如月を持ち上げる。


 その動作に迷いはなく、むしろ計算された美しさすらあった。


 一瞬、如月の体はコマ送りのように空中に浮かび上がり、時間が止まったように見えた。


「ダブルアームスープレックス!?」


 カナレの近くにいた島村が大きな声で技名を叫ぶが、カナレが訂正するように声を重ねた。


「違う!」


 研美はそのまま如月を逆さに持ち上げたまま、リングに叩き落した。


 タイガードライバー。


 ドンッ!


 大砲のような音が響き渡ると、リングが軋む。


 マットの弾力が悲鳴を上げ、金具が唸りをあげて震えた。


 響きは道場の天井にまで届き、見ている者の胸骨を直接叩いたように感じられた。音が消えた後の一瞬の静寂が、逆に衝撃の大きさを際立たせていた。


 如月はマットに叩きつけられた状態で微動だにしなかった。リングの中央で、白い照明の光だけがその身体を照らしている。


 呼吸も見えず、汗の粒が頬を伝い、マットの上で止まった。その沈黙が、道場全体を凍りつかせる。


「……嘘……一撃!?」


 望月が驚愕の声を上げた時、如月の体が跳ねた。


 マットに沈んでいた背中が弾かれ、バネ仕掛けのように跳ね上がる。その動きは、意識の復帰ではなく、肉体が本能で反応したような速さだった。


 そして、そのまま後方回転で飛び上がると、何もなかったかのように立ち上がった。


 空気を裂く風圧が、リングロープをわずかに震わせる。照明の光が流れる髪に反射し、如月の瞳が獣のように光った。


 必殺のカウンターの膝蹴り——。


 視穿ち。


 マットに尻もちをついた状態の研美の顎めがけて、必殺の膝蹴りがヒットした。


 ガッ!


 乾いた衝撃音が、まるで金属を叩いたように響いた。


 肉体と肉体がぶつかったはずなのに、響き方はまるで違った。空気そのものが一瞬たわみ、道場全体が揺れたように感じられた。


 形容しがたい生々しい音が響くと、別のリングでサイドから観戦していたSAKEBIが言った。


「これって、スパーリング……ッスよねぇ?」


 誰もがその場で息を呑み、現実感を失っていた。


 SAKEBIの言葉が、虚空に吸い込まれるように響く。道場の空気は、まるで時間そのものが止まったように沈黙していた。


 本番さながらの攻防に、その場の全員があっけにとられていると、如月はすぐに後方へ飛んで下がった。


 マットを蹴る音が乾いて響き、彼女の身体が軽やかに宙を裂く。着地の瞬間、足裏がマットを叩き、低く短い音がもう一度鳴った。


 その動きには一切の無駄がなく、研美の反撃を警戒する野性の勘が宿っていた。背筋を伸ばしたまま、如月の視線は一瞬たりとも研美から離れない。


 如月の膝は研美の顎を捉えていなかった。


 膝が当たる瞬間、研美は顎を引いて額で如月の膝を受け止めた。その反応は、思考ではなく、条件反射の極地。


 衝突の余波で空気が微かに揺らぎ、髪の先が震える。


 そして研美は立ち上がる。


 何もなかったかのような平然とした顔。額には傷もなく、まるで全くの無傷といった素振りだった。


 その姿勢には余裕さえ漂い、周囲の空気を再び支配し始めていた。


「すごいね!その技!」


 如月の技に感動しているが、その目は獲物を見据えた猛禽類のようだ。虹彩がわずかに光を反射し、笑っているのに獰猛さを隠しきれない。


 如月の肌に、ぞわりとした戦慄が走る。


 如月も言葉で返す。


「研美先輩……やっぱり、あんたの技、軽いよ」


 挑発ではなく、確信めいた響き。その声に、道場の空気がまた一段と重く沈む。


 如月も先ほどの強烈なタイガードライバーのダメージがないと言った素振りで、その場でトントンと軽くステップを踏んだ。


 マットを打つ足音が一定のリズムを刻み、心拍と混ざって耳の奥で鳴り響く。その軽快な音が、逆に不穏な鼓動となる。


「相撲にはこんな技ないからね。本気でやったら背骨折れちゃうもの」


 研美が冗談めかして言うが、声には微かに獣のような唸りが混じっていた。口元には笑み、しかし目だけはまったく笑っていない。


 技の攻防と舌戦が交差しながら、二人のスパーリングはなおも続いた。


 息づかいとマットの軋みだけが、本道場に延びていく。次の一手が交わされるその瞬間を、誰も瞬きすらできずに待っていた。


 少し離れた壁際で斎藤と安西が腕を組みながら見ていると、安西が斎藤に話しかけた。


「先輩……大丈夫ですかね?」


 声はかすれて小さく、道場の空気にすぐ溶けた。


 マットの軋みと、選手たちの呼吸音だけが微かに響く中、安西の言葉だけが異物のように揺れた。


 斎藤は安西の顔を見ると、何も言わず如月たちのいるリングへと再び目線を向けた。


 表情は無機質。だが、その沈黙には、長年培った経験と重さがにじんでいる。


 安西は何かを危惧するような目でリング上の二人を見ているが、斎藤の目は勝負師の目。


 何が起ころうともこの場の責任は自分がすべて持つというような、静かな頼もしさがある。


 その眼差しには、ただ「覚悟」だけが宿っていた。


 息をするたび、道場の空気が微かに軋むようで、ロープの金具がわずかに鳴り、照明の熱が天井で揺れる。


 まるで、空間そのものがこれからの衝突を予期して緊張しているようだった。


 これから起こるかもしれない、最悪な出来事を危惧しながら、リングは再び震え始めた。


 その震えは、ロープを通して床へ、床から壁へと伝わり、まるで建物全体が呼吸を始めたかのようだった。


 誰も声を発しない。


 ただ、次の一瞬に全てが変わるかもしれないという確信だけが、場の全員の胸を締めつけていた。


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