第76話:ロードノイズとオカルト談義
後部座席で、高速道路のガードレールの先を見つめている如月。
流れる街灯が車窓を一定のリズムで照らし、光と影が交互に彼女の頬をなぞっていく。
車内には、タイヤがアスファルトを擦る低い唸りと、エアコンの微かな風の音だけが残っていた。
楽しかった食事会も終わり、日はゆるやかに暮れ始めていた。先ほどまでの笑い声や食器の触れ合う音が、遠い過去のように思える。
研美と一之進に別れを告げる去り際――研美は如月に、ほろ酔い気分で父にしがみつきながらにこやかに如月へと告げる。
「二日後に戻るから、その時はスパーしようね……」
その声は少し掠れて、けれどどこか弾むような響きだった。とろんとした瞳で楽しそうに笑う研美の顔が、まだまぶたの裏に焼きついている。
頬に残った微かな体温まで思い出すようで、如月はぼんやりと物思いに耽った。
少し前まで、カナレたちは賑やかに会話をしていた。けれど今は、車の揺れに合わせて静かな寝息を立てている。
助手席のカナレは寝言をつぶやきながら、首を傾けて窓に寄りかかっていた。運転席の斎藤は、その姿を一瞥しながら、カナレを包むように掛けた自分のジャンパーを、時折やさしく直してやっていた。
普段の強烈ないびきは少なく、寝る体制のせいなのかと苦笑いしながら如月は見つめていた。
対向車のライトが一瞬だけ車内を染め、またすぐに夜の闇が戻る。その中で、如月の視線だけが変わらず前方を見つめ続けていた。
ロードノイズが一定の間隔で眠気を誘う。規則正しいその音は、まるで遠くの潮騒のように単調で、心をゆっくりと撫でていく。
しかし如月は、瞼を閉じようとはしなかった。斎藤の運転する手元に、ちらりと視線をやる。
両手でしっかりとハンドルを握るその手には、古傷のような節くれが浮かんでいる。
街灯がフロントガラスを通して流れ、斎藤の横顔を一瞬ずつ照らしては過ぎていく。その光が消えるたびに、彼女の表情が少しずつ暗く、沈んでいくようにも見えた。
如月は、車内の空気の重さを感じながらも、あえて黙っていた。そんな彼女の沈黙に気づいたのか、斎藤が穏やかに声をかけた。
「如月、お前も寝ていいんだぞ?」
ハンドルから片手を離し、ミラー越しにこちらを見やる。いつもの“コーチ”の声ではなかった。
そこには、指導者ではなく――長年、選手を見守ってきた一人の理解者としての、やさしい響きがあった。
「大丈夫です。自分、乗り物で寝ると気分悪くなるので……」
如月は気を遣うでもなく、率直に自分の体質を答えてやんわりと断った。
だが、斎藤の横顔には、どこか影が差している。その沈黙の奥に、何かを抱えているのがわかった。
それは――自分の指示で如月たちを危険な目に遭わせてしまったという、後悔。あの瞬間の判断を、今も彼女は反芻している。
外の闇が、窓の向こうをゆっくりと流れていく。車内には、エンジンの低い唸りと、二人の呼吸だけがあった。
如月は、そんな斎藤を横目に見ながら思う。いつもなら、少しの沈黙のあとに世話を焼くようなセリフを言う人だ。
だが今は違う――沈黙が、何かを噛みしめているように思えた。
皇を中心にであれよあれよとにじみ出た懸念材料。
KDP、西園寺家、そしてリング王。
一夜にして面倒な案件が重なり、Queen Bee選手会では今、内部でもざわめきが絶えない。
就寝前、親子の定例ビデオ通話で、SAKEBIは、画面越しに父親の不安そうな表情を感じたと、食事の中座の際に告げられた。
斎藤は審判部長でありながら、Queen Bee創設以来、本田とともに団体を支えてきた。選手の指導、興行の運営、スポンサーとの折衝。
そのどれもが、今やひとつの歯車でも狂えば立ち行かないほどの重責を帯びている。
今回の騒動は、すでに選手会からスポンサーにまで波及し、今後の対応を巡って協議が続いている――。
