第72話:白魔洞窟へ
「結局また山歩きですの……」
朝露を含んだ草の匂いが、足元からふわりと立ち上る。
如月とカナレ、そして十見子の三人は、一之進の先導で白魔洞窟の湧水の場所まで案内してもらっていた。
まだ太陽が山の端を越えきらぬ早朝。
空は灰青色の薄布をまとい、谷間には白い霧がゆるやかに流れていた。吐く息がかすかに白く、湿った空気が肌にまとわりつく。
木々の葉からは雫がぽとりと落ち、苔むした岩を打って静かな音を立てた。
薄靄のかかる林道を、皆は一歩ずつ確かめるように進んでいく。
先頭の一之進は、長い枝を杖代わりにしながら淡々と歩を進め、後ろの三人はその背を追って息を合わせる。
十見子は袖口で額の汗を拭いながら不満げに口を尖らせ、カナレはトボトボとした足取りで息を吐いた。
如月はそんな二人を横目に、道の端に揺れるシダの葉を無言で見つめている。
ケモノ道に比べれば整備された遊歩道ではあるが、それでも山気を孕んだ空気が肌に重い。
地面には前夜の雨が残り、踏みしめるたびにぬかるんだ土が湿っぽく音を立てた。
時折、風が梢を渡り、葉と葉がこすれ合い頭上を抜けていく。
その風が肌をかすめるたび、森の奥深くから湿った冷気が漂い、背筋をぞくりと撫でた。
小鳥のさえずりが遠くから響き、樹々の葉が風に鳴った。その音はまるで、森が如月達の足取りを見守るように呼吸しているかのようだった。
時おり木立の隙間から射す光が、朝靄の粒子を照らして銀の塵を舞わせる。
まるで、神域へと踏み入っていく者たちに対し、森そのものが“門”を開いたように――。
「斎藤さんもなかなかのスパルタだな」
朝の湿気を含んだ風が、梢を揺らしてざわりと音を立てる。一之進のその言葉に反応して、十見子がすぐさま顔をしかめた。
「そうですの!無茶苦茶ですわ!あの人!」
声が林に跳ね返り、鳥の群れが枝を鳴らして飛び立った。疲労の色を隠しきれないながらも、憤懣やるかたない様子で両手を広げる。
頬には汗が光り、息の端にかすかな苛立ちが混じる。
斎藤の言動がどうしても理解できない――そんな彼女に、一之進はまるで弁護するように穏やかな声で言った。
「それだけ君たちが素質あるってことだろな。なんせここは“ギフトの聖地”でもあるし」
その声は、年輪を重ねた木の幹のようにどっしりとして温かい。十見子は思わず足を止め、軽く息をついた。
聞けば、白魔洞窟の源泉はギフト能力の過度な出力を抑え、レストアタイムの治癒能力を高める効能があるという。
彼の話す声が、森の湿り気を帯びた空気の中でやわらかく響く。
それを聞いた十見子は、眉間に寄せたシワを少しだけ緩め、わずかに納得したような表情を見せた。
しかし、カナレは違った。
「でも、それってゾビ子の暴走気味なギフトを抑えるだけで、私たちはしっかりギフトをコントロールしてるぞ……」
ふてくされた顔で口を尖らせるカナレに、一之進は腹の底から笑い声を上げた。笑いは山間にこだまし、木々の間を渡って遠くまで広がる。
その豪快な響きに、十見子が思わず耳をふさぎ、カナレはむくれ顔のまま頬をふくらませた。
山の空気がひととき和む。
緊張と疲れの中に、ほんの少しの笑いと人間らしさが戻ってきていた。
「もしかして、カナレ君と如月君のどちらかは怖がりかい?」
その一言に、カナレの肩がピクリと反応した。一之進はその微妙な変化を見逃さず、わざと間を取るように神妙な口調で続けた。
「なるほど……そう言うことか」
一之進の含みある言葉に、カナレは口を開きかけて言葉を失った。
その頬がぴくりと引きつり、視線が泳ぐ。森の空気が、ほんの一瞬だけピタリと止まったように感じられた。
如月が興味半分に首を傾げる。
