第77話:命の膳
食堂では、食事を速やかに済ませた本田が、如月たちの席で雄弁にオカルト談義に花を咲かせていた。
湯気の立つ味噌汁の香りと、食器の触れ合う音が交錯する中、本田の声だけが妙に響いている。彼女の手元の茶碗はすでに空だが、話の勢いだけはまだ熱々だった。
「地底人には二種族がいます。ひとつは原種――つまり地球由来の者たち。そしてもうひとつは外来種、つまり宇宙人なのです!」
食堂のざわめきが一瞬だけやむ。まるで講義を聞くように、近くの席の何人かまで耳を傾けていた。
カナレと十見子は身を乗り出し、テーブルに肘をついたまま目を輝かせている。十見子の瞳は興味と半信半疑の間を行き来し、カナレは完全に子供のような顔で食い入っていた。
対照的に、SAKEBIは半分あきれ顔で、スプーンをくるくると回している。島村はよくわかっていない様子で、茶碗を持ったまま曖昧にうなずいた。
厨房が忙しい最中、半強制的に呼ばれた涼子は聞くフリをしながら厨房に指示を出している。
如月と望月は、当たり前のような顔をして黙々と食事を続けていた。まるでこの手の話は聞き飽きたと言わんばかりだ。箸の先に絡んだ麺を静かに口へ運ぶ姿に、妙な風格すら漂っていた。
「社長!どっちが悪者なんですか!?」
カナレの目がきらりと光る。その無邪気さに、本田の顔がぱっと輝いた。
如月は“待ってました”と言わんばかりのどや顔を浮かべ、椅子の背もたれにゆっくりと体を預けると、わざと低い声で神妙に語りだした。
「それは間違いなく外来種――レプティリアンです!」
本田が見えを切るように右手を勢いよく前に突き出した。その動作に、隣の茶碗がかすかに揺れる。
その迫力に押されながら、カナレと十見子は息をのんだ。驚愕と興奮が入り混じった表情で、二人の視線はすっかり本田に釘づけであった。
食堂の蛍光灯が白く反射し、本田の目が瞬く。まるで自らが“真実を語る預言者”であるかのように――。
「ねぇ……」
望月が小さく呼びかけた。
食堂のざわめきの中でも、その声だけは不思議と耳に届く。箸を動かしていた如月は動きを止め、何も言わず望月の方へ顔を向けた。
「あんたは信じるよね?だって……ねぇ」
望月はどこか本気とも冗談ともつかない声音で言う。その瞳には、からかうような仕草はなく、真剣な色が混じっていた。
如月はため息をひとつ。――またその話か、と。
豚骨スープの湯気がゆらりと立ち上り、その向こうで望月の表情がかすんで見える。
結局、望月が黙っていたのは本田が“当たり前のこと”を喋っているだけで、ただ、世界の裏側の話を“普通の雑談”として聞き流していただけだった。
如月はつけ麺をすすりながら、器の上に浮かぶ厚切りチャーシューを箸でそっと摘まみ、小皿へ移した。
脂が透けて光るその表面をじっと見つめてから、何か思い出したように望月へ話を向ける。
「なあ、この前の依り代のことだけど……」
麺の湯気の向こうで、望月が軽く首を傾げる。
如月の脳裏には、皇が話していた西園寺家の話が浮かんでいた――板絵に描かれた三女神。
その“女神を宿す”という言葉が、ずっと心の片隅に引っかかっていた。
「俺って……その絵の中に入るのか?」
少し間を置いて、望月はぽかんとした顔をした。それから、まるで当然のように微笑みながら言った。
「あたりまえでしょ?」
その声音は柔らかかったが、そこには揺るぎのない確信があった。
如月は、望月の中にある“信じること”の温度差を前にして、胸の奥に小さな疎外感を覚え、それ以上は何も言えなかった。
沈黙を埋めるように、湯気が二人の間をゆっくりと漂っていく。
(……まぁ、とりあえず如月って子に、この体を返すことができるんだから、そのあと考えればいいか……)
軽く自分に言い聞かせるような思考。
その楽観的観測が、後にどんな困難が待ち受けているのか――如月の中にいる英二は、そのときまだ知る由もなかった。