その中心にいるのが、ほかならぬ斎藤だった。
彼女の背中に漂う静かな疲労が、車内の空気に溶けていく。如月はその横顔を見ながら、ただ黙って前を向いた。沈黙はやがて、夜のロードノイズに吸い込まれていった。
選手の育成、そして会社の経営――。
本田の手の届かない部分を一人で支え続けてきた斎藤は、頼もしくもあり、どこか放っておけない人物でもあった。
その背中には、幾多の修羅場をくぐってきた者だけが持つ、静かな気迫と疲労の両方が共存している。
車の振動に合わせて、わずかに揺れる肩。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
如月は、窓の外を流れる夕焼けの光を見つめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……斎藤コーチ。あんまり無理しないでくださいね」
小さく、それでいて真剣な声音だった。如月は、今回の事情を知る数少ない選手のひとり。
無茶な要求をして選手を困惑させることもあるが、それは常に“守るための厳しさ”だと知っている。
意味もなく怒鳴るような人ではない。むしろ、叱るたびに自分の胸を痛める人間。
昔気質で、義理堅く、情に厚い――。
如月にとって斎藤は、そういう“過去の背中”を残す最後の人物のように感じていた。
運転席の斎藤は、何も言わずに前を見据えたまま、ほんの一瞬だけ口元をゆるめた。それが笑みだったのか、照れ隠しだったのか、如月にはわからない。
やがて、低く穏やかな声が返ってきた。
「選手がそんなこと心配しなくていい。お前たちは――リングの上で戦うことだけを考えていればいいんだ」
その声は、叱咤や命令でもなく、願いのように聞こえた。
夕陽の向こうに連なる山々が、赤から藍へとゆっくり色を変えていく。ハンドルを握る斎藤の横顔を照らした橙の光が、やがて夜に溶ける。
車内には、再びロードノイズだけが残った。
けれど如月の胸の奥では、その言葉の余韻が、静かに響き続けていた。
――翌日。
朝のトレーニングを終えた選手達は、汗を拭いながら食堂へ集まり、涼子の手料理を囲んでいた。
窓の外には陽射しが差し込み、湯気と笑い声が混ざり合う。筋肉を使い切った体に、漂ってくる香ばしい匂いが容赦なく食欲を叩き起こす。
今日のメニューは――。
Aセット、スーパーリッチセット。
Bセット、生姜焼き定食。
スーパーリッチセットは、涼子が三日間かけて仕込んだ二種類のスープを基軸にした、醤油・豚骨のつけ麺から選べる贅沢な一品。
副菜には唐揚げとチャーハンが並び、まるで“闘う者の完全補給食”。
さらに小皿のザーサイとピータンがアクセントとなり、すべての味を包み込む――涼子渾身のフルコースだ。
一方の生姜焼き定食は、奇をてらわない王道メニュー。
だが、涼子達卓越した調理人の繊細な包丁さばきで切られたキャベツに、中毒性の高い甘辛いタレがじわりと染み込み、箸が止まらなくなる。
その味は、まるで永遠に食べ続けられるような魔力を持っていた。
しかも圧巻なのはその量だ。通常の2倍の生姜焼きと山盛りのキャベツ。さらに、秘伝の赤味噌を使った味噌汁が、湯気を立てながら縁を揺らす。
そして極めつけは、お替り自由という最強のフレーズ。
それはまさに“永久機関”の名がふさわしい、食欲を刺激し続ける人気メニューだった。
あっさりとガッツリのカテゴリーはどこへやら。厨房から立ちのぼる匂いは、練習の最中から選手たちの腹を鳴らせていた。
スクワット、プッシュアップ、受け身、ブリッジ――汗を流しながらも、頭の中ではすでに“今日どちらを攻めるか”という真剣な戦略会議が開かれていた。
湯気の向こうでは、味噌汁の香りに釣られた笑い声がひとつ、またひとつ重なる。リングの上では見られない穏やかな時間が、食堂いっぱいに広がっていた。
