第75話:完璧じゃないごちそう
大広間に湯気が立ちこめていた。
高い天井の梁にまで、白くやわらかな蒸気がゆらゆらと漂い、灯りの光を滲ませている。
長く伸びた膳の上には、大鍋を中心にして、絢爛豪華な海と山の幸がずらりと並んでいた。
湯気の間を縫うように立ちのぼる出汁の香り――メインの具と山の恵みが溶け合い、嗅ぐだけで唾が湧いてくるようだ。
鍋の中ではスープが小さく泡立ち、メインの具と野菜が踊るように浮き沈みしている。
皆、目を輝かせて料理を取り、箸を止めることも忘れて舌鼓を打っている。
木箸が器を打つ音、笑い声、鍋のグツグツとした音が入り混じり、まるで宴のような賑わいだった。
「うっまあ~い!」
「なんですのこれ!なんですのこれ!」
うまさの衝撃に感激のあまり身震いするカナレと、勢いのままに食べ続ける十見子。二人の頬はうっすら紅潮し、幸せそのものの表情を浮かべている。
メインの鍋料理の具材――それはスッポンだった。
――鈴木家秘伝すっぽんちゃんこ鍋。
澄みきった黄金色のスープの中で、スッポンの身はふっくらと煮え、脂の膜がほのかに光を反射している。
湯気の向こうから漂うその独特の滋味の香りに、誰もが一瞬、手を止めて見惚れた。
近くにスッポンの養殖場があり、調理できる状態で手に入れて、研美が自ら包丁を握って仕込んだという。
骨の下処理から出汁取りまで、すべて一から丁寧に行われたその鍋は、まさに職人技の結晶だった。
そのほかにも、スッポンのスープに唐揚げ、刺身に煮物――。
湯気とともに立ちのぼる香りは濃厚で、出汁の旨みと油の甘い匂いが空気の層を作っている。
テーブルの上はまるで小さな饗宴のようで、箸を動かすたびに器が軽く触れ合い、笑い声が弾んだ。
如月以外のメンバーは、最初こそ少し抵抗があった。見慣れぬ食材の姿に戸惑い、箸先でつついて様子を伺っていたが――一口食べた瞬間、表情が変わった。
濃厚なコクと、舌にまとわりつくまろやかさ。それは滋養の塊そのものだった。
今では誰もが夢中になっている。破竹の勢いでスッポンを食べ、鍋の底が見え始めても誰も箸を止めようとしない。
「そんなに美味しく食べてもらって、作った甲斐があったってもんだよ」
研美の口調は穏やかだったが、その目は職人のものだった。
味を褒められてもどこか納得いかぬ様子で、鍋の中を覗き込みながら、ゆっくりと木杓子でスープをすくって小皿にそそぐと味見する。
しかし、研美は少し味に不満だった。
できるなら、もう少し時間をかけてスープを煮出したかったのだ。味わうというより、今は自分の腕を確かめるように、舌で微細な変化を追っているようだった。
スッポンも、今では昔の名残で“養殖場”と呼ばれているものの、実際には培養肉でしかない。
だが、その技術は驚くほど進歩しており、通常の養殖スッポンより味や滋養も天然に劣らない――むしろ優れているほどだ。
研美はその素材を知り尽くした上で、調理の手加減を計算していた。
すると、島村が箸を止めて研美に尋ねた。
「あの……私たちも頂いちゃってよかったんですか?」
遠慮がちに言う島村の声には、礼儀正しさとほんの少しの不安が滲んでいた。望月も気を使うように隣で手を止め、研美の様子を伺う。
しかし、研美はすぐににこりと笑って答えた。
「ご飯はね、みんなで食べればもっと美味しくなるんだ。遠慮なんかしちゃだめだよ」
その声には、土鍋のような温かさがあった。柔らかくも芯のある言葉に、二人は思わず顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべる。