本田は、まだ二人を相手に雄弁をふるって語っている。
湯気の残る食堂で、箸の音も聞こえないほどに、自分の言葉に酔っていた。身振り手振りを交えながら、まるで壇上の講師のように――ここぞとばかりに集めた知識を披露している。
その熱量は、日ごろの職務で押し込められていたストレスを、一気に外へ吐き出しているかのようだった。
カナレと十見子はすでに相槌のリズムも失っており、SAKEBIはスプーンで氷水をいじりながら、どこか遠い目をしている。
食堂の時計の針が、カチ、カチ、と単調に音を刻む。その空気を破ったのは――突如響いた、張りのある声だった。
「お~い!」
食堂に一番近い関係者入り口の方から、聞き覚えのある声が響いた。高く澄んだ声に、全員が一斉に顔を上げる。
研美の声だった。
「はいは~い!」
その瞬間、待ってましたと言わんばかりに、SAKEBIと涼子が同時に叫んだ。
二人は視線を交わすこともなく、呼吸の合ったタイミングで食堂を飛び出していく。本田の話を中断させる絶好の機会――その足取りには、どこか解放感すらあった。
残された空気に、少しの静寂。
本田は一瞬だけ「えっ」と声を漏らし、取り残されたように湯呑を見つめた。その表情を見て、カナレが苦笑いしながら立ち上がる。
「研美先輩、帰ってきたんだな」
カナレの頬にはうっすら笑みが浮かんでいる。
だがその直後、外から聞こえてきたのは、涼子とSAKEBIの驚いたような叫び声だった。
全員の視線が一瞬で入り口へと向く。その声には、単なる再会の喜びではない、何か“想定外”の響きがあった。
「二日後って言ってたのに……何かあったのかな?」
如月の呟きが静かな食堂に溶ける。
その小さな不安の粒が波紋のように広がり、やがて全員を席から立たせた。如月たちは食事を中座し、箸を置いて声の方へと歩き出す。
外に出ると、午後の風が頬を撫でた。
空気は初春の昼下がりの熱をわずかに残し、焼けたアスファルトの匂いがかすかに漂っている。その正面に――旧型のピックアップトラックが止まっていた。
「いい車ね……」
いつの間にか一緒についてきた本田が、感心したように口元をゆるめる。その視線の先、荷台の上に立つ影がひとつ。陽光を背に受けて、手を大きく振る女性の姿があった。
研美だ。
白いシャツの裾を風が揺らし、彼女は笑顔で声を張り上げた。
「よっ!あんた達」
その声は明るく、そしてどこか誇らしげだった。如月たちの顔が一斉にほころぶ。その瞬間、場の空気が一気に色づく。
如月たちに愛想よく挨拶した研美は、嬉しそうな顔で手招きした。風に揺れる髪を払いながら、いたずらっぽく笑う。
「ほら!これ見てごらん」
促されるまま荷台をのぞき込む。
次の瞬間、冷気と獣臭のような匂いがふわりと漂ってきた。
そこには、立派なイノシシが一匹――発泡スチロールの中で氷詰めにされ、艶のある毛並みのまま静かに横たわっていた。
陽光が白い氷を照らし、溶けた水滴がぽたりと滴る。それは、どこか神聖な儀式の始まりを告げるようにも見えた。
「とーちゃんの友達が山で仕留めて、臓物抜いて血抜きしてもらったんだよ。みんなに食べてもらいたくて、早く帰ってきたんだ」
研美の声は、いつになく誇らしげだった。
イノシシの体には一筋の切り跡があり、話の通り、処理は丁寧かつ迅速に行われている。野生の匂いの奥に、どこか清冽な空気が混じっていた。
皆、イノシシを見るのが初めてなのか、言葉を失って見入っている。
カナレは「すげぇ……」と小声でつぶやき、十見子は眉を寄せて慎重に観察していた。
「あの、研美先輩……まだフィールドドレッシングの途中のようですけど?」
十見子が神妙な顔つきで尋ねる。唐突に出た専門用語に、他の面々は「え?」と顔を見合わせた。その中でただ一人、涼子が無言で荷台に上がる。
掌を合わせて拝むとイノシシの体に手を添え、状態を確認する指先の動きは実に迷いがない。氷の結晶を払いながら、冷静な声で呟いた。