いつものメンバーが席につき、待ちに待った料理を前にして目を輝かせていると、如月がクギを刺すように言った。
「お前たち、昨日あれだけ食べたのに……今日もまた、すさまじい量だな……」
呆れたように言う如月が手に持つトレイには――Aセット・スーパーリッチセットに加えて、チャーハンが大盛仕様に変更されて威風堂々と存在を誇示していた。
スープの湯気がふわりと立ちのぼり、芳ばしい香りが鼻をくすぐる。
「あんたも人のこと言えないでしょうが!」
望月の鋭いツッコミが食堂に響くが、目の前の唐揚げの量は少し大ぶりで、ほかの選手たちのより数も多かった。
その声に他の選手たちがくすりと笑い、ざわめきと食器の音が一層賑やかに広がった。
いつもの光景――。
湯気と笑い声と箸の音が入り混じる、誰もが試合の緊張を忘れ、ほんのひとときだけ戦士の顔を緩めている。
「僕、勢いで豚骨にしちゃったけど……午後のスパー、大丈夫ッスかね?」
SAKEBIが、どこか不安そうだった。テーブルの上のラーメンからは、湯気と共に濃厚な香りが立ち上る。
涼子が作る豚骨スープはライト系ではない、本場の“くさうま”系。
ニンニクのアリシンを巧みに引き出して熟成を促したスープは選手たちを虜にするが――。
やはり皆、プロレスラーである前に年頃の乙女。食後の匂いを気にして避ける者も多かった。
すると、受け取り口から涼子が顔を出した。白いバンダナをきゅっと結び直しながら、笑顔で声をかける。
「SAKEBI~。今日の豚骨は臭いを抑えた仕様だけど、旨味もそのまま。気になるなら牛乳飲めば平気だよ」
その声に、食堂の空気がぱっと明るくなる。数名の選手が一斉に立ち上がり、勢いよく手を挙げた。
「涼子さん!ラーメン追加いいですか!?」
力強い注文に、涼子も思わず苦笑いする。
「あんた達ねぇ、スープそんなに余ってないんだからね!」
ぼやきながらも、うれしそうな顔で手際よく鍋の火を強めた。
カナレはその光景をニヤニヤしながら眺め、生姜焼きと共に白米を豪快にかき込む。一瞬で口に放り込み、数回咀嚼して飲み込んでから言った。
「それにしても、すごかったよな。あの森」
口の中にまだ旨味の熱が残るまま、ぽつりとこぼしたその言葉。
カナレは如月たちと共に訪れた“白魔洞窟”のことを思い出していた。ざわめく食堂の中で、ほんの一瞬だけ、彼女の声に“昨日の森の湿り気”が蘇るようだった。
「熊だろ?それに、訳の分かんない爺ちゃん……」
カナレは箸を動かしながら、森で出会った奇妙な人物たちを思い返している。キャベツにタレを染み込ませるように、箸の先で軽く抑え、そのまま口に運んだ。
「あの爺ちゃん、何だったんだろうな。すっげー格好してたし、ジャンケンの時も如月っちが何を出すか分かってたみたいだし」
語りながらもどこか愉快そうで、口元には微かな笑みが浮かんでいる。
あの不気味で、異世界な雰囲気を醸し出す“白魔洞窟の朝”の出来事が、まるで夢のように遠く感じられた。
そのとき、隣の十見子がぴしゃりと口を挟んだ。
「カナレさん!お下品ですわ!食べ終わってからお喋りになったらどうです!?」
テーブルに小皿を置く音が、軽く響いた。その整った所作とは裏腹に、声の調子にはやや苛立ちが滲んでいる。
「何だお前!なに当然のように仲間ヅラして座ってんだ!」
カナレが眉間にシワを寄せ、口の端にソースをつけたまま反論する。その顔に、十見子が呆れたように息をついた。
島村が慌てて二人の間に手を伸ばし、苦笑しながらなだめる。
そんな中、向かいの席でSAKEBIが箸を止めた。やや身を乗り出し、両手を幽霊のように構えてカナレを見つめる。
「僕たちはそのお爺さん見てないッスけど……もしかしてお化けとか……」
