第73話:白魔洞窟の翁
長いヒゲを蓄えた小柄な老人が如月を指さした。そこは先ほど如月が腰を下ろしていた場所だった。
湿った土の匂いが立ち上り、朝靄のような薄い光が地面を淡く照らしている。如月を見据えて、説法を解くような、どこか諭す響きを帯びた声で言った。
「姉ちゃん……ケツ……踏んどる」
声は低く、掠れているが妙に通る。長年、土や風と共に生きてきた人間特有の深みがあった。
老人が指さしたところを見ると、そこは先ほど如月が腰を下ろしていた場所。
地面がモゴモゴと動いている。乾ききっていない黒土がゆっくりと盛り上がり、細かな粒がかすかに震えていた。
目を凝らしてみると、小さな動物の手と思わしきものが地面から突き出され、必死に外に出ようとしていた。
その手は薄桃色で、爪の先に微かに泥がこびりついている。
「地底人か?」
おずおずとした声で、如月の背後からのぞき込んでいたカナレが言った。森の奥から吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らし、場の空気をわずかにほぐす。
「そんなわけあるか!」
カナレの冗談とも本気とも取れる言葉をよそに、如月はカナレの手を軽く振り払ってその場所へ向かった。
少し盛り上がっている土を、掌でなだめるように優しく掘り起こす。
指先に伝わる感触は、しっとりと湿った土のぬくもり――生き物の息遣いが混じるような感覚だった。
すると、湿った土の中から小さな鼻先がぴょこんと現れ、モグラが頭をひょっこりと出した。
その瞬間、微かな土埃が光を受けて舞い上がる。目の奥がきゅっとすぼまり、まるで眩しそうに光を確かめるようだった。
土の色と毛並みがほとんど同化しており、陽の光に照らされたその小さな生き物は、まるで森の欠片が動き出したようにも見えた。
モグラは土の中から這い出ると、そのまま木陰の方へ逃げていった。
まだ湿った背中に、朝の光がうっすらと反射して、小さな影が土の上をすべるように走った。
老人は微笑むでもなく、ただ静かに目で追っていた。
その横顔には、どこか懐かしむような陰があり、まるで遠い記憶の中に同じ光景を見ているかのようだった。
そして、キセルの吸い口を銜えながら再び同じような口調で言った。
「……地面の下にも生はある。人間の都合だけで生きてたらあかんで……」
その声は低く、柔らかく、湿った森の奥に染み込むようだった。少し関西なまりのトーンで、まるで如月を諭すような声だった。
湿った森の空気が、その言葉を吸い込むように静まり返る。吹き抜ける風さえ息をひそめ、葉のざわめきが一瞬だけ止まった。
如月は何も言えず、ただ老人の言葉が胸の奥に落ちていくのを感じていた。
「師匠!」
そのとき、大きな声で老人に駆け寄っていったのは一之進だった。足元の落ち葉がバサリと舞い上がる。
二人はどうやら面識があるようで、懐かしむ一之進とは対照的に、老人はにこやかだが、どこか落ち着き払っていた。
その姿は、何もかも見透かしているような静けさを纏っている。動じることのない、まるで古木のような存在感。
やがて一之進は皆に老人を紹介した。
「私の師匠で、今は引退されて各地を放浪なさっている元さんだ」
紹介の声とともに、森に射す光がわずかに角度を変え、老人の白いひげを金色に照らした。
木漏れ日がゆらゆらと揺れ、まるで森そのものが彼を迎えるように光を投げかけている。
その眼差しには、年月を超えた穏やかな光と、何処までも澄んだ深さがあった。
そう呼ばれた老人――元は、ヒョコヒョコと先ほど腰かけていた岩の上に軽々と飛び乗り、再び腰を下ろした。
その動作には年齢を感じさせない軽やかさがあり、まるで風が衣を運ぶようだった。