「血抜きと内臓処理は……OK。冷却も完璧。臓器チェックは?」
その口調はまるでカルテを確認する医師のようで、涼子の横顔は真剣そのものだった。
研美は小さく頷いて、「大丈夫です」と答える。
「よーし、じゃあ用意するか。研美、たのんだよ!」
そう言うなり、涼子は荷台から軽やかに飛び降り。靴の底が地面をかすめただけで、ほとんど音がしない。そして、風を切るような動作で、調理場の方へ駆けていった。
その背を見送りながら、如月がぽつりと漏らす。
「あんなにデカいのに……すげー身のこなしだな、涼子さん……」
その言葉に、後ろにいた本田がぴくりと肩を動かした。
「涼子は背が高いことを気にしてるから、あまり言わないであげて」
軽い注意の声だったが、その響きには思いやりがあった。如月はばつの悪そうな顔をして、箸を持つような仕草で頭を下げた。
「……すみません」
本田は「うん」と小さくうなずき、空を仰ぐ。昼の陽が建物の端に沈みかけ、荷台の氷がきらりと光った。
「ところで、今から何が始まるんだ?」
カナレが両手を腰に当てて尋ねた。
彼女の声には、好奇心とほんの少しの緊張が混じっている。
氷詰めのイノシシはまだ白い息を吐くように冷気を漂わせ、荷台の金属がかすかに軋んだ。
その問いに、十見子がすぐ反応する。襟元を直しながら、少し鼻にかかった上品な口調で答えた。
「今からこのイノシシを解体するのですわ。剝皮してから部位ごとに解体して、精肉にするのですわ」
その言葉には妙な滑らかさがあった。
聞き慣れぬ専門用語を、まるで日常語のように口にする十見子の声音に、如月はわずかに眉をひそめる。
「なんか手慣れてるな。やったことあんのか?」
如月の言葉に、十見子はぴくりと肩を揺らした。次の瞬間、慌てて両手を振りながら答える。
「お……お爺様がジビエ好きで、よく高級レストランで食しますの!その時にシェフからお聞きしただけですわ!」
声が裏返る。
どこか焦ったような表情で取り繕うが、その視線は明らかに泳いでいた。何かを隠しているような――そんな微妙な空気が流れる。
如月は追及することをやめ、短く息を吐いた。その代わり、別のことが頭をよぎる。
この世界ではすでに畜産業は途絶え、代わりに培養肉が主流となって久しい。「肉」と呼ばれるものは、すべて専門施設の無菌槽から生まれる。
だから――この氷詰めのイノシシを前にして、どこか異質な感覚を覚えていた。“生きた命を食べる”こと。それは、もはや過去の文化のようなものだった。
そんな如月の思考をよそに、十見子は涼しい顔で言葉を継いだ。声のトーンは、どこか自慢げで、それでいて優雅だった。
「ジビエ料理を堪能することは、私のような上流階級の一種のステータスのようなものですから。ね、皇様!」
その名を呼ばれた皇は、柔らかな笑みを浮かべて一歩前に出た。淡い風に揺れる髪が光を受け、まるで金糸のようにきらめく。
彼女は十見子の言葉に合わせるように、静かに頷いた。
「そうだね……自然から授かる命は、それだけで尊い。だからこそ、感謝していただくのが礼儀――」
皇の声は穏やかだったが、どこか神事めいた響きを帯びていた。その一言に、風の音さえも遠のいた気がする。
害獣駆除で仕留められた動物は、畜産業がなくなったこの世界では、唯一食卓に上がる“本物の命ある食材”のひとつ。
人工の培養槽から生まれた肉とは違い、野に生き、風にさらされて育った命。
それを味わうことは、上流階級の人間にとって、一種のステータスであり――同時に誇りでもあった。
研美は、ピックアップトラックの荷台に乗っているイノシシの前で静かに息を整えた。そして、胸の前で手を合わせる。
その仕草は飾り気がなく、それでいて不思議な厳かさがあった。
「頂きます」と誰もが言う前に、彼女の小さな祈りが、場の空気を静かに締めた。
その動きに合わせて、如月たちも自然と手を合わせる。掌の中に、冷たい風と命の気配が宿るようだった。