“お化け”という単語を、少し声を潜めて発した。周囲のざわめきが一瞬だけ小さくなる。
カナレは恐々と目線をそらし、キャベツを頬張った。「そんなモノはいない」と言わんばかりに咀嚼しながら、顔をしかめる。
そんな様子を見ていた如月も、どこか引っかかるような感覚を覚えていたのか、静かに会話に加わった。
「確かに、不思議な爺さんだったよな。お化けっていうより……仙人みたいな感じだったな」
その声は淡々としていたが、ほんの少しの“敬意”と“畏れ”が混じっていた。
言葉を聞いたカナレと十見子は、思わず動きを止める。
二人の脳裏には、あの森の中で見た老人の姿――土と霧の中に溶け込むような白い衣、そしてどこまでも澄んだ瞳――が浮かんでいた。
やがて二人は、顔を見合わせ、なんとなく納得したように小さくうなずいた。食堂の喧噪の中、そこだけ時間がわずかに緩む。
まるで、誰も知らない秘密を共有したかのように――。
別の席で食事をしていた他の選手たちも、耳を傾けながら箸を進めている。
――選手たちを気遣うように少し離れた席。
いつもの指定席で、本田はポーカーフェイスのままザーサイをひと口つまみ、まるで食堂のBGMのように流れる会話を聞いていた。
「でも、一番すごかったのは……あの地底人だよな」
カナレの不用意な一言に、“地底人”という単語が空気を震わせた。
ほんの一瞬――本田の箸が止まる。
如月はその様子を横目で見つけ、すぐに突っ込んだ。
「だから、あれは地底人じゃなくてモグラだよ……」
しかしカナレはまったく引かない。
両手を使って大げさにジェスチャーを交え、まるで実際にその“地底人”を見たかのように話を盛りはじめた。
「いや、あれは明らかに人型だった!こう、土の中から“ずぼっ”て!」
その勢いに、周囲の選手たちがくすくすと笑う。
だが次の瞬間、カナレの背後に“空気の変化”が走った。
――静かな足音。
カナレが振り向くと、そこには本田が立っていた。
腕を組み、神妙な顔つきでじりじりと近づいてくる。その表情には怒りではなく、何か確かめるような真剣さが宿っていた。
「……えっと……社長、私、何かイケナイコトシタ?」
カナレはまるで母親に叱られる前の子どものように、目を泳がせながら片言で尋ねた。如月たちも思わず背筋を伸ばし、本田の気迫に息をのむ。
本田はテーブルの前で立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。
「天道カナレ……」
「はっ……はい!」
カナレが反射的に返事をした瞬間、食堂中の視線が二人に集まる。短い沈黙のあと――本田はまっすぐな目で聞き出した。
「地底人……見たのですか?」
声は低く、しかし驚くほど真剣だった。冗談ではない。完全に“本気”の問いかけ。
カナレは口をパクパクさせ、如月が先に言葉を継いだ。
「社長……もしかして、好きなんですか?そういうの」
本田はゆっくりと如月の方へ顔を向け、無言で小さく頷いた。その仕草が妙に真面目で、逆に場の空気がふっと緩む。
厨房の奥で、フライパンを振っていた涼子が、ため息まじりに呟いた。
「……また始まったよ、あの子のオカルト好きが。ありゃ長くなるよ……」
その声には、あきれと親しみが半分ずつ混じっている。涼子の背中からは、早く片付けてこの場から去りたいという空気がジワリとにじみ出ていた。
しかし食堂の面々も、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに食事に集中し始める。
本田が調理場にいる涼子を手招きして呼ぶ。
涼子は「え?」という表情で自分の顔に指をさして本田に確認するとうんうんと頷き、渋々本田たちのいる場所まで出てきた。
“社長のオカルト談義”が始まる――それは、Queen Beeの日常におけるちょっとした風物詩なのだ。