研美は嬉しそうな顔で、皆の器を見回しながら給仕に気を回していた。鍋の中の具をひとつひとつ見極め、ちょうど良い頃合いで取り分けてやる。
その所作には、料理人というより、家族をもてなす母のような優しさがあった。
「そういえば、なんでお前たちも来たんだ?」
如月が箸を止め、ちらりと周囲を見回しながら言った。
鍋の湯気がゆらゆらと上がり、笑い声に混じって箸の音が小気味よく響いている。そんな中で、SAKEBIが勢いよく手を挙げた。
「斎藤コーチが『修行だついてこい!』って言ったから、みんなついてきたッス!」
いつもの調子で明るく答えるその声に、場が少し笑いに包まれた。
相撲部屋に招かれての食事会――本来なら緊張してもおかしくないが、SAKEBIの人懐っこさが空気をやわらげている。
斎藤が、湯気の向こうから穏やかに続けた。
「今日は皆休みだからな。折角だからこちらにお邪魔して、相撲体験でもと思って横綱に連絡したんだ」
いつもの厳しいコーチの顔ではなく、弟子たちの成長を静かに見守る師の声音だった。
如月はそのやさしさの中心にカナレがいるとわかっている。
――やっぱりカナレが可愛くて仕方がないんだろう、と。
視線を横に移せば、斎藤はカナレの横にぴたりと座っている。
箸の持ち方を直してやったり、飲み物や器を取ってやったりと、さりげなく世話を焼いている。
それを受けるカナレの顔は、どこか照れくさそうで、けれど嬉しそうでもあった。
鍋の中ではスープがクツクツと音を立て、湯気がふたりの間にやわらかく立ちのぼる。
厳しい練習の時とは違い、今の斎藤の表情は穏やかだった。今回の件で確かに成長した弟子を見て、内心では誇らしくて仕方がないのだろう。
その光景を見て、如月は小さく息を吐いた。
――やっぱ師弟ってのはいいもんだな。
そして如月は、楽しみにしていたスッポンの唐揚げをそっと隣に置き、海の幸である刺身の盛り合わせを堪能しながらカナレと十見子に言った。
「それにしてもお前ら、よくもイカサマしやがったな」
如月が、スッポン鍋の湯気の向こうから二人に目を細めて言った。その声音は呆れ半分、面白がり半分といったところだ。
スッポンの唐揚げを手にしながら、望月が不思議そうに首をかしげる。
「イカサマって?」
如月は、望月たちに白魔洞窟で出会った“元老人”のことをゆっくりと説明しはじめた。
あの薄靄の森、湿った空気、そして掠れ声の老人――その姿を思い出すたび、今なお背筋に微かな寒気が走る。
話を聞いていたカナレが、少し申し訳なさそうに顔を伏せながら如月に説明する。
「あのじいちゃんが、グーチョキパーってしてたんだよな」
カナレは正面にいる十見子の方をちらりと見る。十見子は得意げに頷くと、胸を張って答えた。
「グーで止まったタイミングで勝負を仕掛けましたわ!」
その瞬間、二人は顔を見合わせて声を上げて笑う。
湯気の中、頬を紅潮させながらスッポン鍋を頬張り、如月の顔を覗き込むように見て――ニヤッと笑う。
その笑みは、まるで悪戯を仕掛けた子どもたちのように無邪気だった。再び箸を動かし、何事もなかったようにスッポンを堪能し始める。
「ったく!」
如月は肩を落としながらも、どこか笑いを堪えている。
悪態をつくわけでもなく、黙って菜箸を動かし、鍋の具材を静かに入れていく。湯気の中で、スープがぐつぐつと音を立て、如月の思考のリズムを刻むようだった。
(……あの爺さん、間違いなく最初に俺の行動を理解したうえで、二人に知らせていた……)
如月の眉がわずかに寄る。
あの老人の掴みどころのない笑みと、底の知れない眼差しを思い出す。
――まるで、自分の《神眼》のように先を読んでいたかのように。
鍋の中で泡が弾け、湯気が再び立ち上る。宴のざわめきの中、如月だけがひとり、わずかに沈んだ思索の色をその瞳に浮かべていた。