腰を落ち着けると、背筋をすっと伸ばし、どこか達観した山の翁のような気配を漂わせた。
古びたジーンズに純白の作務衣。その上にの、真っ赤な――まるで還暦祝いのような――ちゃんちゃんこを羽織っている。
その赤は、朝霧の薄明かりの中でも鮮烈で、湿った緑の森にぽつりと灯る焔のように映えた。
頭にはどこかの球団のマークが入ったサンバイザーをつけ、根元まで白く染まった長い髪を頭のてっぺんで団子のように結っていた。
その何とも独特な服装に、皆あっけにとられていた。 森を抜ける風が一瞬、静寂を連れて通り抜ける。
誰もが息を呑み、言葉を失う中――カナレが、ぽつりと素直な疑問を口にした。
「師匠って相撲の?」
その言葉を聞いて一之進は顔をほころばせたが、首を振って訂正する。笑みには照れと誇りが入り混じっている。
「いやいや、私の鍛冶仕事を一から教えてくれた師匠だよ」
誇らしげな表情で紹介する一之進。その声には、恩人への敬意が滲んでいた。森の奥に吸い込まれるような静けさの中で、その一言だけがまっすぐ響いた。
力士を引退後、協会の黒い部分にどうにも馴染めず、親方職を蹴って相撲甚句協会の会長としてだけ名を残した。
しかし、ほとんど協会に顔を出すことはなく、イベントや特別な興行があるとき以外は、田舎の村で静かに暮らしていた。
その村は、山の霧が朝晩に流れ込み、冬になると炉の煙が屋根の上を漂うような場所だった。
踏みしめれば土の匂いが立ち、川辺には黒光りする砂鉄が混じっていた。都会の喧騒を離れたその土地で、一之進はようやく“呼吸”を取り戻したのかもしれない。
たまに近所の子どもに請われて相撲の指導をしながら、娘の研美も興味を持ち始めていたため、親子そろって稽古をつける日々。
静かながらも熱のこもった、そんな暮らしだった。
元々現役当時から刀剣には関心があった一之進だったが、相撲の師匠である親方から「刀は折れるから縁起が悪い」という理由で咎められた。
しかし、好奇心には勝てず、密かに数本の日本刀を隠し持っていたという。
そのうち、自分でも作ってみたいと思うようになったが、刀を打つには厳格な徒弟制度を受ける必要があったため断念。
代わりに、免許のいらない刃物鍛冶を趣味として始めた。
最初のうちは、鞴や火床を扱う手つきもぎこちなかったが、次第に鉄の音と息を合わせるようになり、金槌を振るうたびに胸の奥に眠っていた闘志が目を覚ましていくのを感じた。
そして――金床を打つ音に誘われるよう、この元と名乗る老人がふらりと現れたのだという。
夕陽の残光の中で、火花が舞う土間の向こうに、白い作務衣の姿が立っていたと一之進は懐かしさをかみしめるように説明した。
「ここはなかなかエエ砂鉄が取れるよってな。それをボンに教えただけや……」
そう言いながら、元老人はキセルを吹かし、目を細めながら昔を懐かしむよに、どこか遠くを見ている。
まるで、打ち上がる火花の向こうに過去の情景を見ているようだった。
「まさか私が、たたら製鉄までするとは思わんだよ!」
そう言って豪快に笑う一之進。その笑いは山に反響し、鳥の羽ばたきさえ呼び覚ますようだった。
笑い声が消えると、森の奥で遅れて鳴いた鳥の声が、どこか間の抜けたように響く。
すると十見子が皆に遠慮がちに言った。
「あの……そろそろ水を汲んでお暇しません?」
彼女の声は控えめで、しかし現実に引き戻すような響きを帯びていた。
森の湿った空気の中にその声が溶けると、誰もが「ああ、そうだった」と思い出したように頷いた。
十見子の意見に反対する者はいなかった。そして斎藤の命令通り、持ってきたペットボトルに湧水を汲み始める。
源流とは別の、苔むした岩の隙間から、湧き水が静かに流れ出ている。