「もしかしてその洞窟、心霊スポットとかってやつですか?」
山の奥を抜ける風が、さらりと枝葉を揺らした。鳥の声も止み、静寂が妙に濃くなる。
一之進は如月の顔をちらりと見て、わざとらしく目を細めると、ゆっくりとカナレの方へ向き直った。
唇の端が、悪戯を思いついた子どものようにわずかに持ち上がる。
「……ふ、ふ、さて……どうかな」
にやりと笑うその表情が、霧の中で一瞬だけ鋭く光った。
「やだ!やだやだ!もう帰る!」
カナレの悲鳴が山に反響した。半狂乱になって叫ぶその姿に、如月は慌てて腕を掴み、押さえつけた。カナレの肩が小刻みに震え、顔が青ざめている。
「落ち着けって!」
如月の声も、どこか必死だった。風が通り抜け、木の葉がざわりと鳴る。笑い声は消え、代わりに森の冷たい湿気が肌に張り付いた。
(……やっぱりそっち系はだめなんだな……)
如月は心の中で小さくため息をつく。
斎藤の狙い――十見子にはギフトの抑制、カナレには恐怖の克服?。そして、如月自身は……。
なぜ自分まで同行させられているのか。ふと眉をひそめた如月の横顔に、木漏れ日の斑がゆらゆらと落ちた。
その疑問が表情に出ていたのか、一之進が豪快に笑いながら言った。
「君の場合は、うちの娘に会わせるためだったんだろうな」
言葉と同時に、彼の笑い声が森の奥へ響く。
風がまた吹き抜け、木々の間を抜けるたびに音が柔らかく返ってきた。
如月が首をかしげる間もなく、一之進は話題を変えるように、ほんの少し声のトーンを落として続けた。
普段のQueen Bee・研美と、なでしこ角力元横綱・研美の違いについて、如月に尋ねた。
如月は少し間を置き、静かに息を吸い込む。
森を抜ける風の音が、遠い昔の記憶を引き出すように耳を撫でた。
そして、思い出すように、ゆっくりと口を開く。
――BHCシングル王者。かつてはフリーとして多団体を渡り歩いた名選手。
だが、練習風景を見ていて感じたのは、どこか噛み合わない違和感だった。
動きの一つひとつが、正確ではあるのに“流れ”がない。踏み込みは鋭いが、受け身に迷いがある。
息遣いも独特で、リングの上に“間”を作る感覚がまるで異質だった。
基本的な身体能力は桁違い。
だが、受けの技術――つまり“プロレス”としての呼吸は、どこか素人めいていた。それなのに、彼女は圧倒的に強い。
その強さは、理屈ではなく“質量”でねじ伏せるようなものだった。土俵で対峙したときに感じた、あの膂力。
体がぶつかった瞬間、骨が軋む。押し返そうとしても、まるで地面ごと動かされるような錯覚に襲われた。
――単なる力の強さではない。
彼女は、力そのものを“支配”している。
まるで「力そのものを操っている」ような、圧倒的な制圧感。
しかし、その感覚の奥に、奇妙な既視感があった。
英二だったころ、彼は何人もの元力士上がりのレスラーと向き合ってきた。
彼らが共通して放つのは、“存在そのものの重さ”――呼吸ひとつで場の空気を変える圧力。
だが、研美のそれは違う。人の枠を逸脱した、静かで、そして無慈悲な重さだった。
現実の世界でも力士がプロレスに転向する――だが、鳴かず飛ばずで去っていく者は少なくない。プロレス界ではよくある話だ。
理由は単純明快。プロレス特有の間合いや流れが、土俵の感覚と噛み合わないからだ。
だが、研美は違った。彼女はその枠を越え、“強さそのもの”として、ただそこに立っていた。
なぜだろう。
なぜプロレスラーとして未完成でありながら、誰も勝てないのか。技や体格ではない。
それは、土俵という“神聖な場所”に生き続けてきた者の、目に見えない「質」――。
如月は眉を寄せ、胸の奥にかすかなざわめきを覚えた。その“何か”が、まだ掴めずにいた。