しかし、ギフトの力は女性のみにしか発現しないことは理解している。それ以外に考えようがないと、如月は難しい顔でアワビの刺身を咀嚼していた。
コリッ、という小さな音が静かな間に響く。噛み締めるたびに潮の香りが広がるが、表情は険しいままだ。
まるで哲学者が難問を考えながら食事をしているようだった。
その姿を見ていた研美が、ぷっと吹き出しそうになるのを堪えながら、肩を震わせて言った。
「如月、なんて顔でアワビ食べてるの?硬すぎたかい?」
その一言に場の空気が一瞬ゆるむ。笑いのツボに入ったのか、研美は口を手で押さえながら必死にこらえていたが――限界だった。
「ふふっ……あははっ!」
堰を切ったように笑いだす。
肩を揺らして笑うその姿は普段の凛々しさからは想像もできず、皆が目を丸くした。
鍋の音も一瞬止まり、誰かが箸を落とす小さな音が響いた。カナレは心配そうに身を乗り出して言った。
「トガミ先輩……大丈夫か?」
その声音には、どのように対応すればよいか皆が迷っていると、そんな娘の姿を見て一之進が、申し訳なさそうに眉を下げて答えた。
「いや~皆さん、すみません。うちの娘、酒癖が悪くて……」
その言葉に、一同の視線が一斉に研美の手元へ向かう。よく見ると、彼女は片手に年季の入った三勺枡をしっかりと握っていた。
そこには並々と日本酒が注がれており、表面張力で縁からこぼれそうになっている。
研美はそれを美味しそうに、ゆっくりと口元へ運んだ。
枡の縁が唇に触れるたび、わずかに酒の香が立ち上り、湯気の中でふわりと広がる。 照明の光がその横顔を照らし、頬が紅に染まる。
それを美味しそうに、ゆっくりと枡を口に運ぶ研美の姿は、どこか艶っぽく――年上の女性としての落ち着きと、ひとりの人間としての愛嬌が同居していた。
湯気と香り、そして彼女の笑い声が溶け合って、大広間は一層やわらかい空気に包まれた。
「酒臭いなあとは思ってたけど、研美先輩かよ……」
如月のぼやきに、小さな笑いが漏れる。
「笑い上戸か……」
カナレも研美の姿を見て、小皿に盛りつけられた鍋の具材を箸で持ち上げながら神妙な顔で答えた。
しかし、如月は笑えなかった。心のどこかに引っかかるものがあった。
――Queen Beeの鉄の掟、三禁。
酒、たばこ、男。
二十五歳定年までの間、その3つはQueen Beeに所属している限り、絶対に手を出してはならない。
それは単なるルールではなく、誇りと規律の象徴だった。
それに、この場には鬼コーチの斎藤がいる。鉄の掟が具現化したような彼女、よりによって選手の飲酒を見逃すはずがない――そう思った。
如月は恐る恐る、斎藤の方を盗み見た。
だが、意外なことに斎藤は何事もなかったように刺身をつまみ、淡々と箸を動かしていた。その表情は穏やかで、むしろご満悦と言っていいほどの落ち着きぶりだった。
湯気が二人の間をゆらゆらと隔て、酒と出汁の香りが混じり合う。如月は箸を止めたまま、ますます混乱していた。
(……いや、さすがに気づかないわけがないよな……)
不思議に思っていると、斎藤がちらりと如月を見やり、低い声で言った。
「どうした、如月?」
短い一言。
だがその低音には、妙に腹に響く重みがあった。如月は一瞬、背筋を正す。
動揺を隠しきれないまま、目だけで研美の方を示す。斎藤は、まるで最初から察していたように軽く息をつき、ゆっくりと答えた。
「研美はベテラン勢。三禁は対象外だ」
その声音は柔らかくも、絶対の説得力を帯びていた。言葉の余韻が残る間、鍋の中のスープがクツクツと小さく泡立つ。
その音が、まるで斎藤の言葉を裏打ちするかのようだった。