そこには、かつて誰かが組んだであろう石の枠が残っており、苔と土に覆われながらも、その形はまだはっきりと残っていた。
手を伸ばすと、表面の石はひんやりと冷たく、長年の水流に削られて丸みを帯びている。
水はその石の縁をなめるように流れ落ち、底には錆びかけた柄杓と古びた竹筒が置かれていた。
透明な流れが日の光を反射し、手の中で冷たくきらめいた。
元老人は、皆が湧水を汲むのを横目で見ながら、優雅にキセルを吹かしているだけだった。
煙草の煙が青白く立ちのぼり、湿った空気の中でゆっくりと溶けていく。
だが、時折――如月の方を鋭い眼光で見やる。
その眼差しはまるで、鍛冶師が熱した鉄の分子を見極めるような常軌を逸した集中力のそれで、静かでいて、どこか刺すような鋭さがあった。
まるで、己の全てを見透かされるような視線だった。
如月も気にはなっていたが、早く食事にありつきたい気持ちが勝り、急いで汲み上げに専念した。
額の汗を手の甲で拭い、空になったボトルを一つひとつ冷たい水で満たしていく。ペットボトルの底が岩に触れるたび、軽い音が「コトン」と鳴った。
その繰り返しが妙に心地よく、やがて時間の感覚が薄れていく。
そして、30本近くある2リットルの空ペットボトルをすべて満たすと、カナレが暗い顔で言った。
「なあ、これ誰が持っていくんだ?」
その声には、現実の重さが詰まっていた。
森の静寂が一瞬だけ止まり、誰もがその“60キロ”という数字を脳裏に浮かべて無言になる。
合計60キロの重量。考えるだけで気が遠くなりそうだった。ボトルを詰めたリュックの肩紐が、手に取るだけでずしりと沈む。
「生身の体にはこたえますわ……」
十見子がぼやく声に、湿った風が重なる。彼女の額から落ちた汗が、ひとすじ、湧水の流れに溶けていった。
森盧の境界の森に入ってから、ギフトに付随する力はほぼ無効化された状態である。
空気はどこか鈍く重く、まるで森そのものが異能の気配を拒んでいるかのようだった。
肌を撫でる風に微かな抵抗を感じ、三人は互いに視線を交わす。それだけで、力が通じないという現実を改めて思い知らされる。
三人は同時に深いため息をついた。その吐息が白く揺れ、森の湿り気にすぐ吸い込まれていった。
そして少しの間をおいて、カナレと十見子が息を合わせるように言った。
「ジャンケンポン!」
如月もあわてて手を出した。
「あっ!?」
如月のチョキに対して、カナレと十見子はそろってグーを出していた。一瞬の静寂。次に、二人の勝ち誇ったような笑顔が弾ける。
「はぁ……なんなんだよ~」
試合では《神眼》を使い慣れている如月だが、まさかの直感勝負で敗北。
それがよほど悔しかったのか、ブツブツ文句を言いながら、ペットボトル入りのリュックを肩に背負って立ち上がった。
革の肩紐が軋み、背中の筋肉が悲鳴を上げる。中の水がわずかに揺れて、チャプンと鈍い音を立てた。
「重い……」
呟きは半ば呻きにも似ていた。
湿った土を踏むたび、リュックの重さが一歩ごとに沈み込み、如月の足跡が深く刻まれていく。
そんな如月の姿に、カナレと十見子は吹き出すように笑った。その笑い声が森に柔らかく響く。
抑えきれず漏れた笑いが、湿った木々の間を跳ね返り、どこか楽しげにこだまする。
森の重苦しい静寂の中で、ほんの一瞬だけ、三人の間に人間らしい温もりが戻った。
如月がカナレたちの視線をよそに、ふと元老人を見ると――拳が握られていた。その指は節くれ立ち、皮膚には長年、火と格闘した跡が刻まれている。
空手やボクシングのような構えではない。明らかに、それは“ジャンケンのグー”の形だった。
わずかに震える拳の上で、陽の光が木漏れ日のように反射し、その形を際立たせている。
(……イカサマ?)