「それにしても君はすごいな!」
一之進が朗らかに言った。
その声は腹の底から響き、木々の葉を震わせるほどの勢いがあった。それは先ほどの研美とのぶつかり稽古を指していた。
「娘を持ち上げる膂力、久しぶりに胸がすく立ち合いだったよ!」
一之進の笑顔は、まるで春空を切り裂く朝日そのものだった。
大地に根を下ろしたようなその姿勢には、力の真理を知る者だけが持つ風格がある。
如月は苦笑して首を振る。頬に浮かぶ薄い汗が光を受け、微かにきらめいた。
「いや、立ち合いじゃないですよ。ただのぶつかり稽古。本番なら瞬殺されてました」
一之進は「なるほど」とうなずき、顎に手を当ててから、豪快に笑った。
その笑いは木々の梢を渡り、遠くの沢までその響きが届いたように思えた。
如月もまた、その響きを聞きながら、自分の胸の奥にかすかな熱を感じていた。
大地のように重く、しかし懐かしい熱。
あの一瞬、肉体と肉体がぶつかり合い、“真剣勝負の感触”だけが通じ合った。
「久しぶりでした……自分の純粋な身体能力だけで相手に挑んだのは」
その言葉は静かだったが、深く、揺るぎのない実感が宿っていた。指先が微かに震え、筋肉の記憶がまだ熱を放っている。
一之進はその言葉に感心し、森に響くほどの大声で笑う。
その笑い声が木々の間を抜け、鳥たちを驚かせて一斉に飛び立たせた。枝葉がざわめき、羽音が渦を巻いて遠ざかる。
やがて笑い声と羽音も消え、再び森が静寂を取り戻す。
(……やけに静かだな)
ふと気づく。如月は後ろを振り返った。いつの間にか、カナレが少し遅れて歩いていた。
猫背気味にうつむき、靴の先で石を蹴るようにトボトボと歩いている。その背中は、さっきまでの元気が嘘のように小さく見えた。
空気が少し冷たくなる。木漏れ日が枝の間を抜け、カナレの髪に斑の光を落とす。
その覇気のない姿に、如月は思わず声をかけた。
「大丈夫か?……」
如月の声には、わずかな心配と優しさが混じっていた。
カナレは頼りない笑顔を浮かべ、弱々しく返す。
唇の端をほんの少し上げただけのその笑みは、いつもの明るさとは違い、どこか力の抜けた影を帯びている。
その直後――。
グゥーッ!
森の静寂に響く、なんとも情けない音。
小川のせせらぎも鳥の声も、一瞬止まった。風が葉を揺らし、木漏れ日の粒がカナレの肩を照らす。
彼女の腹の虫が、盛大に抗議の声を上げたのだった。
「あはは!なんですのその醜い音は!それにその魚の死んだような目!」
十見子が腹を抱えて笑う。
その笑い声は森の中で反響し、まるで鈴を転がすように軽やかに広がっていく。
けれど、普段なら反撃するカナレは、うつむいたまま何も言わなかった。肩がかすかに上下するだけで言い返さない。
「……なっ……なんですの」
十見子も、いつもと違う空気を感じ取ったのか、急に笑いを止めた。彼女の表情が少し曇り、視線がそっとカナレへ向く。
風が止み、葉の擦れる音も消える。森の静寂が、ふたたび一行を包み込んだ。
一之進が、気の毒そうに微笑んで慰めるような言葉を返した。その声は柔らかく、どこか父親のような温もりを帯びていた。
「帰ったらたんとうまいものを御馳走するから、それまでの辛抱だ」
一之進の声は低く、どこか包み込むようだった。
その言葉に、空気が少し緩む。
緊張していた風がやわらぎ、木漏れ日が差し、葉の影が彼女たちの顔を淡く染めた。
どこからか、鳥が一声だけ鳴いた。その声は風に運ばれ、木々の間でほどけていく。
まるで「もう少し頑張れ」と言うように。
今この場にいない研美は、施設に残って皆のために料理を作っている――。