やがてイノシシは研美の手で調理場へと運ばれた。
清潔に整えられた解体室には、薄っすらと薬品の淡い匂いが漂い、白い蛍光灯の光が無影のように床を照らしている。
その中心で、涼子が無言のまま包丁を手に取った。
刃先がわずかに光を弾く。
彼女の指の動きは流れるようで、まるで刃と一体化しているかのようだった。皮を剝ぎ、筋を断ち、骨の形に沿って滑らかに切り分けていく。
刃が肉を裂くたびに、かすかな音が静寂の中で響いた。
その後、骨抜き、部位ごとの切り分け、トリミングを経て――。
すべての肉は真空包装され、冷凍保存へと送られていった。作業台の上には一切の無駄がなく、包丁の軌跡すらも整然として美しい。
包装には採取日・部位などが細かく記され、研美が一枚ずつラベルを確認していく。慎重に、丁寧に。それは、まるで儀式の最後の仕上げのようだった。
興味を惹かれた数人が、その様子を黙って見つめていた。涼子の動きには、迷いがひとつもない。
その立ち姿はまるで剣士――。
ただ一太刀で命を断つのではなく、命を「整える」者のように見えた。
「はぇ……何でもできるな、この人は……」
如月が思わず漏らした声は、感嘆と畏れの入り混じったものだった。
涼子は手を止め、包丁を拭きながらふっと笑った。その瞳には仕事を終えた満足感と、少しの茶目っ気が光る。
「料理だけならね!」
そう言って、涼子は如月の方へウインクを送った。包丁の刃先が蛍光灯の光を受けて、きらりと光った――。
まるでそれ自体が、命を解く儀式の証のように。
「ところで、どうやって食べるんだ?」
カナレが腕を組み、興味津々といった様子で尋ねた。
氷詰めだったイノシシはすでに解体を終え、厨房の冷蔵庫で静かに眠っている。
太陽の光が調理場の窓から差し込み、包丁やまな板の金属面にやわらかく反射していた。
研美が腕を組み、少し考えるように顎へ指を当てる。その表情は、まるで大将が宴の献立を決めるときのように真剣だ。
「そうだね……新鮮だから、ロースはしゃぶしゃぶ。モモはジビエカレーなんかいいんじゃないかな?」
その提案に、涼子が包丁を拭きながらコクリとうなずいた。薄い笑みの奥に“職人の納得”が見えた。
「よーし、んじゃ今日の夕飯はしゃぶしゃぶと牡丹鍋!んで明日の昼はジビエカレーとバター焼きだね!」
涼子が弾む声で宣言すると、無機質な解体室の空気が一気に明るくなる。
つい先ほどまで命と向き合っていた張り詰めた静けさが、和やかな期待と笑い声に変わっていく。
カナレたちは口々に歓声を上げ、まるで遠足の前日のような浮き立った気配に包まれた。
「それじゃ、夕ご飯まで少し休憩してからスパーだな!」
カナレは両腕をぐるぐると回し、筋を鳴らすようにして気合いを入れた。その様子に涼子が苦笑し、十見子は「また始まりますのね……」と肩をすくめる。
如月は、そんな明るい空気の中でひとつ気がかりを思い出し、研美に声をかけた。
「先輩……飲んじゃだめですよ」
唐突な注意に、研美はぴたりと動きを止め、頬を少し赤らめた。
どこかいたずらを咎められた子どものような笑みを浮かべながら、両手を軽く上げてみせる。
「いくら私でも、ここでは飲まないよ」
そう言って、軽く笑いながら如月の背中をぱしんと叩いた。その手のひらには、からかい半分と、仲間への温かさが入り混じっている。
如月は少し安心したような顔で頷き、カナレたちと並んで歩き出した。背後では、研美が荷物を肩に掛け、自分の部屋へと向かっていく。
足音が廊下に吸い込まれ、やがて彼女の背中が角を曲がる瞬間――微かに聞こえた独り言に、カナレの耳がぴくりと動いた。
「……外では飲むけどねぇ……」
その声は笑っていた。
だが、その笑みの奥には、どこか風向きの変わる前の静けさのような気配があった。
窓の外で、初春の風がカーテンをふわりと揺らす。その音が、これから訪れる“嵐”の前触れのように、静かに部屋を撫でていった。