如月は小さく頷いた。 納得したというより、ようやく胸のもやがほどけたという感じだった。
斎藤は、目の前にある刺身の盛り合わせから白身を箸でつまんだ。
手首の動きは無駄がなく、ゆるやかに。ワサビを醤油に溶かさず、ほんの少しだけ刺身の上に乗せ、くるりと巻いて口に運ぶ。
その仕草は流れるようで、醤油も少量――あくまでも、素材の味を尊ぶ通の食べ方だった。
斎藤の言葉に「なるほど」と理解しながら、如月はその食べ方を見つめていた。そして、ふと胸の奥に遠い記憶がよみがえる。
(……そういえば、師匠も同じような食べ方してたな……)
英二の師、アルフォンス。
ドイツ人でありながら、日本の流儀や所作に驚くほど精通していた。礼の角度、箸の扱い、茶碗の持ち方――何ひとつおろそかにしない。
よく英二も、食事や普段の生活のひとつひとつを窘められたものだった。
英二はそんな師匠に応えるべく、懸命に覚え始めた。
だが、どうしても直せない癖がひとつだけあった。
それは、ある日IWAの道場で、小腹が空いて近くの蕎麦屋にざるそばを注文した時。つゆにつけてすすっていたその瞬間――。
背後から、容赦ない拳骨が飛んできた。
「いてっ……!」
理由がわからず頭を押さえていると、アルフォンスは額にシワを寄せて言った。
「英二!麺をすすって食べるな!」
厳しい声音に、英二はただ呆然とするしかなかった。アルフォンスはさらに言葉を重ねる。
「スパゲッティーのように、巻いて食べろ!」
アルフォンスは手本のように、自らフォークのように箸を回して器用にそばを手繰り寄せる。あまりの真剣さに、英二は笑うこともできなかった。
――文化の壁は、時には越えられないものがある。
その時、心の底からそう思った。
記憶の中の笑い声が遠のく。如月は無意識に箸を止め、わずかに息を吐いた。
目の前の斎藤が、ゆっくりと湯呑を手に取る。その姿が、ほんの一瞬だけ、あの師の背中と重なって見えた。
如月は思い出しながら、刺身に添えられている大根のツマをつまんで口に運んだ。しゃき、と軽い音がして、口の中に冷たい水気と微かな辛みが広がる。
そのまま何気なく視線を横にやると、研美の姿が目に入った。
彼女はくいっと三勺枡を空け、頬を少し紅潮させている。その動作の流れで、横に置いてある手のひら大のガラス徳利を手に取り、楽しそうに枡へと酒を注いでいた。
透明な液面が光を受けてきらりと揺れ、枡の縁から細い筋をつたって滴が落ちる。
明らかにペースが速かった。空気の中に、酒の香と湯気の混じった柔らかな甘い匂いが漂う。
「なんだか今日は気分がいいねぇ~」
ほんの少しだけ呂律が回っていない。その声には上機嫌な弾みがあり、まるで子どものように無邪気だった。
その姿を見ていた一之進が、思わず苦笑まじりに注意する。
「研美、皆さんの前だろ!もうよしなさい!」
父親の声は穏やかだったが、どこか本気の焦りも混じっている。
そう言って徳利を取り上げようと身を乗り出すと、研美は先に手を伸ばし、ひょいとかわして立ち上がった。
「やだぁ!まだ飲むのぉ~!」
わざとらしく体をひらりと避け、笑いながら枡を掲げる。湯気と笑い声の中、徳利を取り合う父娘の姿に、場の空気は一気に和んだ。
その様子を見て、如月は思わず口にする。
「酒癖悪いな、この人」
呆れたような声に、周囲から小さな笑いが起こる。皆うんうんとうなずきながら、どこか温かい視線を向けていた。
完璧な人はいない――。
そう思いながら、如月は菜箸を動かし、スッポンの唐揚げをひとつ摘んだ。外は香ばしく、中はとろけるように柔らかい。
その味が、なんとなくこの場の空気と重なっているように感じられた。