はっと思い、カナレ達を見ると、二人はすでに遠くまで走っていった。背中に揺れるリュックの音が、森の奥へ小さく消えていく。
「如月っち~先に帰ってるからな~!」
カナレの楽しそうな声が森に響き、疲れがどっと如月の肩にのしかかる。笑い声が木々の間で跳ね返り、いつしか風に混じって遠ざかっていった。
その残響だけが、静まり返った森にふんわりと漂う。
「爺さん……あんた……」
如月の背筋を、目に見えぬ圧が這い上がった。
この元という老人――ただモノではない。
森そのものが彼を媒介にして息づいているような、静謐でいて抗えぬ“何か”が漂っていた。
元老人はどこからか取り出した立派な煙草盆を片手に、キセルの灰をカーンと落とした。
その動作は一切の無駄がなく、静かで滑らかだった。
指先の動き一つひとつが研ぎ澄まされており、長年の所作がすべて血肉になっているようだった。
透き通るような金属音が森に澄んで響く。
その音は木々の間に吸い込まれながらも消えず、どこか遠くの岩肌で柔らかく反響して返ってくる。
それは鈴の音にも似た余韻を持ち、葉のざわめきすら止めてしまうほど清らかだった。
風が一瞬だけ凪ぎ、森全体がその音に耳を傾けているように感じられる。
如月は思わず息を呑み、その音の尾を追うように目を細めた。指先の感覚が消え、背筋をかすかな冷気が撫でていく。
――まるで、森そのものが老人の一挙手一投足を見守っているかのように。
その瞬間、如月の胸の奥に、説明のつかない緊張が走った。この元という老人から発せられるのは、ただの老練さではない。
理を超えて存在する“何か”――静かにして深く、抗いがたい“圧”がそこにあった。
そして、ゆっくりと如月のもとまで歩み寄ると、彼女を見上げて言った。足音はほとんど立たず、草の上を滑るような静けさだけが残る。
「“兄ちゃん”あんた相当難儀しとるみたいやなぁ……」
その言葉の意味を理解するまで、時間はいらなかった。声は柔らかくも深く、まるで心の奥を覗き込まれるようだった。
(……なんだこの爺さん、俺のこと……)
心の中で疑いと警戒を同時に抱く如月。その胸の奥では、見えない糸がきゅっと張り詰める。
しかし元老人は、気にするそぶりもなく、ほんの少し口元をほころばせた。その笑みは炎の残り火のように温かく、同時にどこか遠い。
「まぁ、なるようにしかならんちゅうこっちゃ!」
歯切れのよい笑い声が森にこだまし、鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。
その羽音が頭上で渦を描き、木漏れ日が乱反射する。笑い声と羽ばたきが混ざり合い、森は一瞬、命そのもののざわめきで満たされた。
「師匠、良ければうちにお越しいただけませんか?僭越ながら、うちの娘が一席設けていますので」
一之進が気を使って元老人を誘う。
その声には敬意と懐かしさ、そして少しの期待が滲んでいた。
しかし、元老人は何も言わず、軽く手のジェスチャーで断ると、そのまま森の奥へと歩き去っていった。
背を向ける瞬間、風がひと筋吹き抜け、老人の赤いちゃんちゃんこがふわりと揺れた。
陽の光がその布に反射し、森の深緑の中で一瞬だけ炎のようにきらめく。
その姿が木々の影に溶けていくにつれ、鳥のさえずりも虫の音も、まるで時が息を潜めるかのように静まり返った。
白魔洞窟の入り口に残るのは、元老人がふかしていたキセルの残り香――。
それだけが、彼の存在を静かに伝えていた。煙草の甘く焦げた香りが、湿った苔と混じり、やがて風に溶けて消えていく。
それはまるで、長い夢の余韻のようだった。
誰も口を開かない。
ただ、森の奥からかすかに響く足音が、遠い昔の記憶を呼び覚ますように、ゆっくりと消えていった。