一之進は誇らしげにそう話した。声に混じる誇りと信頼の響きが、聞く者の胸をほんのり温める。
彼にとって研美は、角力の象徴であると同時に、愛娘なのだと如月は直感した。
カナレはかすかな声でつぶやく。
「……ちゃんこかなぁ……」
その言葉は風に乗って、ふっと空へ溶けていく。小さな呟きだったが、そこには期待と希望がにじんでいた。
一之進は笑い、うちの自慢のちゃんこは絶品だと胸を張った。
その瞬間、カナレの目に光が戻る。頬に紅がさし、肩の力が抜け、みるみるうちに活力を取り戻していく。
まるで木の芽が春の光に反応して開くように、彼女の表情がぱっと咲いた。
「よ~し!みんなラストスパートだ!」
ズンズンと山道を進むカナレの背中は、さっきまでの沈んだ姿が嘘のようだった。明るい声が木々に反響し、鳥たちが驚いたように飛び立つ。
如月はその後ろ姿を見て、思わず笑みをこぼした。その笑みには、あきれと安堵と、ほんの少しの愛しさが混ざっていた。
一之進はまたも腹の底から笑い声を響かせた。その声が山にこだまし、遠くまで広がっていく。
どこまでも響くその笑いは、まるでこの山そのものが笑っているかのようだった。
――そして。
「よし、みんな見えてきたぞ!」
一之進が指差す方向を全員が見た。
木々の合間に、暗い口を開けた洞窟が見える。そこから緩やかに流れ出す透明な水流。
陽光を受けて、細い流れがきらきらと光を反射していた。湿った岩肌には苔が生い茂り、涼やかな気配が漂っている。
白魔洞窟――。
「やったー!ついたぞー!」
カナレは子どものように駆け出し、十見子も並んで走る。息を弾ませ、笑い声を上げながら木々の間を抜けていく。
その後ろ姿を見守る一之進と、呆れたように息を吐く如月。二人の対照的な表情がどこか微笑ましかった。
「ふぅ……やっと着いたか」
如月は地面に腰を下ろした。
掌を地につけると、しっとりとした冷気が伝わる。水の流れる音、洞窟から吹き抜ける涼やかな風――。
それらが、まるで彼女らの努力をねぎらうように包み込む。風の中には水と石の匂いが混ざり、どこか神聖なものに似ていた。
空気には神社の境内のような、澄んだ神聖さが漂っていた。鳥の声も遠く、ただ水音だけが一定のリズムで刻まれている。
如月は息を整えながら、自然と背筋を伸ばした。
まるでこの地そのものが、何かを祀るために存在しているような――そんな気配があった。
その静寂を破るように、木陰から声がした。
「おい」
低く、乾いた声。まるで岩のひび割れから風が漏れるような音だった。
「ヒィ!」
カナレが悲鳴を上げた。全身をびくりと震わせ、慌てて如月の背後に隠れる。
如月は即座に立ち上がり、声の方向に目を向ける。空気がぴたりと張りつめ、森のざわめきが止んだ。
木陰の奥――大きな岩の上に、一人の小柄な人影が座していた。
風が吹き抜け、衣の裾がかすかに揺れる。その影は、まるで陽の届かない時間から抜け出してきたように静かだった。
カナレは如月の背後に隠れ、両肩を掴んで震えながらのぞく。掌の汗が如月の服を湿らせた。
如月は身構えたまま、低く声を放った。
「誰だ!」
声の主は岩の上から音もなく飛び降りた。
着地の瞬間、砂ひとつ散らさぬ静けさ。
その所作はまるで影そのものが形を変えたようだった。ゆっくりと歩み寄る。靴音もなく、ただキセルの吸い口がかすかに光を反射した。
やがて影が切れ、姿が現れる。
そこにいたのは――キセルをくわえた、小柄な老人だった。
真っ白な髭を顎にたくわえ、深く刻まれたシワの間に薄笑いを宿している。その瞳は水面のように静かで、どこか底知れない深さを湛えていた。
煙の香が風に乗り、洞窟の冷気と混ざり合ってゆっくりと溶けていった。




